第六幕 潜む化け物
お待たせしました。続きを投稿いたします。最後まで読んでいただければ幸いです。藤波真夏
第六章 潜む化け物
泉とすずは無事結婚式を済ませた。それと同時に無事旭は大学を卒業する。そこから泉との共同生活を終え一人暮らしをすることを決意する。泉もすずも一緒に暮らしてもいいんだぞ、と言っていたものの旭の決意は固かった。
旭は多くの荷物を荷馬車で運び、不動産屋から紹介してもらったアパートの一室へやってくる。寂しい気持ちはあるが大木の弟子になる話をうけたからには決意を揺らがせるわけにはいかない。アパートは大木の家に近い場所だ。今年から大木の家に通いながら極意を学んでいくことになる。
泉の結婚で全てが吹っ切れたのか、大木の弟子の話を受けることにした。やはり泉やすず、紅葉の勧めである。やはり自分は優柔不断で周りの手助けがなければダメなんだ、と実感する。
部屋に到着しとりあえず荷物を降ろした。泉と暮らしていた部屋より狭く、人間一人生活するにはちょうどいいくらいだ。畳のいい匂いが鼻を刺戟する。木目のある天井をただ見つめてぼーっとしている。
旭の交流関係は終わったわけではない。相変わらず毎日新聞社で働いている紅葉には大木の取材の仲介役を行うこともしばしば。泉は必死になって稼ぎ、第一作目の小説が出版された。そのおかげですずを身請けできた。現在は新生活を始めているが、泉の元で様々なことを学ぶこともしばしば。
めまぐるしく変わる環境の中で旭は様々なことを吸収していった。
旭は寝ている暇はない! と部屋の片付けを始める。今まで買い漁った本たちを本棚にしまう。しかし量は常識外の多さで一人暮らしのアパートの部屋に備え付けられた本棚に収まることはできなかった。
残った本は机の上に無造作に山積みにされた。部屋はまさに男の一人暮らしだ。のんびりとできるのはもう時間はない。明日には大木邸に通い、大木のそばで助手として支えさらに新人小説家としてのノウハウを彼から学んでいく。
今から旭は緊張して心臓がはち切れそうだ。
引っ越しも終わらせてひと段落、というわけにはいかなかった。これからは自分で全てを行わなくてはいけない。一番厄介だった本の次は服や家財を配置し、入れていく。これでまた多くの時間を取られ旭はため息をついた。
「結局丸一日かかってしまった・・・」
気がつけば日は落ちてすっかり夕暮れである。窓から差し込む茜色の光が山積みにされた本たちを照らし出す。旭はたった一つの窓を開けるとそこには真っ赤に染まった空とそれに照らし出された街の様子だった。旭の暮らす部屋はアパートの二階。そこから人が多くの人が行き交う姿が見える。買い出しに行くご婦人、家路を急ぐ制服に身を包んだ学生たちが旭の目に映った。
「なんて美しいんだろう・・・、なんだか、こんなに落ち着いて景色を見たの久しぶりな気がする」
すると旭の腹の虫が限界の声を出す。立ち上がり、財布を持って部屋を出た。腹の虫も忘れ一心不乱に店へ急ぐ。八百屋に行き、魚屋に行き、ハシゴ買いをしてアパートへ戻ってきた。
台所でジュージューと炒める音が聞こえてくる。野菜炒めと焼き魚の完成だ。
ちゃぶ台に置いて、一人手を合わせていただきます! と言い口の中に運んでいく。我ながら上出来じゃないか、と自画自賛をする。皿を流しに置いて畳の上で大の字になって寝そべる。
寝ていると「紅原! 風邪引くぞ!」という声がお決まりで聞こえてくるのだが、もう聞こえてこない。自分は一人なんだ、ということを実感する。
明日も早い。今日は早めに休もう、と風呂に入り、寝具を整え布団の中に入る。冷たく暖かい感触が旭の体を包んだ。そのまま眠りに落ちそうだったので、急いで電気を消しすぐに眠りについた。
朝になり、旭は準備をしていた。布団をたたみ、朝食と片付けを済ませカバンの中を確認する。初日から忘れ物はいけない、と念には念を入れる。中身を確認した後、旭は部屋を出て鍵を閉めアパートの階段を下りていく。太陽が昇り始めて多くの人々が行動を開始する。
「おや? 昨日の若造!」
「八百屋のおじいさん! おはようございます!」
八百屋を経営するおじいさんと挨拶を交わす。それから数秒もたたぬうちにまた声をかけられる。
「おやおや! 書生さん、おはよう。朝から元気だね〜」
「向かいの奥さん! おはようございます!」
旭の暮らすアパートの向かいに暮らす奥さんにも声をかけられた。旭は挨拶を交わし、先を急ぐ。この光景は旭にとって日常だ。幼い頃はあまり気にしていなかったが、紅薔薇に選ばれたあの日からこのような感じだ。まるで紅薔薇のせいで自分の中にある眠る獣が暴れているように思えてしまう。
しかし旭にとってみれば嫌いではない。人と人との交流をするのが大好きな旭にとってこれは苦しみというような感情は生まれなかった。
「お、おはようございます!」
やや上ずった声で大木の玄関で挨拶をする。すると扉が開いて大木の妻であろう女性が顔をだす。どちらさま、と聞いてくるので旭は名乗った。
「私、紅原旭ともうします! 今日から大木夏目先生の元で学ばせていただくのですが!」
「ああ! あなたがお弟子さんなのね。お待ちしてました」
妻は旭を家へ上らせてくれた。さすが文豪の暮らす邸宅である。情緒あふれる日本家屋で縁側から差し込む太陽の光が暖かくて心まで心地よい。そこからぼんやりと庭を眺める自分の姿が簡単に想像できる。
広間へ入ると浴衣姿で大木が待っていた。
「紅原くん。よく来たね。高野ご夫妻とは別でアパートを借りたみたいだが不便はないか?」
「はい。通いやすい物件を見つけたので不便はございません。大木先生、ご指導ご鞭撻のほど、よろしくお願い致します」
旭はこうして小説家見習いとしてのスタートを切った。大木夏目が唯一弟子を取ったという噂は瞬く間に帝都に広がり、いつの間にか新聞がそれを取り上げるようになっていた。
毎日新聞社はその話題で持ちきりになり、朝刊の注目記事として掲載されることになった。
『大木夏目、初弟子ヲ取ル。
文豪大木夏目氏ガ初メテ弟子ヲ取ッタコトガ取材ニテ判明シタ。弟子ノ名ハ紅原旭ト云フ新人小説家デアル。帝都大學在学中ニ実施サレタ大木夏目氏ノ特別講義ヲ受講シテオリ、世間ヲ騒ガセタ「特別課題」にて大木氏ニ最優秀ヲモラッタ実力者デアル。内容ハ非公開及ビ出版予定ハナイト云フ事ガ分カッテイル。期待ノ新星ニ注目デアル』
この新聞記事は多くの人に読まれ反響を呼んだ。記事を書いたのは白河紅葉、その人である。その記事がきっかけとなり旭は「大木夏目の門下生」として注目を集めた。
旭は大木の家で書生として様々なことを学んだ。小説家としてだけではなく大木は人間らしく生きるために旭に妻の手伝いをさせたのだった。
夜になり、縁側で一人庭を眺めていた旭。その隣にゆっくりと大木が座った。月明かりが庭を照らして美しかった。
「紅原くん。君が特別課題で作ったときの小説、私は今でも忘れられないよ」
旭が特別課題で作った小説は、泉とすずをモデルにした小説だ。あれはまだ世の中に出回っていない作品だ。それがどうかしましたか? と旭は聞く。
「あの小説は私では思いつかないのだよ」
「何をおっしゃってるんですか?! 大木先生ともあろう人が!」
「紅原くん。私は嘘など言っていないよ。あのようなテイストの小説はなかなか書けないものだよ。中でも主人公と芸者の心理描写は驚いた」
旭はあの時のことを思い出した。
あの時一心不乱にペンを動かしていた。原稿用紙がぐしゃぐしゃになるほどに。そう、あれは泉さんがすずさんに求婚したときだろうか・・・。あのときの泉さんやすずさんの様子を見ていたとき、僕の中に何かが降りてきたんだ。
「きっと知らないうちにモデルを作っていたんだと思います」
「モデル? それは誰なんだ?」
「高野夫妻です」
それを聞いて大木は納得して笑った。なんで笑っているんだろう、とこちらを見つめてくる。大木はすまない、と詫びた。
「モデルを作ってそれを小説に落とし込むというのはきっと君の持つ才能なのだろう。きっとこれからも何かしらのモデルがあってそれを君なりの解釈をしていくんだろう。紅原くんの小説の色はそういうものだということだ」
すると襖が開いて妻がお茶を運んできた。それを見てクスッと笑った。どうした、と大木が聞くと妻は答えた。
「いいえ。先ほどから見てましたが本物の親子に見えてしまって」
「それもいいな。紅原くんは息子同然だからな」
大木は旭の頭を撫でた。いつからだろう、実家を出て一人暮らしを始めてもう長い。最近は実家に戻っていない。旭の胸の奥が熱くなった。
「将来が楽しみですね」
「それをお前が言うか」
大木夫妻は笑った。その様子を見ているとまるで実家に戻ってきたような雰囲気だ。紅薔薇と呼ばれた高校生の頃。本当の自分をなかなかさらけ出せずにいた。居場所はないのではないか、とも思わせる。しかしここでは本来の自分で居られると旭はそう確信したのだった。
「大木先生! 僕、頑張ります。先生のご期待に応えてみせます!」
それを見た大木夫妻は笑った。まるで小さい息子を見ているような視線だった。
ちょうどそのとき。
紅葉も仕事を終えて街灯輝く帝都を歩いて家路についていた。真っ白なスカァトにカバン、黒い髪には白い薔薇の髪飾り。帝都にかかる石造りの橋を通るとき、足をふと止める。灯りが川の水面を照らしている光景をみたのだ。
「なんて綺麗なの」
言葉が思わず漏れてしまう紅葉。しばらくその場にいると、紅葉のきた方から声が聞こえて来る。男性の声のようだ。下駄の足音が橋を軽快に鳴らす。
下駄の音カラコロン
音が鳴って心は静かに踊り狂う
我が目に映る優しい街の光は心を落ち着かせ癒す
歩く先には何があるか、愛おしい何かか・・・
声は止まった。紅葉が見るとそこにいたのは旭だった。声の主は旭だったのだ。
「紅葉」
「まさかここで会うなんてね。大木さんの家からの帰り?」
「ま、まあ。そうだよ」
旭はそう言って橋の欄干に肘をついて紅葉の見ていた景色を眺める。ここの景色が好きなの? と聞くと旭は言った。
「うん。街灯が川に映ってすごく綺麗で、思わず思わず言葉が出てきたよ」
「じゃあのポエムみたいなのはあなただったの?」
「え?! 聞かれてたの?!」
「残念。丸聞こえ」
紅葉は笑った。それを見て旭は一言付け加えた。初めて笑ったところを見た、と。紅葉は首を傾げてこちらを向く。すると旭はあっ、と口を開けて固まった。どういう意味なのかわからず紅葉は「は?」と返事を待つ。
我に返った旭は顔を赤くしてそっぽを向いた。
「い、いや! なんでもない!」
「おかしな人」
紅葉は私家に帰るわね、と言って歩いていく。しかしそれを旭が止める。振り返ると意を決した顔をして紅葉のほうを見つめてくる。
「なんでもない」
「なんでもないなら声をかけないで」
紅葉はそう言うと歩いて行ってしまった。旭は唇を噛みながら橋の欄干にまた肘を乗せる。言えなかった、と悔しそうだ。旭の心の中に感情の渦が生まれる。久しぶりに紅葉に再会したのにおかしな気分だ。
一方の紅葉は家路を急ぎながら考えていた。あの人は一体何を伝えようとしたのだろう、と。しかし鈍感な彼女は何も答えは出ずじまいだった。紅葉は家に着くとカバンの中に入っていた大きな封筒を取り出す。新聞社からもらったものだ。給料袋にしては大きすぎる。
封筒を破き、中の書類に目を通すと彼女の表情は硬くなった。
思わず紅葉の手から書類がパラパラと落ちた。
「そんな、バカな・・・。どうして今・・・」
紅葉の手から落ちた書類に書かれていた言葉は---。
「異動願受理ノ報セ」
だった。
旭は相変わらず大木の家で勉学に励んでいた。教えの飲み込みがうまく、すぐにものにしてしまうあたりは天才の域だ。その日は客人が来ていた。
「お? 来たか」
大木が立ち上がると廊下に立っていたのは、泉だった。
「紅原! 久しぶりだな。元気にしてるか?」
「泉さん?!」
突然の泉の登場に鳩が豆鉄砲を食らったかのような表情になる。泉は遊びに来た、わけではなく仕事でやってきたという。泉が助手をしている森凛太朗のお使いだそうだ。森と大木は友人で交流が深い。
「大木先生。森先生からのお使いで来ました」
「待っていたよ。でも久しぶりの再会だろうに、せっかくだからお話していきなさい」
よっ! と手を挙げて挨拶をする姿に旭は懐かしさを思い出す。泉は今でも変わらない。兄貴分のようにいつも優しく見守ってくれている。元気でやっているか? と言ってくる。旭はなんとか、と笑った。
大木の指導は少し厳しい時もあるがそれは愛ゆえ。旭は自分の知識のなさを痛感して毎日国語の勉強に励んでいる。さらにネタ集めも欠かさない。「どこに小説のネタが転がっているかわからない」と大木に散々言われたためだ。
「今日、すずからお菓子を預かってきたんだ。よかったら食べてくれ。大木先生も」
「おお。妻君からか?」
「うちの嫁、今お菓子作りにハマりだして。台所が毎日甘い匂いで漂っている状況なんですがね・・・」
泉はそう言って笑った。愛しい妻のことを話している泉の顔は満ち足りていて絶頂の幸せを噛み締めているように見えた。
「そうだ! 大木先生、森先生からの伝言を・・・」
「ああ! そうだったね。忘れていたよ」
大木は泉と共に旭のいる部屋から出て行き、旭一人残された。旭は再び国語の勉強を再開する。
大木の書斎に移動した二人。泉はカバンから茶色の封筒を取り出して大木に渡す。
「これは?」
「森先生からお預かりした、今年の新人賞の書類です」
「これが来た、ということは紅原くんのことかね?」
「恐らくは・・・。きっと大木夏目の唯一の弟子、ということで注目が高まっているようです」
泉が大木の元へやってきた目的である森からのお使い。それは今年の新人賞の先行書類だったのだ。泉の師匠である森は新人賞の選考委員会に所属している。大木も以前は所属していたが自ら身を引いた。
多くの新人小説家に対し、応募書類が送られる。しかし、旭のように小説家に弟子入りをしている人たちにはその師匠である小説家の元に書類が渡る。つまり、弟子が多ければその中の一番を出品することもあるのだ。熾烈な争奪戦も勃発することもしばしばだ。
「泉くん。応募はいつまでだね?」
「え? 確か、九月だったかと」
大木は腕組みをした。何かを思案しているようにも見える。泉は紅原の作品を出品するつもりですか? と質問する。すると大木は言った。
「できれば出品はしよう。でもまだその時ではない。まだあの青年は花を咲かせてはいない。磨けば光る逸材だが、まだ時期尚早・・・。じっくり考えるとしよう」
大木は書類を書斎の机の上に置いた。
その夜。家に帰宅した泉をすずが割烹着姿で出迎えた。すっかり芸者から妻になっていた。すでに置屋を出て暮らしているが彼女の武器である三味線の腕は衰えてはいなかった。
「泉さま。大木先生と紅原さま、どうでしたか?」
「元気そうだったよ。紅原、大木先生にめっちゃ絞られてるみたいだ」
「あらま。それはそれは・・・」
すずは笑った。するとすずは新人賞のことを口にした。大木先生は旭の作品を出品してくれるのかしら、と。すると泉も首を横に振りわからない、と応えた。だがそれは旭の努力次第だと付け加える。将来が楽しみですね、と笑った。
旭は自分の部屋があるアパートへと戻って来た。相変わらず机には山積みの本が今にも倒れそうに揺れている。学生時代からのアルバイトも増やし、収入に飢えている状態だ。もう従業員と化していて信頼が厚い。
「お先真っ暗・・・かもな」
旭の口からこぼれたのは弱音。大好きなことを生業とするものの恐ろしさを旭は垣間見た気がした。しかも最悪なことに旭は突発型だということが大木によって伝えられたのだ。そのことを旭は鮮明に覚えている。泉が帰った後のことだった。
「紅原くん。君はどうやら突発型のようだ」
突発型? 病気みたいな名前ですね・・・。
「病気とは関係ないんだがね。小説の中身を思いつくのがハッ! と思いがけないところで思いつくことを私は突発型と呼んでいるんだよ」
そう言われてみれば・・・、僕はいつもそうだったような・・・。
「思いつけば一気に書きなぐるようなものを君は持っている。それが悪いとは言わないが、それを操れないようにならないと少し厳しいぞ」
そんな・・・。
自分は突発型小説家だ。
そう自分に言い聞かせた。いつ思いつくかわからない小説のネタ。良く言えば雷が落ちるように思いつく天性の才能。しかし天性の才能ほど一歩間違えば自滅必至の諸刃の剣である。
旭は自分が恐ろしくなった。自分の中にまるで化け物が潜んでいるかのような気がしてならなかった。
静かに旭は目をつむった。
翌日。
また旭は大木の家で大木の指導を受けていた。しかし心ここに在らずというような雰囲気を旭は醸し出していた。その様子をただ見つめていた大木は旭に言った。
「紅原くん。心ここに在らずだね。集中できないのなら今日はもう家に帰りなさい」
「え?! いや、待ってください! 僕は!」
「言い訳はしないでおくれ。帰りなさい」
「・・・わかりました」
旭は頭を下げて部屋を出て行った。旭に反論する勇気はない。旭は大木邸を出て行く。その後ろ姿を見た大木の妻は夫の元へ向かい、旭が出て行ったが大丈夫なのか、と伝えた。すると大木はこう言った。
「彼には今頭を冷やす必要があるのだ。彼の才能はすごいものだ。でもそれは一歩間違えば自滅必至の諸刃の剣だ。それを使いこなせるようになるまでは、静かに見守ることが懸命なんだよ」
大木邸を出て行った旭は一人で歩き続けていた。アパートには戻らず、帝都をただ歩き回った。晴れていた空は次第に黒い雲に覆われ始め、太陽の光は失われた。
「これは、一雨来るかもな」
それから数分後、雨粒が落ちてきて数秒後には大粒の雨に変化してひどい雨になっていく。
毎日新聞社での窓際で紅葉が見つめていた。雨が窓ガラスに打ち付ける音が聞こえて来る。
「ひどい雨だね、白河」
「確かに・・・。台風かしらね」
両手いっぱいに書類を抱えた阿部が話しかける。紅葉も心ここに在らずだった。阿部も心配そうに見つめているがそこへ谷崎がやってくる。
「谷崎さん?!」
「仕事はどうだ?」
「順調です。もう見出記事の校閲と編集終わりました。あとは谷崎さんの許可待ちです」
「そうだった・・・。忘れてたよ」
谷崎は笑い頭を掻いた。ため息をついた紅葉を見て阿部は笑っていた。しかし阿部は話を変える。紅葉に異動届の受理が届いたという話だ。それに谷崎は唸った。まさか異動が認められたのは谷崎にとっては痛いと。
「私も今更? って思ったんですが、受理の取り消しはできないので受け取るしかないです」
「でもどこにいくんだ? 新赴任地は」
すると紅葉は手招きをして阿部の耳にそっとつぶやいた。それを聞いた阿部は驚きのあまり口を開けたまま固まった。その間に遠くから紅葉を呼ぶ声が聞こえてきて紅葉はそちらの方へ走っていく。
呆然と立ち尽くす阿部は谷崎を見る。
「取り消し、できないんですか?」
「上の決定にはさすがに俺でも手出しはできねえよ。残念だがな」
「本人の意思は、尊重されないんですか?」
「最初は本人の意思もあっただろう。でも紅葉は女だ。難しいがまだ男の社会が多いせいで、このような無慈悲なことを言い渡すこともあるんだ。違うか、阿部」
谷崎はそう言い聞かせて、阿部に書類を手渡す。腕にかかる負荷がより重くなった。
「?!」
「これ、となりの部署に運んでおいてくれ。頼むわ」
「ええ?!」
「これ運んでくれたら神楽坂一番の料亭の料理ご馳走するからさ」
「そんなのでもダメですよ! また芸者遊びするんですか?!」
谷崎は冗談冗談! と笑いながら机に戻っていく。腕がそろそろ限界に近づいてきた阿部は急いで書類を一掃するために特定の部署へ走った。
新聞社の外に出ると傘なしでは歩けないほどの雨が紅葉を待ち構えていた。紅葉は仕事を終えて早めに会社を退社した。傘をさして雨の中を歩く。毎日新聞社近くの公園に差し掛かった時、紅葉は足を止めた。
紅葉はベンチにずぶ濡れで座っている男性を見つける。妙に気になって近くに寄ってみるとその男性は、旭だった。
「ちょっと! 何してるの?!」
旭の瞳にはいつもの明るさが失われていた。それに紅葉は驚いて、旭の肩を掴んで揺らした。まるで一人ぼっちの子供をあやすようだ。
「僕は・・・自分の、自分の中にいる化け物が怖い・・・」
「へ? 化け物?」
「この化け物がいる限り、僕は・・・、僕は・・・」
ずぶ濡れの旭は意識が飛んで紅葉にもたれかかった。紅葉は慌てて抱き上げ声をかけ続けた。しかし旭の名前を呼ぶことはなかった。
紅葉はやっとの事で自分の暮らす部屋へ運んだ。息を切らしずぶ濡れになりながら旭を運び、自分がいつも寝ているベッドに寝かせた。その直後、旭は目を覚ました。
「ここは・・・?」
声を聞いて紅葉が駆け寄る。意識が朦朧とするなかで旭が見たのは紅葉の姿。しかしいつものようにはいかなかった。帰って来たばかりで着替えもできていない。真っ白なブラウスは雨で濡れて素肌が透け、首からは雨水が付着し艶かしく見えてしまった。若い女性の怪しくて艶かしい匂いが旭の男としての潜在意識が徐々に刺激される。
「しろ・・・、ば、ら」
旭はそう言って紅葉の腕を掴んだ。しかもかなり強い力だった。紅葉が無意識に醸し出す色気に当てられ旭の理性が音を立てて崩れ去った証拠であった。
「離して!」
紅葉の叫びが旭の理性に通じたのか、旭は手を離し紅葉を見つめた。ようやく今自分は紅葉に助けられたのだと理解し始めた。
「紅葉・・・」
紅葉が驚きながらこちらを見ている。なかなか口をきけないまま、紅葉は湯呑みに緑茶を入れた。
紅葉も着替えて戻って来る。しかしなかなか言葉を交わせない。その沈黙を破ったのは、旭だった。
「僕の中に、化け物がいるんだ・・・」
「化け物? そういえば、ずぶ濡れになりながら言ってたわね」
旭は静かに話し始める。化け物という名の才能が怖い、と。その才能は自分を希望にも絶望にも導くものだと。しかしそれには紅葉はよくわかった。紅葉も新聞記者として大木を始めとする様々な小説家と対談や取材を重ねてきている。そこではやはり才能の枯渇に苦しむ者、才能の無駄遣いをしてしまって迷走している者、立派な才能ゆえそれに甘んじ身を滅ぼした者・・・。
「あなたの中に才能は絶対に『化け物』なんかじゃない」
「どうしてわかるんだ?」
「なんとなく。私は多くの人を取材してきたけど、あなたのような人たちを幾人と見てきたわ。化け物は使いようだと思うの。化け物だって寝名付けてしまえば、仔猫よ」
紅葉の言い分に旭は下を向いた。先ほど入れた緑茶は冷め、湯気を立てなくなった。しかし旭にはなかなか理解ができなかった。
「私はあなたならその才能を十分に発揮できると思っているわ。きっと大木先生もそう思って絶対に取らない弟子にあなたを選んだのだと思うわ」
旭はその言葉を聞いて、ベッドから立ち上がった。どうしたの? と聞くと旭は大木先生のところに行くと言ってカバンを持って紅葉の部屋を出た。
一人残された紅葉はため息をついた。これで良かったんだろうか、と不安を残しつつ片付けを始める。吹っ切れたはずなのにまだ自分は白薔薇の荊に囚われたままなのかもしれない、と感じる。旭も未だ紅薔薇の荊に囚われているような気がしてしまった。
なぜ、私たちは紅白薔薇に選ばれてしまったのだろう・・・。
何度それを自分に問いただろう。紅葉は窓の外で輝く星を静かに見つめていた。
旭は街灯の輝く道を急いでいた。旭は大木の言いたいことがなんとかく分かってきた気がする。それは小説家を目指す者が最初にぶつかる壁。それをどうこなすかを大木は見ているだとしたら? 頭を冷やせ、というのはそう意味だったのではないか? と旭は考えを巡らせながら大木邸へ急いだ。
大木邸に着くと扉を叩く。驚いて出てきたのは大木の妻。どうしたの? と旭を部屋へと招き入れてくれる。書斎に通されると大木が腕組みをして待ち構えていた。
「どうしたのだ、こんな夜更けに」
「夜分遅くにいきなり申し訳ありません。僕が愚かでした。自分が突発型小説家と聞いて自分の中に化け物がいるんじゃないかって勘違いをしていました・・・」
旭はただ思ったことを口に出していく。きっと未だに自分は紅薔薇の荊から抜け出せてはいない、それも相まって自分を追い詰めてしまったと。これは小説家の誰しもが通る道。ただ自分には少し厄介な付属品がついていただけだ、と。
「化け物との付き合い方で今後の小説家人生が決まる。僕は才能というものを恐れ、悲嘆にくれました。付き合い方を円滑にすればきっと・・・」
「それが君の見つけた答えか?」
「はい」
旭の目に迷いはなかった。それを聞いて安堵なのか呆れなのかわからない声を大木は出した。間違っていたのだろうか、と不安がよぎる。すると大木は合格だ、と笑った。何が起きているのか旭はわからない。
「紅原くん。試す真似をしてすまなかったな。君の才能はまさに諸刃の剣だ。それの使い方によっては身を滅ぼす。それは君もわかっているはず。自分なりの答えと身の処し方を教えたかったのだよ。まあ、君は私の一番弟子。私を尊敬してくれる可愛い存在よ」
大木の言葉に旭は畳に額をこすりつけるほどに頭を下げて礼を述べた。大木はそろそろ入ってくれ、と声をかける。すると隣の部屋から人影が二つ見える。
「泉さん?! すずさん?!」
「旦那さまが『紅原が心配だ! 大木先生の家に行くっ!』って駄々をこねるものですから」
「駄々はこねてないだろ。話を盛りすぎだ。でも安心したよ」
泉とすずが安堵の表情でこちらを見ている。旭は大木だけではなく佐野泉夫妻まで心配させてしまったことに恥ずかしくなった。
「紅原さま。お腹、空いていませんか?」
「あ、少し」
「では大木先生の奥様とお料理作ってまいります。大木先生、よろしいでしょうか?」
「ああ。頼む。家内も大勢の食事が大好きだからな」
すずはそう言って台所へ向かった。
旭は胸に手を当てる。心臓の鼓動が伝わって来る。はたまたこれは自分の心臓なのか、化け物の心臓なのかわからない。旭は覚悟を決める。化け物を手懐けると。きっと大木も賞賛する小説家になる、と。
静かに、貪欲に・・・。
その後、大木邸では灯りが灯り、少し遅めの夕飯が振る舞われた。悩み疲れたのか、旭は腹一杯に夕食を頬張り、今日はアパートには戻らず大木邸で一泊していくことになった。
旭が出て行った後の紅葉は一枚の封筒と一対一になっていた。おもむろに見える帝都の光。それを見てふと涙が一粒零れた。涙の意味が何なのか、紅葉は知る由もなかった。ただ言えるのは、刻一刻と荊が解かれ二人の人生が本当の意味で自由を得てきた証拠なのかもしれない。
美しい帝都の光。温かい家庭のぬくもり。そして、涙で濡れた悲しみの色。
様々な色と光に僕らは満たされていたんだ。紅白薔薇の荊は緩んでいくのがなんとなくわかる。それはきっと、僕だけじゃない。
人生の歯車が数年の時を経て、ゆっくりと動き出す音を聞いた・・・。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。いよいよ佳境に入ってまいります。次回の更新を気長にお待ちください。お気軽に感想、レビュー、評価等よろしくおねがいします。 藤波真夏