第四幕 恋の鈴が音をたてて
第四幕です。
第四幕 恋の鈴が音を立てて
旭が大学生になって三年が経過した。泉は無事大学を卒業し小説家としての第一歩を踏み出した。泉は旭を追い出すことなどせず大学卒業まで彼を部屋に住まわせることにした。せしかし新人小説家にはなかなか収入源がない。そのため、有名小説家の森凛太郎の元で助手の仕事をしていた。
旭も小説家を目指し日々勉強とアルバイトに追われる。
そんなある日。アルバイトが終わり疲労困憊の旭は部屋で布団の上で仰向けになっていた。もう瞼がくっつきそうだ。空腹だったが疲労のせいで腹の虫も鳴く気がなくなった。
「紅原! 出かけるぞ!」
「はい?! どこへ?!」
「神楽坂だ!」
旭は泉に連れられて神楽坂へ連れてこられた。泉曰く助手をしている小説家の人が重版の祝いに宴会を催すというのだ。しかも神楽坂で芸者を招いて行ういわゆる大宴会である。
神楽坂は昼の顔ではなく夜の顔を見せていた。明かりがチラチラと輝き、美しい着物を身にまとう女性たちが往来しそれに目移りしてしまう。
店の中も雰囲気は十分なほどあり、旭にしてみれば自分が場違いな感じがして今すぐこの場から立ち去りたい気持ちが溢れる。
「泉さん・・・。僕、帰っていいですか?」
「紅原にはちょっと早かったかもな。でも普段あまり食べられないご馳走ばかりだぞ。少しは食べておけ。もしかしたらもう食べられないかもしれないんだぞ?」
泉におされ旭は箸を持ち、恐る恐る料理を口に運ぶ。その様子に芸者たちが純粋でかわいい子だ、とクスクス笑う。まるで子供が初めて大人と同じ食べ物を食べたときのように緊張感がある。
すると奥の部屋から三味線を持ったすずが入ってきた。美しく化粧をしたすずはゆっくりと手を動かし弦を弾いた。三味線独特の音が部屋の中に鳴り響く。旭は周囲を見渡す。すると泉が助手をしている小説家がいない。
「泉さん。泉さんの小説家先生はどうしたんですか?」
「ああ。凛太郎先生、酒が少し苦手らしくて・・・。今、風に当たってくるって言ってたよ」
「お酒が苦手なのになんで神楽坂に?」
旭が聞くと泉はカバンから新聞を取り出し、旭に見せる。そこには神楽坂の名所や店のことが詳しく特集されている記事が載っていた。見ると今旭たちがいる店のことが大きく取り上げられている。
「この特集を見てせっかくだから行こうって俺が提案したんだ」
「小説家先生がお酒苦手なのにどうしてここにしたんですか?」
「俺の趣味と興味本位? これで理由になるか?」
「僕はあまり納得できません」
旭はため息をついた。泉は頼りになり先輩ではあるが時折旭も驚くことをやってのける節がある。旭は言葉を発することなく料理を口に運んだ。
「ごめんやす」
すずが酒を泉のお猪口に注いだ。泉はそれを飲み干した。すずは泉に話しかける。
「高野泉さまのお仕事は何をなさっているのです?」
「え?! あ、小説家の助手をしてます」
「助手さん? てことは未来の小説家ってことやね。頑張ってくんなんし」
すずはパアッと笑った。それを見た泉は次の瞬間、心のどこかで何かが音を立てた。その瞬間、すずの顔をまっすぐ凝視できなくなっていった。泉の心の中のざわつきが治ることはなく、心のさざ波はしばらく続くことになった。
神楽坂を後にし、泉と旭は自分たちの部屋へ戻る。旭は何度泉に話しかけたが泉は反応が鈍い。まるで何か物思いにふけっているようだった。いつもなら会話に乱入するほどの豪快さを持つが今旭の目の前にいる彼はその豪快さの「ご」の時も感じられない。
それは連日続き泉が夢から覚めない。
旭はそれが心配になって泉に何があったのか聞くことにした。泉はなんか心がザワザワすると言い出す。言葉の選び方が独特すぎて旭は終始困惑する。当事者は泉であるために旭は原因を究明することはできなかった。
一方の神楽坂ではすずが仕事を終え、置屋に戻っていた。寝巻きに着替え、部屋に落ち着いているとふと鏡台を見てニコッと笑い、すずは鏡台の下についた引き出しから髪飾りを取り出す。
「早く、また来てくださいな、紅葉さん」
髪飾りには真っ白な白薔薇が装飾されていた。それは無個性の象徴と揶揄していた花の本来純潔で美しい姿を見せていた。
数日後、旭は帝国大学にいた。今日は小説家を目指す若者たちが多く集まる特別講義がある。旭はこの日をどれだけ待ち望んでいただろう。大木夏目の講義だ。
ぞろぞろと学生たちが入り大教室はほぼ満席。空席はない。今か今かと待っていると見たことのある顔が見える。それを見た瞬間、教室は一瞬で静まり返る。
黒い燕尾服に髭を蓄えた初老の男性が教壇に立つ。彼こそが大木夏目、大日本帝国を代表する大物小説家である。彼の醸し出すオーラに誰しもが圧倒され言葉を失う。
あの人が大木夏目先生・・・。すごい、本物だ・・・!
「学生諸君よく来てくれた。今回このような機会をいただけたことを感謝している。それとともに未来を担う若者たちに向けて文学の道筋の書き方や基本的なこと、小説を書く上での重要なことを講義させていただく」
大木は黒板に文字を書きながら講義を進めていく。旭はすぐに講義の中に引き込まれ何かに取り憑かれたように一心不乱にノートに書き込んでいく。時間の経つことも忘れ、旭はただ教壇で話す大木だけを見ていた。
「今日、私から特別課題を出そう」
それに多くの学生がどよめきを隠せない。大学の教授ではなく特別講師しかも日本一の小説家が出す課題など前代未聞だ。学生たちは何を出すんだろうとザワザワと騒ぎ出す。期待と不安が高まる中、彼は笑顔で告げた。
「ここにお集まりの学生諸君は未来の物書きの卵と大学教授の皆様から伺っている。そこで皆に自分だけの小説を書いてくれたまえ」
その瞬間、どよめきが走る。学生たちは驚いて口々にしゃべりはじめる。旭もあまりの驚きに言葉を失う。おそらく課題を添削するのは大木本人だ。それは神様の采配のようで気が引ける。あまりにも恐れ多く学生たちの不安がよぎる。
「ジャンルは問わない。今回講義した文脈をしっかり守ればどんな人でも物語が書ける。私はそう思っている。学生諸君の新鮮な小説を楽しみにしている」
期限は次回の特別講義のある一ヶ月後だ。それまでに一つの小説を書かなくてはいけない。旭は大きな不安を抱えながら家路に着いた。
「ブッ! はあ?! 大木夏目から課題がでただぁ?!」
家に戻り泉に相談すると泉は口に含んでいた水を勢い良く吹き出した。さらに水が気管に入ってしまったのか咳き込み出す。泉曰くそれはよっぽどのことだ、という。
「大木先生といえばこの国を代表する著名な小説家だ。彼はどういう意図でこのような行動に? 大木先生はお忙しい方だから何百人分の小説を読むのは難しいんじゃないか?」
「僕もそう思うんです。大木先生の意図が読めません」
「でもそんな発言をして大木先生は大丈夫なんだろうか・・・」
「へ? どういうことですか?」
泉は大木の発言に関しあることを懸念しているという。旭が聞くとあくまで噂だ、と付け加えて話してくれた。
その翌日。
その泉の懸念は現実のものとなる。毎日新聞の朝刊に大々的に報じられたのは、
大木夏目、帝都大學ニテ特別講義。特別課題課ス。
大木が行動を起こすとたくさんの新聞社がこぞって取り上げる。しかしその記事の内容は大木にある疑念を生んだと書かれていた。
「『大木夏目氏ガ帝都大學ニテ特別講義ヲ行ッタ。ソコデ学生各位二特別課題ナルモノ課ス。ソノ詳細ハ、各々小説ヲ一本製作シ特別講義ガ開講サレル一ヶ月後提出ト云フモノ。
之二関シ様々ナ憶測ガ飛ビ交ッテイル。巷デハ後継者探シヤ小説家トシテノ才ガ尽キタタメ有能ナ若者ヲ引キ抜ク為デハナイカト囁カレテイル』・・・。大木先生がまさかこんなことあるわけがないですよね、泉さん」
朝刊を読んだ旭が聞く。泉は最悪だ、とつぶやいた。泉は旭の手にあった毎日新聞を取り上げた。そこには大木に関係する記事が書かれている。
「これはこう取り上げられても仕方ないかもしれないな。大木先生はある意味老将だ。大木先生がこう言われてしまうのは仕方がないのかもしれないな」
泉はハアッとため息をついた。
「でも旭。どうすんだ? 小説のネタはできたのか?」
「それが、全然・・・。なんか大木先生のオーラが凄すぎてなんか引けてしまって・・・」
泉は少し笑った。でも期限は一ヶ月あるから気長に考えればいい、と返す。
その夜、旭は学生時代の夢を見た。
まだ学生服に身を包んでいる自分がいてあの例の薔薇が咲く中庭でぼんやりと過ごしている。そこに真っ赤な薔薇が咲いている。そして自分の学制帽にも真っ赤な薔薇のエンブレムがある。一体なぜこれがつけられたのか、記憶が薄れて曖昧になっている。
なんだ、これ?
そうつぶやいた時、記憶は遡りじわじわと難解なパズルのピースが一つずつ当てはまっていく。どうしてそれを忘れてしまったのだろう、と旭は自問自答をする。だけど答えなんて見つからない。忘却の彼方へ飛ばしてしまったかのようだ。
「紅薔薇の旭! 紅薔薇の旭!」
どこからか聞こえて来る声。これはおそらく同級生の声だ。
ほぼ同時刻。
紅葉も夢を見た。悲しくて辛い学生時代の思い出。思い出したくもない闇の記憶。白薔薇と揶揄され続けた苦悩の日々。
「まさかこの女学校から白薔薇が出るなんてありえない! 今までなかったことなのよ?!」
私は紅薔薇にはなれない。こんな性格だから・・・。こんな自分が嫌い! この世から消えてしまいたい!
それ以来だ。髪に白薔薇の髪飾りをつけることが義務化されてしまったのは。それは卒業するまで外すことは許されなかった。自分を変えたい。でも怖い。あの薔薇の話は世間まで及ぶ有名な話で社会に出たら一生それから逃れられない。
私は、前に進まなきゃいけないのに!
紅葉が叫んだ瞬間、紅葉は目が覚めた。目からは涙を流して暗い天井を見つめていた。紅葉は上体を起こし化粧台の引き出しを開ける。そこには因縁の白薔薇の髪飾りが静かに眠っている。
「なんで捨てられないのかしら」
紅葉は部屋の窓を開ける。まだ夜は明けない。夜空には満月が輝いている。夜風が冷たくて長い髪がなびいた。私は一生白薔薇だ、と思う心と神楽坂で出会った芸者すずの言葉「白薔薇は本来清純さを象徴するもの。それなのに無個性というものをつけたのはそう決めつけた人間たちだ」と前向きに思う心。二つが紅葉の中でぶつかり合い、決闘をしている。
時計を見ればもう日付は変わっている。朝日が昇れば仕事が待っている。紅葉は結局眠ることができず朝を迎えた。
そして朝がきた。
今日は阿部と二人で再び神楽坂への取材だ。しかし神楽坂の取材よりも二人の話題はこちらのほうへ向いている。
「そういえば、芸能部の伊藤さんが見つけてきたネタ、かなり大きく載ったわね」
「そうだね。何しろあの大木夏目の記事だからね。彼ほど新聞の見出しを独占できる人物はいないさ」
「でも霞むね。私たちの記事」
「ま、まあ、それは仕方ないよ。だって俺たちまだ新人だよ?」
「いつまで新人ぶってるのよ。私も阿部くんも新聞社に入社してもう二年ぐらい経つわ。もう新人じゃあないでしょ」
二人は路面電車に乗り込み、神楽坂へと急ぐ。今回は二人だけの取材だ。谷崎はお座敷通いを連日続けていたせいで奥方に説教された上、自宅謹慎になってしまった。
これが上司って呆れる。でも敏腕で部下からの信頼が厚いからなあ・・・。
紅葉はそう思った。そうこうしているうちに神楽坂へ到着する。場所は谷崎と訪れた店だ。中に入るとすずが笑顔で出迎えてくれた。
「ああ! 紅葉さん! いらっしゃい! どうぞ、おあがりください!」
すずはまるで自分の家に招いた友人のように振る舞う。二人は店の中に入り、すずのお姐さんに取材を敢行する。すずのお姐さんはこの店で一二を争う芸者だ。三味線の腕は店一番。後輩たちにも尊敬される女性だ。
「では、あなたを目当てに訪れるお客さんが多いんですね」
「そう聞いております。我ながらお恥ずかしい話です」
お姐さんは笑顔で語ってくれる。それを聞くのは阿部、書き取るのは紅葉の仕事。紅葉はお姐さんを見続けた。相手は自分と同じ女性であるのにも関わらず、見続けてしまう。女も惚れる美しさというのはこういうことを指すのか、と思う。
取材が終了した後、阿部は取材メモを新聞社に届けるため店を出て行った。紅葉も帰ろうとするがすずがもう少しお話したいと残った。
「で、お話というのは?」
「実はご相談がありまして」
すずは部屋の奥から一冊の本を出した。それは最近出版されたものだ。これは? と聞くとすずは言う。
「この本を書いた方の助手の方、高野泉さまに会いたいのです。しかしこの店に来てくれる予定はわからないのです」
「高野泉、さま? ごめんなさい。つまり?」
話の意図が読めなくて紅葉は聞き返した。
「この方のことを考えるとその・・・胸が苦しくなるのです。今までこんな経験ございません。なんなのでしょう・・・」
すずの真剣な相談に紅葉はすずの相談事が薄ぼんやりと頭の中に流れてくる。紅葉は自分では知らないうちにその言葉を口にしていた。
「・・・恋煩い、とか?」
「?!」
その言葉ですずの顔はポッと赤くなる。真っ赤な着物の染料が落ちて頬を染めたように見えた。恋をすると女性は魅力的になるというがまさにそうだと紅葉は思い知る。
「でも私に相談するのもいかがなものかと思うんです」
「いいえ。神楽坂にある多くの店にお勤めしている芸者や芸妓たちは毎日厳しい稽古の上に成り立っています。もちろん恋なんてできません。ご法度です」
「恋愛禁止ですか」
すずが首を縦に振った。しかし紅葉にはできる、と確信がある。それは彼女が新聞社に勤めているからだ。紅葉は引き受けましょう、と承諾。すずはありがとう! と言った。紅葉は一旦会社に戻ると立ち上がる。するとすずがそうだわ! と言って奥の部屋へ引っ込む。一体何が始まるのだろう、と紅葉はそわそわと待つ。すずが戻ってくるとその腕には美しい着物があった。
「紅葉さん! 折角だから少しおめかししませんか?」
「は?! 私はこれから会社に・・・」
「存じ上げております。しかし、女性にお生まれになったのであればこれくらいのことはしなければなりません。今回相談に乗ってくれたお礼です。是非!」
おしゃれに疎い紅葉はすずの勢いに押され承諾してしまった。紅葉は店の衣装部屋に引きずり込まれ、すずがまるで紅葉を着せ替え人形のように着物を着付けてみてはあれでもない、これでもない、と思案し始める。
最終的に紅葉は赤い着物に収まった。着物には花の刺繍が施されている。さらに一つに結っていた髪の毛の解き、結い上げ簪を挿した。鏡を見るとそれは先ほどとは似つかない。不安がる紅葉をただすずは似合っている、綺麗、と言った。
紅葉は着物を着たまま、店を後にする。芸者が神楽坂を闊歩しているように見えて周囲の視線を受ける。恥ずかしくて仕方がない。神楽坂から東京のど真ん中を歩いている間にすずの考えがだんだんと見えてくる。
私は新聞社勤め。いろいろな憶測や情報が飛び交う。しかも今、大木夏目に関する記事を多く取り上げていたために他の小説家の情報を取り入れることもある。もしかしたらその中にすずの会いたがっている助手が手伝う小説家がいるんじゃないか、っすずさんは考えたのかもしれない。
「でも、恥ずかしいっ! 早く会社に行かなきゃ!」
すずの息の切れる音が響く。紅葉が走る道の先には旭が泉と歩いていた。
「泉さん、本気ですか? 僕、あんまりそれ嬉しくないです」
「俺は本気だ、紅原! 先生のところに言って真相を確かめてみたいんだ!」
旭と泉はある場所に向かっていた。二人で喋りながら道を歩いていると一瞬だが紅葉とすれ違った。しかし互いにそれがあの時の記憶と通じるものはなくただ素通りして終わった。旭はフッと何かがおりて振り向いた。
「今のは・・・」
しかしそこにはいなかった。
旭の感じたあの違和感は一瞬にして粉砕され、またいつもの日常に戻った。それを感じたのは旭だけではなかった。彼女、紅葉もそうだった。何かを感じて振り返るも旭の姿はなかった。
「今・・・何が・・・」
紅葉も肝心なことが思い出せず、それを捨て置き急いで会社へ戻った。編集室に入った瞬間の視線が痛く感じる。それは道中の時とは比べものにならないくらい多い。結局着替える暇もなく谷崎の前へ姿を現した。
「白河・・・、どうしたんだ、その格好?!」
「・・・ちょっと色々。わけは後で話すので、これ以上の詮索はやめてください・・・」
今にも消え入りそうな声で紅葉は話した。谷崎は上から下まで紅葉を凝視する。そして笑いながら頭をかかえる。
「いやあ、化けるものだね」
「何言ってるんです」
「悪い、白河。これでも俺は褒めているんだよ? 君は普段こんなに着飾らない。その着物はきっと神楽坂の、芸者の姐さま方の仕業だな?」
「姐さま方というか、すずさんにやられました・・・」
谷崎はすずの行動に感謝しきりで話を展開する。それには紅葉はうんざりしいい迷惑だよ、と呆れ顔をした。そして話は本題に移る。白河は谷崎に言ってかつて発行された新聞が保存されている倉庫の鍵を借りた。本来ならば新人は借りることは難しいことなのだが、紅葉を見込んで谷崎が許可を出したのだ。
真っ暗な倉庫へやってきた紅葉は外の光を倉庫の中に入れる。その瞬間、溜まったホコリが顔を出し倉庫内に舞う。紅葉が咳き込む。
「さて、この中に実際の記事があるのかどうか?」
紅葉はすでに元の格好に着替え、倉庫内を捜索し始めた。
紅葉はすずから預かった小説を谷崎に見せると谷崎から有力な情報を得た。森凛太郎は特別賞を獲得した作家でかつて新聞に載ったことがあるということ。しかし紅葉が調べなくてはいけないのはその作家の助手だ。それを相談するとあの新聞には当時助手たちの名前も載っていたという。発行した新聞たちは倉庫内に処分されることなく保存される。
紅葉はこの時すでにすずのために何かをしたい、という思いが勝っていた。藁にもすがる思いで賭けに出た。
一方、旭と泉は趣の感じられる家の前にいた。
「ここが先生の家? よくわかりましたね」
「森先生が知り合いなんだよ。先生も気になっているからね。自分は仕事で行けないから代わりに行ってきてくれたら助かるって言ってくれたからね」
家の表札には「大木」の文字。あの記事の真相を調べるためにわざわざ大木の家に尋ねるという無謀なことをしたのだった。扉を叩くと大木本人が出迎えた。旭は緊張し体はカチコチだ。体が思うように動いてくれない。
緊張する体を無理やり動かして家へお邪魔する。一番に大木に声をかけたのは泉だった。
「この度は急なご訪問を許してくださりありがとうございます。私、森凛太郎の元で助手をしている高野泉でございます。こちらは帝都大學の学生の・・・」
「あっ、紅原・・・旭・・・です」
旭は緊張のあまり声は上ずり言葉が出てこない。目の前にはあの教壇に立っていた文豪がいる。緊張して当然のことだ。泉も内心緊張で冷や汗が止まらない。
「かまわないさ。今日は森くんのお使い、かい?」
「あ、はい。森先生が大木先生を心配なさっておいででした。新聞には特別課題で学生たちを引き抜くなど言われていますが、それはどういったことか? と言っておりました」
大木はフフッと笑った。なぜ笑ったのか泉にも旭にもわからなかった。しかしその真意は次第にみえてくる。
「そのように騒がれていたのか。森くんにすまなかったと言っていたと伝えておくれ。私は教壇に立って驚いたのだよ。ここまで小説家を目指したいという若者がたくさんいることに。長年助手や門下生を持つことを拒んできた私もそろそろ現実を見るようになったんだ」
旭は驚いた。
あの大木夏目の口からそんな言葉を聞くとは思わなかったからだ。
「だから、特別課題を課したんですか?」
知らないうちに旭は自然に大木に話しかけていた。大木は旭の眼差しに少し驚きを覚えながらそうだ、と頷いた。
「僕、大木先生の本全部読みました。時には新鮮に時には冒険、さらに人間味あふれる人情物、青春、ミステリ。大木先生はすごいです。先生が課題を出した意味、なんとなくわかる気がします」
「君は講義を受けていたのかね?」
「はい」
「そうだったのか。どうかね、進み具合はどうかね?」
「じ、実は、あまり筆が進まないんです」
旭は申し訳なさそうに言う。するとそう簡単に小説は浮かびませんから、時間をかけて良い物を作ってください、と助言した。
「まあ森くんには安心してもらってほしい。今日はすまないね」
「こちらこそ失礼いたしました」
泉と挨拶を終えて旭は大木の家を後にした。彼らが家を出て行った後、大木は引き出しからあるものを取り出す。それは何百枚も重なられた原稿用紙だった。それは世に出回っていない完全新作の小説だ。しかしその小説はまだ完結していない。肝心の結末が書かれていなかった。
「あの純粋な目を向けられては言い出せないではないか。でも、読者たちのためにも頑張らなくては・・・」
大木は純粋な目を向けていた旭を思い出す。彼を見て浮かんだのは艶やかな紅薔薇。薔薇のように華やかだったことが大木の頭に残った。
大木の家を後にして旭は泉と共に部屋へ戻った。
「よかったですね。あの記事はあくまで噂にすぎなかったんですから」
「そうだな。これで森先生にも安心して伝えられるよ」
泉は笑って床に腰掛けた。旭は机の上に山積みにされたノートや講義資料を見て我に帰る。
「はっ?! 特別課題!」
期限は一ヶ月後だった。そろそろ書き出さなければ間に合わない。旭は顔面蒼白で床に突っ伏す。しかしいいアイデアは浮かばず、さらに何も浮かんでこない。頭の中に浮かんだのは昔の思い出だった。
そう、あの頃。
大学生になる前のことだと思う。僕はいたって平凡で普通の人だった。でも友達はわりかし多い方だったと思う。声が響いてくる。
紅薔薇の旭だ! 紅薔薇の旭だ!
耳障りだ! やめてくれ! 僕はただ普通の学校生活が送りたいんだ! どうして僕をそういう目で見てくる?! 僕は紅原旭! どうして紅薔薇の荊にがんじがらめにされなきゃいけない?!
普通の生活が一変。僕の周りが一瞬に変わってしまった。
白い薔薇に包まれた後ろ姿の女学生。ねえ、君は誰? 僕は何かを忘れているの?
白薔薇・・・、白薔薇?
気がついた時には旭は汗を流していた。目の焦点がゆっくりと定まってきて心配そうにこちらを覗いてくる泉の顔が見えた。
「大丈夫か? またうなされてたぞ。本気で病院に行くこと考えたほうがよさそうだ」
「悪い夢を見ていただけですよ・・・」
「紅薔薇か?」
核心をつかれて旭は言葉を失う。泉は窓を開ける。そこからひんやりとした風が部屋の中へ入ってくる。泉は静かに話し出す。
「紅薔薇と白薔薇。お前はある意味被害者だ。白薔薇は白薔薇で苦労は絶えない。だからと言って紅薔薇が順風満帆な生活を送れる保証はどこにもない。自分自身では見てもらえず、常に紅薔薇という言葉が付いてくる。普通でいたいのに普通じゃない扱いをされて心がえぐられる。理不尽だとお前だって、感じているだろ?」
「おっしゃる通りです」
「それを覆すことはほぼ不可能だ。その苦しみは選ばれてしまった本人しかわからない」
泉はいつになく真剣だ。泉は旭に過去を少しずつ話し始めた。
俺には親友がいた。いつも点数で競い合い、遊びに行ったり、もういつも一緒だった。でもその時間は突然終わりを告げた。
親友が、白薔薇に選ばれたんだ。それから俺と親友の生活は一変した。親友は毎日ひどいいじめに遭った。俺はそれでも親友と一緒に生活をした。だけどその影響は親友だけではなく俺にも及び始めた。
親友は俺を守ろうとしてくれたのか、突き放したんだ。俺のことを。理由は教えてくれなかった。でもただ一言、悪かったな、俺はお前まで失いたくないんだ。馬鹿な俺を許してくれ、だった。
それ以来、そいつとは会っていないない。後でそのわけを知った時、涙が止まらなかった。この事実を世間に知らしめたい、それが俺があいつにできることだと思った。だから小説家の道を目指したんだ。
「じゃあ泉さんもある意味被害者じゃないですか」
「自分自身を被害者だなんて思えないがな。でも、俺から言えるのはただ一つ。その紅薔薇のレッテル、活かして生きろ、としかな・・・」
泉はそう言って笑って旭に言った。
「それで旭。折り入って頼みがある」
「は? それは?」
「また森先生におつかいを頼まれたんだ。それの付き添いを頼みたい。場所は神楽坂だ」
「神楽坂、ってまさか?!」
「旭は勘が鋭くて理解が早くて助かる。俺はお前に賭けるぞ。俺の人生、お前にな。俺の恋路の手伝い、お前に頼みたい」
旭は言葉を失った。目の前にいるのは人生の一大イベントを全力で迎えようとしている男性だった。旭は少し考えたが、泉が話してくれた話が頭に残って離れない。きっと泉は紅薔薇を良い方向に使おうとしているのかもしれない。そして少しでも紅薔薇の荊から解放してくれるかもしれない。その考えが旭の頭に浮かんだ。
「わかりました」
自然とその答えは口から飛び出した。
「・・・見つけた。これだ」
一方、三日三晩倉庫に閉じこもりすずに頼まれていた人物探しはついに終結を迎えようとしていた。紅葉が見つけたのは今から二年前の記事だ。そこにはこう書かれていた。
『森凛太朗、新作ヲ出版ス。切ナイ悲恋小説ト話題沸騰。森氏ハ「彼ラノ力無クシテハ出版ニハ至ラナカッタダロウ」ト語ル。助手ノ名ハ、織田一正、宮崎喜一、高野泉』
記事にははっきりと高野泉と書かれていた。
これですずが探している人物の素性がはっきりとする。紅葉は急いで倉庫を出て行く。早くすずに伝えなければと出て行く。
白薔薇と同じように紅薔薇も違うもので苦しめられることが身を感じてわかった。この時、二人の紅薔薇と白薔薇は何かを変えるために静かに互いにそれを知らないまま動き始めていた。
二人の行動は自然と恋の鈴を鳴らしていた。二人にはそれが聞こえることはなかった。
最後まで読んでくださりありがとうございました。 藤波真夏