結局のところ軍配は
こうなったら片っ端からタクシー会社に電話をかけてみるか。その時だ。
「……美咲、いるの?」
ドアの外から賢司の声が聞こえた。
「いるわよ、何?」
思わず苛立ちを感じて、つっけんどんな言い方になったのを自分でも感じた。
「コーヒーを淹れてくれないか」
今は、それどころじゃないんだけど。
怒鳴りつけたいのを必死の思いで堪え、美咲はわかったわ、と返事をする。
焦っても仕方がない。
美咲は長襦袢を脱いで、普通の服に着替えてリビングに向かった。
賢司も服を着替えてリビングのソファに腰かけていた。
何も言わないが、表情に少し翳りが見える。
彼が何を考えているのかなんて、そんなことはどうでもいい。とにかく今はかんざしのことだけを考えなくては。
美咲はできる限り平静を装い、台所に立った。
ヤカンに水を入れてガスにかける。
落ち着け、私。よく思い出して……パーティーの最中はきっと、ちゃんと髪に挿していたはずよ。
湯が沸いた。
コーヒーフィルターにペーパーをセットし、コーヒーの粉を投入する。
「……どうかしたの?」
異変に気付かれてしまったようだ。
美咲は手を止め、賢司の顔をまともに見つめた。
感情の読めない表情だ。
今怒っているのか、それとも、平常通りなのか。
「別に、なんでもないわ……」
なんでもなくはない。
人生の一大事とも言える重大な事件だ。
心から愛する彼からもらった、命の次に大切な、かんざしが見つからない……。
この人にはきっと理解できない。
たかがそれぐらいのことで。そう言われるに決まっている。
でも、そうじゃない。
他の人間にとってはどうだっていい物でも、美咲にとってはかけがえのない大切なものなのだ。
「……何か、言いたそうな顔をしているね」
不意に賢司の声が耳に届いた。
言いたい事なら数えきれないぐらいある。
不満、文句、要望。
どうか私と別れてください……自由にしてください。
美咲はあれこれ考えた末に、唇を開いた。
「あのね、賢司さん。さっきはごめんなさい、少し言い過ぎたわ。私、あなたには感謝しているの。実家がもうダメだと思った時に助けてくれたのは事実だもの……」
銀行が融資してくれなくなり、いよいよ閉館かと思われた時、すべての借金を肩代わりしてくれたのは賢司だった。
条件付きだったとはいえ、そのおかげで何とか当座の危機は凌いだ。
「でも、もういいの」
「……どういう意味だい?」
賢司は新聞を置いて美咲を見つめた。「まさか、もう旅館は閉めるから離婚したいとでも言うんじゃないだろうね」
夫はテレビをつけた。ニュースをやっている。
今日の日経平均株価、政治家達の国会討論の様子。
「残念だけど、離婚はしないよ。みっともないじゃないか。それに、旅館を閉めたら借金がなくなる訳じゃない。君から返済してもらうよ」
「……」
「どこかに働き口を探すのはどうだい? 君ぐらいベテランの仲居さんを欲しがる旅館は必ずあるだろうね。それとも、てっとり早く風俗店で働く? 君は母親似の美人だからね、きっとすぐ売れっ子になれるよ」
その時、リビングのドアが開く音がして弟が姿を見せた。




