犬も食わないどころか、鬼も裸足で逃げ出す
「彼女はね、お父さんがドイツ系医療機器メーカーの重役で……彼女自身は広島経済大学でドイツ語講師をしているんだよ」
「……そう。とっても綺麗な人だったわね。どこの馬の骨かもわからない私なんかよりずっと、彼に相応しいって言いたいんでしょう?」
美咲は駿河のことを念頭に置いてそう答えた。
賢司は答えない。
「あなたって頭の良さそうな顔して、言うことはだいたいパターンが決まっているのよ。予測がつくからあまり気にもならないわ」
夫婦喧嘩は犬も食わないというが、そんな生易しいものではない。
「私と母を蔑んで、そうすることで自分を高めたいの? そうでもしなければ自尊心を保てないのね。可哀想な人……」
バックミラー越しに運転手の表情が少し怯えているように見えた。
運転手さん、ごめんなさい。
それからタクシーを降りてマンションのエントランスに入り、エレベーターに乗って5階に到着するまで、どちらも無言だった。
先に口を開いたのは賢司の方だ。
「ずいぶん強気じゃないか。周と手を組めたのがそんなに嬉しい?」
手を組む、と言い方にひっかかったが、気にしない事にする。
「そうよ、それに私達には強い味方がいるの。あなたなんかに負けないわ」
隣室を見つめる。
賢司は溜め息をついて玄関のドアを開けた。
猫達が走り寄ってくる。周の姿はない。どうせ隣の部屋にでもいるのだろう。
美咲は自分の部屋に戻って着物を脱いだ。
それから髪を下ろそうと頭に触れた時だ。
……ない。
髪に挿していたはずのかんざしがない。美咲は慌てて辺りを見回した。
どこかで落としたのだろうか?
一気に身体中の血が引いていく感触を覚えた。
和服を着る時、それはやや夫に対する抵抗の意味も込めて、美咲は駿河が初めてプレゼントしてくれたかんざしを、髪に飾ることにしている。
ピンク色のパールをあしらった金のかんざし。
決して安いものではないし、何よりも大好きな彼がくれたものだ。
美咲は思わず長襦袢姿で部屋を飛び出した。
どこで落としてしまったのだろう?!
大金の入った財布を落とした時よりも、もっとずっとひどい焦燥感に襲われる。
床の上を舐めるように見回し、それでも見つけられなかった。
美咲は深呼吸をして、それから自分の部屋に戻った。
とにかく着替えて、もしかしたらタクシーを降りて家に戻るまでの間、たとえばエレベーターの中とか、エントランスかもしれないから探してみよう。
あるいはタクシーの中だろうか?
なんていうタクシー会社だっただろうか。領収書は確か、賢司が握っているはずだ。
何て言って切り出したらいいのだろう?
さっき乗ったタクシー会社、なんていう会社だったかしら? そんなふうにストレートにぶつけたところで、どうしてそんなことを聞くのかと聞き返されることが予測される。
忘れ物をしてしまったみたいなの。
そう答えればきっと、何を忘れたの?
かんざしだと答えるだけでいい。でも。
だったら、新しい物を買えばいいじゃないか。別に、命に関わるようなものでもないだろう?
彼の返答は目に見えている。
どうしよう……?
どくどく、と心臓がものすごい勢いで動いている。




