ネゴシエーション
ビアンカは首を横に振る。
「ダメです。応答してくれません……それに」
「それに?」
「ちゃんと番号を見ていないようです。先ほども警察からの電話だと思ったようで、すぐに切られてしまいました」
現場マンションのすぐ傍にある道路。
既に何台ものパトカーが集まっている。野次馬も集まり始めた。今のところ報道規制は敷かれているようだ。
しかし、それらが破られるのも時間の問題だろう。
聡介は焦りと不安をどうにかして抑えつつ、人質となっている周の家族である美咲と賢司、そして犯人の友人であるビアンカと一緒に車の中で待機していた。
なんとか西島進一を説得するため、聡介はビアンカに電話をかけてもらうよう頼んだ。
人質立てこもり事件の際、犯人はたいてい興奮している。まずは落ち着かせるため説得役が必要となる。
警察官の中には訓練を受けた交渉人がいる。しかし、今はまず友人であるビアンカが説得することが一番だと、特殊捜査班隊長の判断であった。
彼女は即座に応じてくれた。
ビアンカは電話をかけながらも、片手でしっかりと美咲の手を握っていた。
すっかり血の気を失い、青ざめている美咲は、まるですべての感情を失っているようだ。
それにしても少し驚いたのが、藤江賢司の存在だ。
彼はやや苛立った様子で妻と、その友人の様子を無言のまま見守っている。
そう言えば彼は西島進一とは顔見知り……。
聡介は何か、そのことに恣意的な意味があるのかと一瞬だけ考えた。
「高岡さん」
賢司が声をかけてきた。
「なぜ、こんなことになったのか説明していいただけますね? 私には……我々にはそれを知る権利がある、そうでしょう?」
今はそんなことを言っている場合か?!
自分の息子なら迷いなく、そう怒鳴りつけているところだ。
「……必ず、ご説明します……」
どうにか絞り出すようにして聡介が答えると、彼は満足したようだった。
「周君……周君は?」
美咲が呟く。
「しっかりして、美咲!」
「あま……周君が……」
「美咲!!」
耳の無線機を通して、和泉の声が流れ込んでくる。
『聡さん』
いつもと変わらない冷静な声に、ふっと気が緩んでしまう。
ダメだ。
聡介はわざと、低く重い声で応答した。
「彰彦か、そっちの様子はどうだ?」
『……美咲さんの様子は?』
「……良くはない」
他に表現のしようがなかった。
弟に万が一のことがあれば、何をし出すかわからない。
そんな危険性をはらんだ不安定な状況である。
『こちらは準備完了です』
そうか、と聡介は答えたが、今度は別の心配が頭をもたげてくるのを覚えた。
『彼女に何度でも繰り返し伝えてください。周君は必ず助ける、と』
「わかった……彰彦」
『なんです?』
「お前も、無事に帰ってこい」
唐突に無線機の通信が切れた。




