命を惜しむな、名を惜しめ!!
元刑事は首にかけたタオルで額の汗を拭うと、
「確かにそんな騒ぎがあった。寒河江のとこの次男が東京に出てしばらくして、どうも経理に不正があるようじゃって。その次男ちゅうのが美咲の父親で、元々は旅館の専務だったんじゃが……その仕事を辞めてのぅ、東京で一旗上げるんじゃ、って自分で事業を興したんよ。もしかしてその資金の為に、旅館の金を横領したんじゃないかってもっぱらの噂じゃった」
「誰が、そんな噂を流したんです?」
「……あそこの兄弟は二人揃って女にだらしなくてな。今でこそ見る影もないが、若い頃はハンサムでのぅ、島中の女どもからもてはやされとった」
返ってきたのは、直接的な答えではなかった。
八塚の方も自分でそのことに気付いたのか、苦笑しつつ、
「で、何が言いたかったんかっちゅうと……要するに次男を好いとったけど、相手にされんかった女の一人が嫉妬に狂って、腹いせにそういう噂を流したんじゃなかろうかの」
「……」
「まぁ、真相は闇の中じゃ。何しろ関係者はもう亡くなっとるからな」
「そんなことはありませんよ」
和泉の言葉に八塚ははて? という顔になる。
「長男の、社長の方はまだ生きていますよね?」
「まさか! 旅館を潰すような真似を自分でする訳がない。何が何でも存続させたくて、自分の姪を借金のカタに嫁がせたような社長じゃぞ?」
「本当に、いろいろとよくご存知なのですね」
「……この島で起きた事なら、大概はな。浅井さんには敵わんが」
「そのこと……美咲さんが借金のカタに嫁いで行ったと、八塚さんが知ったのは、いつの話です? 誰から聞いたのですか? そのことを葵ちゃ……駿河巡査部長にお話しには?」
「……話してどうなるんじゃ? 余計にあいつを苦しめるだけじゃろうが……」
それから八塚は、再び探るような目で和泉を見つめてくる。
「かくいうお前さんこそ、よそ者のくせに……やたら詳しく、いろんなことを知っとるのぅ? ……誰から聞いたんじゃ」
「……石岡孝太さんからです」
和泉が正直に情報源を明かすと、ほうっ、と相手は安堵と思われる息をついた。
「ほんなら、ええ」
どのあたりが、それならいい、のかはやや理解しがたかった。
が、彼が石岡孝太という人物を高く買っていることは明らかだ。
「ワシも、詳しいことは孝太から聞いた」
和泉はそうですか、とだけ相槌を打つ。
八塚は頬づえをついて遠い眼をすると、
「孝太はのぅ、美咲のことが好きじゃったんよ。子供の頃から。じゃけん、ワシとしてはあの二人が夫婦になって、孝太が社長になれば、旅館の経営もなんとかなって、事態が落ち着くんじゃないかって考えとった。しかし……美咲の方は孝太を、生き別れの弟だと信じとったんよ」
その話は和泉も聞いている。
「知っとるか? 美咲に、父親の違う弟がおるんは」
「知っています、隅々まで。その子は何て言っても、マイスウィートハニー(だったらいいな)ですから」
しばらく、おしゃべりオジさんは黙ってしまった。
やがて気を取り直し、
「……どういう事情か知らんが、弟の方はどこか他所の家に引き取られてのぅ……ま、浅井さんならその辺りもよう知っとるんじゃろうが」
「美咲さんは、弟の存在自体は知っていたんですね?」
「おうよ。じゃけん、孝太がその弟なんだと信じて……そうして自分を励ましとった。まわりは敵だらけじゃったけぇ、支えるものが欲しかったんじゃな」
しかし。
八塚は溜め息をつきながら続ける。
「それがいけんかったんかのぅ……弟じゃ、恋愛感情は持てんよな。孝太は本気で、美咲を好いとったんじゃが……」
人の気持ちはままならないものです、と和泉は口にしかけてやめた。
「しかし、あれじゃな。駿河の奴もほんまにかわいそうじゃった……結婚式まであと何週間ちゅうところで急に、彼女が姿を消して、行方が知れんようになって……しばらくは抜け殻みたいじゃった。上は、奴が何か面倒を起こすんじゃないかちゅうて捜査1課に異動させたんじゃと。ま、異動先でいい上司に会えたって喜んどったが」
「それは間違いありません」
和泉は自分が褒められたかのように嬉しくなって、つい笑顔になった。
「それにしても、あんた何のつもりなんじゃ?」
「何のつもり、とは?」
再び、視線が絡み合う。
「今さらそんな古い事件を持ち出してどうするんじゃ。仮に真相が判明したところで、経営が持ち直す訳でもなかろうに。それに……」
「少なくとも、彼女への攻撃は止むでしょう」
八塚は苦笑した。
「あの子は命よりも名を惜しむような武士じゃのうて、ただの仲居じゃぞ?」
「彼女は強い人です。でも、好んで苦しい思いに耐える訳じゃないでしょう」
「あんた……」
元刑事は驚いた顔で、和泉をまじまじと見つめてくる。
「美咲さんのことが好きなのかって? ええ、そうですよ。僕、弱いんですよね。ああいう、じっと何かに耐えて生きてる女性に……」




