ご近所の定義とは?
久しぶりにめちゃくちゃ凹んだ。
あれから日下部を自宅に送り届け、彼の妻に必死で頭を下げた。
頑丈なのだけが取り柄なんだからいいのよ、と彼女は言ってくれたが、内心は穏やかでなかったに違いない。
溜め息をつきながら、結衣は自宅のドアを開けた。
「お帰りなさい。遅かったわね」
母親が玄関に出てくる。
腕時計を見ると日付が変わっていた。
ただいま、と小さな声で答えて廊下を歩きだすと、後ろから母親の声が飛んでくる。
「結衣ちゃん! 何よ、背中からお尻にかけて、その汚れは……?」
そう言えば先ほど、転んでしまったことを思い出す。
「ちょっと転んだの。クリーニング出しておいて」
言いながら結衣は上着のボタンを外した。
そしてふと、母親の厳しい視線に気づく。
「ねぇ、まさか危ない目に遭ったりしていないわよね? だからお母さん、警察官になるなんて反対したのよ! まして、刑事なんて……!!」
また始まった。
正直言って、ウンザリしている。
母が本気で心配してくれているのはわかっている。でも。
「私が決めたことだから」
みっともない話だが、結衣は廊下でスーツを上下とも脱いでしまって、変な格好のまま2階の自室に向かった。お腹が空いた。
部屋着に替えて台所に向かう。
「さっきも西島さんの家の近くで暴力事件があって、お父さんが仕事帰りにちょうど通りかかって見たらしいけど……パトカーが何台も来て、大騒ぎったそうよ」
「……西島さん?」
「知らないの? 西島義夫先生の家よ」
その名前なら最近、嫌というほど耳にしている。
「……ご近所さんだったっけ?」
結衣は思わず冷蔵庫を開けたままの状態で母親を振り返った。
「やぁね、ご近所さんのことぐらい把握しておきなさいよ。ここから道路を挟んで1キロぐらい離れたところに、立派なお屋敷があるでしょ。今や、衆議院議院の西島先生のご自宅」
そう言われてみれば……!!
それって『ご近所』なのか? という疑問はさておき。
日頃、興味がないのですっかり見逃していた。というか、稲葉家がこの家を建てたのは、結衣が警察学校に入っていた頃の話であり、日々、仕事場と自宅の往復しかしていなかったため、知る由もなかった。
「ね、ねぇお母さん。確か、西島さん家って……進一君って男の子がいたわよね?」
段々と興奮を覚えてきた結衣は冷蔵庫の蓋を閉め、母親に向き合った。
「そうよ。お母さん、昔は家政婦協会に登録してて、西島さんのお宅に通ったこともあったのよ。いい場所だなぁ~と思って、お母さん、家を建てるなら絶対ここにしましょうってお父さんに推したのよ」
「へぇ~……」
話がどうでもいい方向へ流れて行きそうになる。
結衣は慌てて軌道修正を図る。
「で、進一君のことだけど」
「進一君ねぇ、確かいつも……なんとかちゃん、っていう年上のお姉ちゃんみたいな子の後をくっついていたわよ。可愛い子だったわぁ……今、いくつになるのかしらね」
母親はすっかり邂逅に浸っている。
「なんとかちゃん、って、なんとかちゃんって誰?」
なんとなく、だが。
ピンと勘が働いた。
しかし母親はそんな結衣の内心を知ってか知らずか、のんびりとした様子で答える。
「忘れたわよ、かなり前の話だし……あ、でも。大旦那様の還暦を記念して録った写真があったかしらね」
「どこ?! それ、どこにあるの?!」
結衣は思わず母親に詰め寄る。
すると母はげんなりした顔で、
「明日にしてちょうだいよ、もうこんな時間……」
仕方ない。
結衣はやたらめったに押入れをかき回し始めた。
母親が何か背後で言っているが、知ったことではない。




