信じる者だけに奇跡は訪れる
この病院には何度となく足を運んでいるせいか、看護師の何人かと顔見知りである。
それゆえか、面会時間を過ぎて病室の近くをウロウロしていても身咎められない。
聡介はずっとビアンカのことが気になっていた。
彼女は何か知っていて、隠している。
というよりも言えないでいる……。
それに。あの後、結局どうなったのか。
本間静香はきちんと謝罪したのか。
そのことも気になって仕方なかったのである。
時間も時間だし、妙な誤解をされても困るし、聡介は和泉を連れてビアンカの病室を目指した。
3人を収容する部屋は既に2枠埋まっており、その内、ビアンカの手前のベッドは既にカーテンが引かれていた。
気のせいだろうか、まるで外界との接触を拒んでいるかのような……そんな雰囲気にすら見えた。
「ビアンカさん、こんばんは。こんな時間に申し訳ありません」
彼女はまだ起きて文庫本を読んでいた。
「あら、高岡さん……それから、えっと、和泉さんでしたっけ?」
ビアンカは本を閉じ、外に出ませんか? と言った。
同室の患者に気を遣ったのだろう。
ビアンカは元気そうにベッドを降りると、迷いなく待合室の方へ向かった。
昼間はきっと大勢の患者で賑わう待合室も、夜のこの時間は無人である。
ぼんやりと、ほの暗い灯りだけが一部を照らしている。
「明日、抜糸ですって」
誰かが悪戯でもしたのか、布が破れ、中のスポンジがむき出しになっているソファに腰かけ、ビアンカは笑う。
すぐ近くに飲み物の自動販売機がある。
何か飲みますか? と、聡介は彼女に声をかけた。
ココアという返事があったので、彼はココアと紅茶、それからコーヒーを買った。
礼を言ってそれを受け取った彼女は和泉の方を見つめると、
「……それからあなたの別れた奥さん、謝罪に来たわよ。もっとも、なんで自分が頭を下げなきゃならないのか、わからないって顔をしていたけど」
そうだろう。聡介はやや頭痛を覚えた。
「よくあんなのと、夫婦をやっていたわね?」
そうからかう彼女の口調には刺があった。
何かあったのだろうか。少し機嫌が悪そうだ。
「まぁ……いろいろありましてね」
コーヒーを啜りながら和泉が応える。
「目的の為には手段を選ばないってやつ? あなた、ノンキャリアでしょ。見た感じ、まだ若いのに警部補なんて、奥さんのおかげ?」
随分詳しいな、と思ってふと思い出す。
そう言えば彼女は警察小説をよく読むと言っていたことを。
そんなところです、と和泉は同意する。
ビアンカは表情を曇らせた。
「ごめんなさい……私……」
事実ですからお気になさらず、と息子はそれ以上何も言わない。
ビアンカさん、と聡介は彼女に声をかけた。
「何かありましたか? 私でよければ、お話しになってみませんか」
暗がりの中でも、青い瞳が真っ直ぐにこちらを見つめてくるのがわかる。
どうでもいいが薄い紅茶だ。香りも味もほとんどしない。
ビアンカは両手で紙コップを包み、天井を見上げた。
「……日本人は変だわ。親が偉いと、子は何もしなくても偉いって勘違いするの? 誰が生まれる家を選べるっていうの? 私がクラウスの、シャルロットの娘じゃなければ、泣き寝入りしなくちゃいけなかったの?!」
それはきっと、彼女の両親の名前だろう。
いったいどういう遣り取りがあったのかは想像するしかない。
だが、彼女に怪我をさせた本間静香との対面が、およそ不愉快極まりないものであったことは容易に理解できる。
そして、これはあくまで聡介の直観だが、彼女が苛立っているのはそれだけではないような気がした。
具体的に何がどう、とは言えないが、そんな気がした。
ビアンカさん、と聡介は優しく声をかける。
「私が初めに言ったことは、本気でした。我々はあなたの素性を何も知りませんでした。たとえあなたが誰の子供だろうと、必ず謝罪させるつもりでしたよ」
ビアンカは顔をこちらに向け、苦笑する。
「無理よ……」
「信じる者に奇跡は訪れる、と、そう申し上げませんでしたか?」
少しの沈黙が降りる。
「怖かったでしょうし、痛かったでしょう。嫁入り前の身に傷をつけられたりして、あなたが私の娘なら、本気で訴訟を起こします。それ以前に……」
碧い瞳が揺れる。
綺麗だな、と聡介は場違いなことを考えてしまった。
その時だ。
聡介の携帯電話が鳴りだした。うさこからだ。
失礼、と着信を押す。
「うさこ、どうした?」
『班長、日下部さんが……!!』




