女の闘い
「社長の言う通りにしていたら、もっと早くこの旅館は廃業していました」
美咲は応えて言った。
「何ですって?!」
「社長は、もうずっと昔の話になってしまったバブルの感覚が抜けていないんです。時代は常に刻々と変化しているのに、ついていけてない……」
「あんた、何を根拠にそんな大きな口を叩けるのよ?! だいたい元はと言えば、あんたの父親が……!!」
これも予測通りだ。
しかし、その時。
「いい加減にしろ!」
そう言って事務所にやってきたのは、専務の松尾学であった。
「まだロビーにお客様がいらっしゃるんだぞ? 声が事務所の外にまで聞こえていた」
朋子はさっと顔を赤くして、そそくさと事務所を出ていく。
彼は古くからこの旅館を支えてくれていた、言ってみれば執事のような存在である。
美咲にとって敵ではなかったが、味方でもなかった。
先ほどのように、助けてくれることもあるけれど。
何を考えているのかわからない人。
それが美咲の彼に対する印象である。
松尾は里美が嫁いできてから、わりとすぐ、社長である伯父の「引き」でやってきた。
彼は一切、自分のことを話さない。
まったく口もきかない訳ではないが、他人となるべく関わりを持ちたくないようにも見えた。
もしかして前科でもあるのだろうか? などと思ったことさえある。
仲居の中にはいわゆる『訳あり』な人もいる。
仮にそれが真実だったとしても、どうでもいいと思えるほど彼は真面目にコツコツと働いてくれた。
男手はいくらあっても困らない旅館業務の中で、彼の果たした役割は大きい。
それこそ雑用から営業、本来なら社長が負うべきであろう実務のほとんどをさえ、彼は文句ひとつ言わずに一生懸命こなした。
おかげで社長である美咲の伯父は日々、遊び呆けているという次第である。
彼に専務の位が与えられたのは当然だろう。
無口で無表情と言うなら駿河もそうだが、彼の場合は表に出さないだけで、全身から発する空気には、様々な感情を隠しきれずにいた。
駿河のことをよく知らない人は皆、彼を人造人間のように言うが、それを言うなら松尾の方がよほどそうだ。
彼の場合、極端なところ感情そのものが死んでいるかのような印象を受けてしまうのである。
この人は果たして、笑ったり怒ったりするのだろうか?
それに。
横暴としか言いようのない社長の命令や方針に、彼は一切、口出しをしない。
本当に何か脅されていたりしないのだろうか、と考えたこともある。
「松尾さん、ごめんなさい……でも、サキちゃんには言っておかないと……」
女将は専務に、閉館の話を美咲に教えたことを詫びているのだ。
「そのことで女将を責めるつもりはありません。彼女にはそれを知る当然の権利がある」
里美はほっとしたように息をついた。
「それよりも、今日は久しぶりに団体客の予約が入っています。君も暇なら手伝ってくれないか?」
「私が……?」
美咲は驚いて専務と女将を見た。
旅館の仕事を辞めるように行って来たのは賢司だ。
彼の了解を取らずに勝手なことをしてはいけないだろう。
そこで美咲は賢司に電話することにした。
驚いたことに、夫はあっさりと承諾してくれた。
もしかして彼は既に閉館予定であることを知っていて、最後の足掻きだと笑って見ているのかもしれない。
そうだ、周にも連絡をしなくては。
急に忙しくなった美咲は、まずはとにかく急いで着替えることにした。
また、似たようなキャラを出してしまった……。




