その節はどうも、お世話になりました。
「あの……」
そう言えば賢司に挨拶したいと言っていたな、と美咲は彼に声をかけた。
「たぶん、もう起きていると思いますから……よろしかったらお部屋へご案内しましょうか?」
「あ、ああ……すみません。それじゃ」
新里は立ち上がる。
賢司は起きているだろう。けれど。
あの人の寝起きがいいのか悪いのか、そんなことも美咲は知らない。
部屋に戻ると、ドアのところに人影があった。
背の高い男性のシルエット。
「二度と僕の前に姿をあらわすな、そう言ったはずだ!!」
部屋の中からめずらしく、賢司の大きな声が聞こえた。
驚いて美咲は中に駆け込んだ。
入り口のところに立っていた男が振り返る。昨夜見かけた、どう見てもカタギではない男だ。
賢司は肩を上下させ、荒い息をついている。
額に汗を浮かべていた。
そんな兄を庇うかのように、周が手を差し伸べ、支えている。
男は美咲に気付くと、
「失礼」とだけ短く言って踵を返した。
すれ違いざま、独特の香りが鼻をかすめた。
賢司さん、と美咲が声をかけると、彼はいつになくギラギラした眼つきでこちらを見つめ返す。
こんな表情は初めて見た。
「……何?」
いつもに戻った。
「あの、新里さんが……」
彼は驚いた顔で美咲の後ろに視線を動かす。
「賢司君、久しぶりだね」
おじさん、と周が嬉しそうな顔をする。
「すっかり立派になって……悠司がいつも自慢していたよ、できた息子だって」
社交辞令などではなく、本気でそう聞いていたのだろう。
しかし賢司はニコリともせず、軽く会釈をすると、
「すみませんが、少し具合が悪いので」そう言って奥へ引っ込んでしまう。
気まずい空気が場を支配した。
「す、すみません! ほんとうに、昨日からちょっと具合悪そうで……」
美咲は慌てて頭を下げた。
しかし新里は苦笑しつつ、
「昔から変わらないね、彼は」
意外に思って顔を上げる。
「悠司は彼を本当に自慢にしていたんだよ、周君と同じぐらい」
おじさん、と周が彼の袖を引っ張る。
「まだ時間ある? ロビーでコーヒー飲もうよ」
新里はいいよ、と答えてまたロビーの方へ移動した。
昨夜はよく眠れなかったらしい。
新里は目の下にクマをつくっている。
それでも微笑みながら話してくれたのは、
「賢司君は子供の頃、何をやらせても器用にこなす子でね……そう、ピアノを習っていたこともあったんだよ。何度か発表会を見に行ったこともあったけど、本当に上手だった。コンクールで何度も優勝した経験もあるし。悠司ははっきりいって楽器類はさっぱりダメなのに、トンビから鷹が生まれたなんて冗談を言ったこともあるぐらいでね……」
全然知らなかった。
コンクールで賞を取ったというなら、家にそれらしい記念品の1つでもありそうなものだが、周は一度も見たことがない。
「ねぇ、おじさんも俺の母親……会ったことあるんだよね?」
「ああ……」
新里はやめると宣言したはずの煙草を取り出し、口に銜えかけてやめた。
咳払いをしながらポケットに再びしまいこむ。
「父さんは、本気だったんだよね? 本気で母さんと再婚するつもり……」
「本気だったよ」
間髪置かずに返事があった。
「……でも……」
彼が何か言いかけた時だった。
「帰るよ、周」
頭上で兄の声が聞こえた。
「賢司さん、お願い。そう度々会える訳じゃないんだから、もう少しゆっくりお話させてあげましょう? それに、周君だってもう子供じゃないんだから……一人でも帰ってこられるじゃないの」
姉は援護してくれたが、兄は聞く耳を持たないようだった。
「……俺もそろそろ、準備しないと」
新里も立ちあがる。
「周君、またね。来年も全国を回る予定だから」
父の親友は物憂げな表情を浮かべ、兄と姉に挨拶をしてから客室の方へ向かう。
結局、肝心のことは聞けなかった。
父が本気で自分達の母親と結婚するつもりだったとしたら、賢司のことはどうするつもりだったんだろう?




