それはデリケート
早朝の大浴場は人がいないし、綺麗に掃除されているから気持ちがいい。
美咲は早めに起きて一人、大浴場で湯に浸かっていた。
ここ一帯には温泉が沸いている。湯を引く時にも、斉木の家と寒河江の家で大きな揉め事があったと聞いている。
そんなこと、今は考えまい。
そもそもお湯は自然の恵みだ。
利権を争う人間達の醜い抗争など関係ない。
美咲は目を閉じ、全身を包んでくれる温かいお湯の感触にうっとりとしていた。
しばらくすると、他の宿泊客が入ってきた。美咲はなるべく見ないようにしていたのだが、ガラス窓にその姿が映って、どうしても視界に入ってしまう。
整った肢体の美しい女性。顔は見えない。
彼女は長い黒髪を背中に垂らし、真っ直ぐにシャワー台に向かうと、ものすごい勢いで湯を流し始め、やや乱暴に髪を洗い始めた。
それから彼女は皮膚が擦れてしまうのではないかというほどに強く、全身を泡立てたボディソープで洗い始めた。
何かあったのだろうか……?
余計なお世話かもしれないが、ふと美咲は心配になってしまった。
それから『彼女』は浴槽に足を沈め、やや離れた場所でこちらに背を向け、無言のまま湯に浸かっていた。
話しかけないで欲しい。
その背中にはそう書かれていたような気がした。
美咲は風呂から上がり、浴衣を着て部屋に戻る道を歩き始めた。
ロビーを歩いていると、昨夜のピアニストがソファに腰かけて新聞を読んでいた。名前は覚えている。昨夜はここに泊まったのか。
周の父親の親友だと言う人だ。確か、新里さん。
おはようございます、と美咲は声をかけた。
「ああ、周君の……」
どうかしたのだろうか? 少し顔色が悪い。
「昨夜は本当に、素敵な演奏をありがとうございました」
新里は微妙な微笑みを浮かべ、礼を言った。
「あの、どこかお加減でも悪いのですか?」思わず美咲はそう訊ねた。
「あ、いや……実はあまり眠れなくて」
彼は気まずそうにそう答えた。
音楽家は繊細なんだな、と美咲は思った。
「そう言えば賢司君は? 久しぶりに挨拶したかったんですが、姿も見えないし……」
「今なら、部屋にいると思います。良かったらご案内しましょうか?」
美咲がそう言いかけた時、
「あら、新里さん。早いのね」
後ろから陽気な声で話しかけてきたのは、昨夜のバイオリニストであった。
ふと気がついた。彼女の髪はやや、湿り気を帯びている。先ほど大浴場で見かけた女性はきっと……。
「亜沙子! 昨夜はどこへ行っていたんだ、打ち合わせがあるって言っただろう? すぐに戻るって言うから、待っていたのに……」
穏やかそうな新里がやや声を荒らげて言う。
「……ごめんなさい、ちょっと具合悪くなっちゃって。連絡しようと思ってたんだけど」
そう言って髪をかき挙げた彼女の首筋を何気なく見た美咲は、そこい赤い痣のようなものを見つけてしまった。
見なかったことにしておこう。
伊達に長い間、仲居の仕事をしていた訳ではない。
男と女の『いろいろ』を見てきた美咲にはすぐピン、と来た。
人は見かけによらないものだ。新里のパートナーであるバイオリニストは、上品で清楚な女性にしか見えないのだが。
行きずりの男と一夜限りの関係を持つような、そんな軽い人間にはどうしても見えない。
それに。
新里と言うピアニストはきっと、あのバイオリニストに恋をしている。
周の父親の親友ということだから、年齢的には既に中年と呼べるだろう。真面目に結婚も考えているに違いない。
やめよう。
美咲は軽く首を横に振った。
「ねぇ、今日の会場は岩国だったわよね? 本番までに現地へ集合すればいいんでしょう? だったら私、市内の観光をしてきていいわよね」
「亜沙子……」
亜沙子、と呼ばれたバイオリニストは新里にそう話しかけた。
「大丈夫よ。私はいつだって、最高の演奏をしてみせるわ」
返事を待たずに彼女は去っていく。
新里は深く溜め息をつき、新聞をガラステーブルの上に放り出した。




