消えた女将
そういえば……と、ふと思い出す。
晃の父親は幼い頃に病気で亡くなっている。
夫の死後、晃の母親で女将である斉木輝子は、女手一人で息子を育てつつ、旅館を切り盛りしていた。
それがある日突然、女将は姿を消したのである。
表向きは病床に伏せっているため、となっているが、本当のところは行方が知れないという噂が立っている。
既に亡くなっているという者もいれば、男と逃げた、などと好き勝手なことを言う者もいるが真相は定かでない。
美咲も晃の母親であるこの旅館の女将を知っている。
唯我独尊、傲岸不遜、という四字熟語がピッタリくるタイプだった。
ただ、自分に厳しい分だけ他人にも厳しく、この旅館でやっていけなくなった仲居を、御柳亭で拾ったこともある。
とはいえ、経営者としては一流だと言う話も聞いた。
女将不在の今、この旅館の経営者は息子であり若旦那である斉木晃である。
若い感覚で次々と新しい物を取り入れ、高級旅館でありながら一定の客数を保っているあたりは、悔しいが彼の手腕だ。
それに比べたら……。
昭和のバブル期のまま、頭がすっかり止まっている伯父なんて。
美咲は我知らず、深い溜め息をついた。
「……人の顔を見て溜め息をつくのは、やめてくれないか」
ぽつり、と夫が言う。起きていたのか。
ごめんなさい、と一応謝っておく。
「そう言えば、さっき……あなたの知り合いだって言う方にお会いしたわ」
知り合い? と、賢司は怪訝そうな顔をする。
「確か、支倉さん……」
「支倉?!」
がばっ、と賢司が身体を起こす。
「本当に、そう名乗ったのか……?!」
「え? ええ……」
初めて見る夫の過剰反応に、美咲はやや怯えながら返事をする。
「あなたの同級生で、今度クラス会をするとかなんとかって、この旅館に来ているらしいわ」
賢司はしばらく無言で何か考え込んでいたが、やがて
「悪いことは言わない、その男とは決して関わるな」
言われるまでもない。
あんなふうに全身から悪党の匂いを発散させている男になんて、誰が関わりたいだろうか。
それから賢司はキョロキョロと部屋の中を見回した。
「そうだ、周……周はどうした?!」
「ロビーにいるけど……」
彼は突然ガバッと身を起こした。
スリッパに足を突っ込み、急いで出て行こうとする。
「賢司さん?!」
美咲も驚いて後を追う。
しかし、彼はやはり具合が悪かったようだ。ドアのところでくずおれてしまう。
「しっかりして、今、救急車を……!!」
「呼ばなくていい!! それよりも、周を……!!」
どういう理由か分からないが、何やら只事ならない空気を感じて、美咲は急いでロビーに向かった。




