茅場町駅徒歩3分
なるほど、周の機嫌を直すには「お父さんにそっくり」の一言だけでいい。
美咲はあたらめてそう学習した。
夕方、部屋に戻ってきた時には賢司が一人だけだった。顔色が悪い。
どうかしたのか訊ねても答えはなかった。
食事もほとんど手をつけなかった。
そんなに具合が悪いなら、無理して来なくても良かったんだわ。
ましてこの『白鴎館』になんて。
それこそ平安時代から確執のある斉木家の、今の当主である晃は、昔から美咲のことを目の敵にしていた。賢司はそのことをちゃんと承知していた上で、今回の計画を立てたのだろう。
どこまでも陰険な男だ。
そこが和泉との大きな違いだろう。あの人は何を考えているのかわからないけれど、決して陰湿ではない。どちらかというとむしろ陽気な方だ。
午後8時少し前。
美咲は周と一緒にロビーのソファに腰かけていた。
一応誘ってはみたが、賢司は部屋に残ると言う。
冷たい緑茶を飲みながら、コンサートが始まるのを待っている。周は嬉しそうだ。
少し気になるのは、夕方騒ぎを起こしていたカメラ男もこの場にいることだ。
コンサートの様子を写真に撮るのは普通のことだろうが、あの騒ぎは何だったのだろう?
それからもう一人、少しだけ気になる人物がいた。
銀縁の眼鏡をかけた背の高い男。
宿泊客なのかそうではないのか知らないが、浴衣姿ではない。
仲居という仕事柄、美咲はそれこそいろいろな立場、職業の人達と接してきた。
そう言う人達の中には時折だが、いわゆる「堅気」ではない人もいる。
彼らには独特の雰囲気がある。
昔は「兜町の荒馬」なんて呼ばれてね、と自慢げに話す客がいて、いろいろあって実はヤクザに追われて逃げてきた……なんていうこともあった。
その客を追いかけてきた、おそらく暴力団関係者であろう男性を見たこともある。
『兜町』というのが東京の株式市場の代名詞であり、言わば賭けごとのような株取引に関わっていた人間なのだな、ということだけはわかった。
あの人達と、似たような目をしている。
新聞を広げてコーヒーを飲んでいるその男は、時々思い出したように顔をあげ、ちらりとこちらを見ているような気がした。
ぱちぱち、と拍手の音で我に帰る。
「お待たせいたしました。それではただいまより……」
音楽のことは何もわからない美咲だが、二人のプロによる演奏が本当に素晴らしいことだけは理解できた。
特にバイオリンは、何とも言えない美しさだった。
うっとりと音色に聞き入っていると、なんと隣に座っている弟は、手の甲や袖で目を拭っていた。
美咲は急いでポーチからハンカチを取り出して彼に渡した。
曲が終わると、バイオリニストがマイクを握って観客に微笑みかける。
「こんばんは! 本日はお集まりいただき、ありがとうございます。えー、それでは次に『G線上のアリア』を演奏します」
その曲名なら美咲も聞いたことがある。
バイオリニストは、ピアノの前に座っている男性に向かって頷きかける。
先ほど周が「おじさん」と呼んでいた中年男性だ。彼の父親の親友。
この二人はもしかして、恋人同士だろうか?
どんな分野でもそうだが、きっとコンビは息が合っていて初めて、人を感動させるほどの素晴らしい表現が生まれるのではないだろうか。
同じ目標に向かって、同じ日々を過ごす。
そういう意味で美咲は昔、駿河との結婚を決めた時に少しだけ不安を覚えた。
仕事を続けてもいい、と彼は言ってくれた。
でも、不規則な勤務形態はお互いで、一緒に過ごす時間がどれほど持てるだろう?
考えても仕方のないことか。
美咲は自嘲の思いを込めて、演奏者たちの方を見た。




