ロビー活動
旅館に戻ると、午後6時前である。
「周君、どこ行ってたの?!」
部屋の扉を開けた途端、美咲が駆け寄ってくる。猫みたいだ。
「実はさ……」
家庭教師に誘われ、観光して来たことを簡潔に話す。
それから周は靴を脱ぎ、中に入った。
賢司は畳の間で座椅子に腰かけていた。ひどく顔色が悪い。
「賢兄、どうしたの?」
なんでもない、とだけ返事がある。
周は姉の顔を見た。しかし彼女も首を横に振るばかりである。
時計を見た。夕食の時間までもう少し間がある。
「俺、風呂行ってくる」
「……お風呂なら、部屋に備え付けがあるだろう?」
賢司が言ったが、
「広い風呂に入りたいんだよ」
周が浴衣と着替えを手に部屋を出て行こうとすると、私も行く、と美咲が追いかけてくる。
兄は何も言わなかった。
外に出て本館に移動する。
フロントの前を通り過ぎ、大浴場はこちらという看板を探し当て、そこからやや速度を落とす。
美咲がちゃんと後ろをついてきているのを目で確認し、それから周は身体ごと振り返った。
「俺の留守中、何かあった?」
それが……と、美咲はなぜか言い淀んでいる。
しばらく考えた後、彼女は思いついたように答えた。
「……変な人にからまれたのよ」
「変な人? なんだよ、それ!!」
「よくわからない……」
「警察は呼んだのか?!」
美咲は何とも言えない微妙な表情で、どう話を繋ごうかと考えている様子だ。
何か隠している?
問い詰めようと周が手を伸ばしかけた時、
「周君!」
誰だよ、俺は今それどころじゃ……。
「周君、俺だよ……」
え? 誰だ?!
驚いて周が声のした方を振り向くと、なんと新里が立っていた。
傍らには先日紹介されたバイオリニストの女性。
「……新里のおじさん?」
思い出した。時々、旅館やレストランでミニコンサートのようなものをして回っているが、近いうちに宮島の『白鴎館』にもやってくると。
まさか今日だったとは。
「もしかして、僕らのコンサートを聞きにきてくれたのかい?」
実は偶然なのだが、それは黙っておこう。
それともまさか、賢司はそのことを知っていて、あえて今日を選んだのだろうか?
考えてみたがわからない。
新里の傍らにはバイオリニストが控えている。
確か名前は三村亜沙子。ワイン色のワンピースに身を包み、バイオリンの入ったケースを大事そうに抱えている。
こんにちは、とバイオリニストは微笑む。
「コンサートは今夜8時半からロビーであるの。ぜひ、聞きにきてね? それじゃ、私はお先に……」
スーツケースと楽器のケースを手に、三村亜沙子は廊下を歩いていく。
新里はぼんやりとその後ろ姿を目で追っていた。
「……おじさん?」
「あ、えっと……なんだっけ?」
「今夜8時半からだよね? 楽しみにしてるよ」
周がそう言うと、新里は微笑んだ。
思いがけないことだったが、まさにラッキーだと言えるだろう。
くいくい、と美咲が袖を引っ張ってくる。
「お知り合い?」こそっと耳打ちされる。
「あ、そうだ。おじさん……あのね、俺の……姉さん。こちらは新里さんって言って、父さんの親友……」
美咲を正面から見た新里は、ひどく驚いた顔で息を呑んだ。
「初めまして、藤江美咲と申します」
しばらく彼は言葉を失ったように立ち尽くしていた。
「……おじさん、俺もう……本当のこと知ってるから……」
すると新里は弾かれたように、ハンカチで額の汗を拭きながら、
「そ、そうだったのか。いや、驚いて……申し訳ない。悠司に紹介されたことがあったんだよ、咲子さんのことを。咲子さんにそっくりだったから……」
そう言って微笑む。
「二人とも、お母さんにそっくりだね。よく似た姉弟だ」
周と美咲は顔を見合わせた。
ほんのりと温かい気分になる。
しかしそんな空気を切り裂くように、悲鳴にも似た声が響き渡った。




