得する人と損する人
募る苛立ちをどうにか抑えつけ、和泉は課長に訊ねた。
「だったら、あの女の言っていることが真実だという証拠がどこにあるんですか?!」
返事はない。
和泉は続ける。
「すべての関係者から事情をちゃんと聞いた上で、判断すべきではありませんか?」
「君ねぇ……」
課長は残り少ない髪をいじりながら、
「仮にも本部長のお嬢さんだよ? 皆の羨望を一身に集めて結婚したんだろう。何が原因で別れたか知らないが、お父上はいずれ、政界にうって出る身だよ。そんな人と関係を結んでおいて、得することはあっても、損することなんて何もない。そうだろう? だったら君が復縁を迫る、っていう話の方が、よほど真実味がある」
はじめは何を言いたいのか疑問に思ったが、ようやく結論の部分で理解した。
そうして、じわじわと怒りが沸いてくる。
「そんなのは課長の勝手な考えです! そもそも復縁を迫って来たのは向こうからだ!! その事実を認めるのが、無駄にプライドの高いあの女にはできないだけです。そもそも無関係な人を巻き込んで……迷惑をかけられたのはこっちです!!」
しかし課長はどうやら、右から左に聞き流したらしい。
和泉のことを哀れむような目で見つめつつ、どこかで予想していたことを口にした。
「無理しなくていいんだ。今なら、君が彼女に一言謝罪すれば、なかったことに……示談にしてくれると。君が頭を下げれば丸く収まるんだよ?」
「……納得できません」
「君が納得できるか否かは、この際どうでもいいんだよ。そうだ、いっそこの機会に本当に復縁するのはどうだ。普段あれだけ迷惑を掛けられているんだからな。そうなった暁には、このワシにも少し恩恵を……おや、何だか納得のいかなそうな顔だね。それとも何か、君はまさか、未だにあのことを引きずっているのかね?」
「あのこと?」
「……のことだよ。いやぁ、あれは酷い話だった……」
「……な……」
なんだって?
耳も悪ければ頭も悪い上司は聞き返す。和泉は叫んだ。力の限り。
「二度とその名前を口にするな!!」
「……おいっ?!」
古典的極まりないが、聡介はコップをドアに当て、中の会話がどうにか聞こえないだろうかと試行錯誤していた。
課長の執務室前。傍を通りかかった職員に変な目で見られたが、そんなことは気にしていられない。
和泉の性格からして、大石課長とまともに向き合っていたらきっとその内キレる。
あの人は典型的な『嫌な上司』だ。
保身第一主義、ことなかれ主義、長いものには巻かれろ主義である。
それでも自分はいつまでもこの組織にいられる訳ではない。いつか定年が訪れる。
自分がここを去った後を任せることができるのは、おそらく和泉しかいない。
だから聡介は、めずらしいことに課長が直接和泉に連絡して来たのは、少し良いことだと思った。
今からああいう上司と接しておいて、免疫をつけておくのも悪くはない。
和泉は昔から多少の無茶をしても『聡さんがなんとかしてくれる』という、甘えがあった。
それを許したのは自分だけれど。
でも、いつまでもそれでいい訳がない。
いかに和泉が適当で神経の図太い人間であろうと、刑事としての正義感はおそらく人一倍強い。
そして道理に合わないことを嫌う。
普段はあんないい加減を絵に描いたような人間だが、胸の内にはいろいろと秘めているものがあることを聡介は知っている。
彼がこの組織で、生きにくいタイプの刑事であることも。
今は自分が防波堤となってやることができる。でも。
いつもは冷静沈着、何にも動じません、というキャラを『作って』演じているあの息子は、実は意外と沸騰したら暴れるタイプである。
頭に血が昇ると、それこそ手当たり次第に机をひっくり返したり、椅子を蹴り倒したりと手がつけられないのだ。
昔、一度だけそんなことがあった。
何が原因だったのか、もう忘れてしまったが。
もし、課長が妙なことでも口走って和泉をキレさせたりしたら、下手をすれば、上司に向かって手を挙げる危険性だって考えられる。
その時だった。
どうやら、どちらかが大声を出しているような声が聞こえた。
嫌な予感がする。
そして、ガタン!! と何かが倒れる音。
マズい……!!




