覆面宿泊
まだチェックインが始まって間もない時間だからか、ロビーは閑散としていた。
美咲が一歩館内に足を踏み入れた瞬間、気のせいかもしれないが、少し雰囲気が変わったような気がした。
まずフロントに向かう。
今日は土曜日で、最盛期ほどではないにしろ、それなりに予約は詰まっている。
やることは山のようにある。
思えば人員も随分と減ったような気がする。リストラというよりは、依願退職の方が多いようだ。
原因は知っている。
その『原因』はつい先日、警察に逮捕されたと言うが……あれからどうなっただろう。
今のところ美咲の元には特に連絡がない。
「あら、サキちゃん」
振り返ると女将が微笑んでいた。
「おかあ……女将、何か手伝えることあるでしょう? 何でも言って」
母と慕う女将は顔色が優れない。
「ありがとう、でもね……松尾さんに言われちゃった。たとえ身内だろうと、サキちゃんはプロなんだから。こちらの都合でタダ働きさせるのは、本人の申し出だろうと、道理に合わないって。私も同感だわ」
女将は苦笑しながらそう答えた。
美咲は心の中で、今は姿の見えない専務を恨んだ。
確かに彼の言うことは間違っていない。だけど、今はそんなことを言っている場合じゃない。
そんな美咲の胸の内を読んだかのように、
「サキちゃん、今日は白鴎館に泊まるんでしょう?」
女将の里美とは常に、何でも話し合い、どんな些細なことも連絡し、報告し、相談してきた。
「しっかり、向こうのサービスを見てきて。良いところは見習って、感心できないところは反面教師にしましょう」
「……うん」
里美は微笑み、美咲の手を握る。
「大丈夫よ、私もあきらめないわ。あの会計士さん……有村さんは頼りになる人よ。周君によろしく伝えてね。紹介してくれてありがとう、って」
確かにそうだと思う。
かなり変わった人だが、こちらが遠慮して言えないこともずばり口にしてくれて、大きな態度で我が物顔に振る舞っている人間達を、一刀両断してくれた。
そういえばあの人は元々、和泉さんが……。
「こっちのことは心配しないで。ね?」
わかったわ、と答えて美咲は旅館を出た。
それからふと、思い出したことがあった。
あの白人男性……ビアンカの元婚約者。
確か、紅葉谷公園で遺体となって発見されたはずだ。
ビアンカがどんな気持ちでいるのか、あれから彼女とは連絡を取っていないからわからない。
ただ、正直言ってそれほど悲しんでいる様子には見えなかった。
とりあえず。
花でも手向けておこう。
袖擦り合わすも多少の縁というやつだ。
そう考えて美咲は島内で唯一の花屋に寄り、花束を購入した。




