フェリーの上
そして土曜日の朝。
旅館のチェックインは早めの午後2時からである。
だから、なるべく早めに行こうと賢司が言い出し、誰も異を唱えなかった。
それはそれで良かった。早い時間から向こうに行くことができれば、実家の手伝いをする時間も取れるというものだ。
それにしても。
この男が何を考えているのかわからないのは、今に始まったことではない。
結婚記念日なんて笑わせてくれる。
できるだけ賢司の近くにいたくなくて、宮島口からフェリーに乗った後、美咲は寒くても甲板に出た。ほんの10分ほどの逃避だけれど。
姉さん、と後ろで弟の声がした。
振り返ると周は心配そうな顔でこちらを見ている。
昨日の夜、賢司はこんなことを言っていた。
『実は白鴎館の女将は母の古い友人でね。今でも時々連絡をくれるんだけど、たまには泊まりに来いって言ってくれていたからちょうどいい機会だよ。それにこの旅館、最近、旅行サイトですごく評判がいいらしいんだ。それに美咲、敵城視察も君にとっては必要なことだろう?』
よくもまぁ、そんな適当な口実が見つけられるものだ。
美咲はそうね、とだけ答えた。
モニター体験と称する、いわゆる【やらせ】のくせに。
宮島の観光業を活性化すると言えば聞こえはいいが、なかなか客が予約を入れてくれない高級な離れの部屋がもったいなくて、採算が取れないから泊まってほしい。
女将が賢司の母親と知り合いとかなんとか、そんなことは知ったことじゃない。
『白鴎館』は、美咲の実家である『御柳亭』と古くからライバル関係にあった高級旅館である。
この旅館のオーナーである斉木家は、遡ればそれこそ平安時代ぐらいから、寒河江家と仲が悪かった。
それでも両家は奇妙なバランスを取りつつ、現代まで続いてきた。
現在の斉木家の当主であり、白鴎館の経営者である斉木晃は美咲の同級生なのだが、祖先から受け継いだ無意味な、謂れのない憎しみをぶつけてきた。
子供の頃からそうだった。
互いに顔も見たくないほどなのは今もそうだ。
よりによってそのライバルである旅館に、それも結婚記念日なんていう名目で泊まりにいくなんて。
もう何も言うまい。
無駄なことだ。
ふと気づけば、弟の目がこちらを覗きこんでいた。
「……大丈夫か? ちょっと顔色悪いけど」
平気よ、と答えて周の腕に抱きついてみる。
身体全体はやや細くて頼りない気もするけれど、意外としっかり筋肉のついた腕をしている。
「これからは……」弟が口を開く。
波は穏やかで、頭上をカモメとウミネコ達が舞っている。
「二人で力を合わせていこう」
「うん……」
周がいてくれれば大丈夫。
美咲は目を閉じて、しばらくは何も考えないことに決めた。




