たぶん、それほど何も考えていません
「それなら、サキちゃんに仲居頭を任せるのが一番です。他には考えられません」
里美が遠慮がちに申し出る。
「でも、お母さん……」
「とりあえず、社長を名乗るあんたがきちんと働け」
会計士は伯父に向かって遠慮なく言った。
「そうすれば女将の負担も少しは減る。仲居頭が不在でも、どうにか経営は回っていくだろう。この旅館を存続させたいと本気で考えるならな……」
伯父は天の邪鬼であるが、単純でもある。
少し顔つきが変わった。
いったん事務所を出て行き、すぐに戻ってきたかと思うと、めずらしく業務日誌に目を通し始めた。
その様子を見届けてから、優作は席を立った。
「……俺はいったん、尾道へ帰る」
上着を手に取って事務所を出て行く。
美咲は思わず、後を追いかけ、彼の袖をつかんだ。
「あ、あの……」
何をどう言ったらいいのだろう? 美咲の中で不思議な気持ちが沸き上がっていた。
無愛想な会計士は少しの無言のあと、ぽつりと呟く。
「さくら……俺の妻が言っていた。この旅館には風格があり、もてなしの気持ちが行き届いてる。このまま閉館になるには忍びない、と」
素直に嬉しかった。
そんなふうに評価してもらえるなんて、思ってもみなかった。
「だから俺は、なんとしてでも存続させてみせる」
え? と美咲は思わず口に出していた。
なんとなく、自分の奥さんがもったいながっているから、何が何でも経営を存続させてやる、と言ったように聞こえたからだ。
「……あきらめるな。最後の最後まで一生懸命足掻いてみせた者に、思いがけない祝福があるものだ」
変な人だが、言っていることは納得できる。
美咲は素直にはい、と答える。
「何か困ったことがあればいつでも連絡しろ。なんと言っても県内だ。遠慮はいらん」
それからふと美咲は思いついたことがあって、事務所に戻って女将の姿を探した。
「あら、サキちゃん。どうしたの?」
「お母さん。私、お給料いらないから……手伝うわ」
里美は怪訝な顔をする。
「賢司さんが、私が働くと『僕の稼ぎが悪いみたいでみっともない』って言ったの。だったら、無償で働く分には問題ないでしょう?」
「でも……サキちゃん」
「ただ、夜には帰らないと。パートタイムのボランティアだけど、何もしないでいるよりはマシでしょ? お母さんの負担を少しでも減らしたいの」
返事を待たずに美咲は、勝手知ったる館内のどこから手を着けたらいいか、とにかく動いてみることにした。




