父の友人
猫のシャンプーはいつも一苦労だ。
腕や手が引っ掻き傷だらけになるので、周は最近、ゴム手袋をすることに決めた。
いつものお約束で、プリンはなんとか大人しく洗われてくれるが、メイは激しく暴れて鳴き喚く。
どうにか力で抑えつけ、目的を果たすと、どっと疲労感が襲ってくる。
今日は土曜日。
姉は朝から出かけている。英会話教室の方は細々と続けているようで、午前中いっぱいは留守にするそうだ。
ゴム手袋を外していると、メイが毛づくろいをしながら、恨みがましげな視線でこちらを見つめてくる。
「……あのな、汚いままにしておくと病気になるだろ? そうならないためにシャンプーしてんの。全部、お前のためなんだぞ」
しゃがみ込んで猫に話しかけると、周はなんだか兄と同じことを言っているような気がしてきた。
茶トラ猫はふん、と舌打ちでもするかのような態度で走り去っていく。
その時、家の固定電話が鳴りだした。
すぐ傍にいた周は受話器を取った。姉だろうか。
「はい、藤江です」
少しの時間、間があった。
悪戯か? そう考えて切ろうかと思っていたところ、向こうから声が聞こえた。
『もしかして、周君か……?』
誰だっけ?
聞いたことのあるような、ないような。記憶を探るがピンとこない。
『覚えてないかな、新里だよ』
名前を聞いたらすぐにピンと来た。父の友人で、名古屋シティフィル楽団に所属しているプロのピアノ奏者。
「新里のおじさん?!」
『そう、思い出してくれた?』
完全に思いだした。周が幼かった頃、時々は遊びにきてくれていた父の親友。
子供の頃から、コンサートで全国を回る時は必ずと言っていいほど、地元に来る時にはチケットを送ってくれた人。
「覚えてるよ! 元気?!」
『ああ、元気だよ。周君こそ元気だったかい? いやぁ、驚いたよ。悠司そっくりの声が聞こえたから、まさかって思って』
嬉しかった。
父に似ていると言われることは、周にとって誇りである。
「ねぇ、今度こっち来るんでしょう? チケット欲しくて申し込んだんだけど……」
余ったりしていないかな、という期待を込めて言ってみる。
すると、また少しの間。
「……おじさん?」
『いや、ちょっと驚いたから。もうチケットは送らなくていいって聞いたんだよ』
「誰がそんなこと言った……?! あ、ごめんなさい……」
思わず大きな声を出しかけて、周はすぐに我に帰る。
『賢司君がね、もう要らないからって』
胸がすーっ、と冷たくなる。
周が黙っていると、相手は続ける。
『まぁ、周君ももうすぐ受験生だっけ? 寸暇を惜しんで勉強したいだろうなと思って、こっちも無理には……と思ったんだよ』
そんな話は一ミリだって聞いていない。
しかし、その怒りを父の友人にぶつけたって仕方ない。
深呼吸をして少し気持ちを落ち着かせる。
「……楽団のサイト、見たよ。バイオリニストがずいぶん変わったね」
すると電話の向こうから、なぜか弾んだ声で返事があった。
『いろいろあってね。ちなみに一人はドイツに留学経験があって。彼女の音色は独特というか、とにかく深いんだよ』
そんな話を聞いたら、ますますライブで聞きたいじゃないか。
それにしても賢司はいったい、どういうつもりなのだろう?
そんなに俺のことが憎いのか?
「ねぇ、おじさん。今度、いつこっち来るの? コンサートは再来週だよね」
『実はね、コンサートの他にも少し広島で仕事が入っていてね、来週にもそっちへ行く予定があるんだ』
「少しだけ、時間とってもらえないかな……? 会って話したいことがあるんだ」
聞きたいことがある。
父の親友だった彼なら、もしかしたら知っているかもしれない……。




