別件逮捕
幸いなことに怪我をした男性……あとで専務だと判明した……は軽傷だった。
本土に移送して手術、などという大掛かりな話ではなく、島の診療所で対応できるレベルの怪我で済んだようだ。
その場にいた関係者から一通り話を聞いた後、和泉は診療所に足を運んで被害者から事情聴取することにした。
御柳亭の専務は松尾学、と名乗った。
年齢は不詳。ただ、自分とそれほど変わりはないのではないか。
彫の深い顔立ちに、引き締まった体つき。
無口で表情が薄いあたりよく知っている自分の同僚によく似ている。
彼から聞き出せた情報は、既に認識している物とほぼ相違ない。
「警察の方……なんだそうですね。奈々子から聞いています」
彼は和泉を見据えて言った。
「いかがなさいますか。お望みであれば、示談という形もあります」
経営が危うい時に刑事事件としての立件は望まないだろう。そう考えた和泉だったが、返ってきたのは思いがけない答えだった。
「立件してください」
「……よろしいのですか?」
松尾は頷く。
「別件逮捕というやつですか。これをきっかけに、往年の横領の件も明らかになるかもしれません。膿は徹底的に排除すべきだ」
そうかもしれない。
和泉は黙って頷いた。
「それで、朋子は……?」
「既に所轄署へ護送されています」
そうですか、とだけ返事がある。
「しかし、なぜですか?」
松尾は怪訝そうな表情をする。
「なぜ、とは?」
「なぜ仲居頭……米島朋子は突然、あんなふうにキレだしたりしたんですか?」
それが一番わからなかった。
あの年代の女性にありがちな、意味不明の苛立ちによるヒステリーにしては、少し納得がいかない。何か理由があるはずだ。
「私にはわかりません。もしかして、浅井さんならご存知かもしれませんが」
「浅井さん……?」
「あの方なら、それこそ何でもご存知なのではないでしょうか」
ふと、和泉は嫌な予感を覚えた。
「まさか……米島朋子が、その浅井さんというバァさ……ご婦人の親類縁者だとか言うのではないでしょうね?」
さぁ、と専務の返事は素っ気なかった。
和泉が診察室を出ると、女将である寒河江里美が項垂れて待合室に設置されたベンチに座っているのが見えた。
女将さん、と声をかけると、少しほつれた髪を気にすることもなく彼女は顔を上げた。
「松尾さんは……?!」
「大丈夫そうでしたよ。顔色も悪くなかったですし、しばらくお風呂には入れないでしょうけどね」
和泉が笑って言うと、彼女はホッと息をついた。
奈々子からの情報によれば彼女は、ある日突然、社長である寒河江俊幸がどこからか連れて来たお嫁さんだったらしい。
物静かで控えめ。やや気が弱く、人に振り回されるタイプ。
まだ会ったことはないが、ワンマン社長の妻としては相応しいだろう。
美咲は「お母さん」と呼んで、ずいぶん彼女を慕っているそうだが。
「女将さん……一つだけ、よろしいでしょうか?」
和泉が声をかけると、なぜか表情が曇った。
気にせず畳み掛けるように続ける。
「あなたは、横領があったであろう事実に気付いていましたか?」
やや間があって、やがて彼女は黙って頷く。
和泉は苛立ちを覚えた。
気付いていながらそれを見過ごし、借金のカタに、娘が意に添わない結婚をさせられるのを黙っていたというのか。
怯えた表情で目を背けられ、少し後悔する。
また顔に出ていたのか。
女将を責めることはできない。
彼女もまた『女将』という立場上、娘のことだけを考えていていればいいという訳にはいかないのだから。
とにかく。今回のことはまさに瓢箪から駒だったと言える。
別件逮捕というのはあまりスマートではないが、優作を殺害しようとしたことといい、放ってはおけない。
「なぜ……」
黙っていたのですか?
そう問いかけようとしてやめた。
今にも泣きだしてしまいそうな、辛そうな女将の顔を見ていたら、声が出なかった。
幼い頃に何度も見た、母の表情にそっくりだったからだ。
彼女もまた、何かしらの『事情』を背負っているのかもしれない。




