空気を読む
一家は初め名古屋に住んでいたが、父親が広島に新しく事業所を創設することを決め、住居もこちらへ移したらしい。
それが今からだいたい5年ぐらい前の話だそうだ。
「名古屋からこっちに移ったのだとしたら、不便だったでしょう?」
「そんなことないわよ。私は、こっちの方が好きだわ」
ビアンカは日本語が上手だし、箸の使い方も上手い。
ドイツよりも日本での生活の方が長いせいだろう。
「それより、もっと美咲の話も聞かせて?」
どうしよう?
およそ他人に聞かせることができるような立派な過去も持ち合わせていなければ、むしろ敬遠されても仕方ないような履歴しか持っていない。
今まで美咲に友人と呼べる相手はただ一人しかいなかった。
学生時代、クラスメート達は全員彼女の家の事情をよく知っていて、腫れ物扱いだった。
そんな中、中学二年生の頃に転校してきた少女がいて、何も事情を知らない彼女が友人となってくれた。
余計な世話を焼いてあの子と関わらない方がいいよ、と言うクラスメートに対し彼女は、美咲と友人でいるか否か、それは私が決めることよ、と答えた。
どちらかというと内気で大人しい、本の好きな少女だったから、すぐに流されてまわりに追随するだろうと考えていたから美咲は驚いた。
その彼女は卒業後、就職のために関西へ出てしまったが、ずっと変わらない友情を示してくれた。
今も時折、電話やメールで遣り取りをする仲だ。
ビアンカは初めて出会った時から美咲に対して好意的だった。
「どうしたの……?」
「私は……あまり人に大きな声で話せるような人生じゃなかったから」
すると相手は箸を置き、真っ直ぐにこちらを見つめてきた。
「何か、悪いことでもしたの?」
「違うわ! 私は何も悪いことなんて……」
ただ、と続けようとして声にならなかった。
「もしかして、ご家族に何かあったの?」
美咲は黙ってうなずいた。
するとビアンカは真剣な表情で応える。
「私ね、前から変だな~って思っていたの。日本人って、どうして犯罪者の家族を白い目で見て迫害するのかしらって。罪を犯したのは本人よ。私には理解できない」
すべてのドイツ人がそんなふうに考えているかどうかはわからない。
「それにね、何て言うのかあなたとは同じ匂いを感じるの」
「匂い……?」
「私、学生時代には【友達】って呼べる人がいなかったわ」
嘘……と、思わず美咲は口にしてしまった。
信じられない。彼女はとても快活で、人懐っこく、きっと誰からも愛されるキャラクターだと思っていた。
「近づいてくる人間はたくさんいたわよ。でも、心を許せた相手なんて一人もいなかったわ。だって……皆、表向きは笑顔であれこれ社交辞令を口にするけど、裏でいろいろ悪口言ってるのを知っているの。一番気に入らなかったのは……私が皆と違うっていうことで差別されること。肌の色、髪、目の色……」
「そんな……! こんなに綺麗なのに……」
きっとその根底にあるのは【嫉妬】だ。
自分達が持っていないものを持っている、彼女に対する羨望。
「でもね。社会に出たら、それこそいろいろな人種が公共スペースに出入りするから、いつの間にか、そんなことはどうでも良くなってきたのよね」
確かにそうだ。
そして思い出したことがあった。実家の旅館にも、時折外国人観光客が泊まりに来る。
ただ。
そのことで思い出して不愉快になるのは、社長である伯父の考え方だ。
アメリカやヨーロッパからやってきた白人は受け入れるが、中国や韓国からなどのアジア人は断れ。
あの人の頭の中はもしや、戦前から停止しているのではないか。
ビアンカはにこっと微笑んだ。
「実を言うと、初めてあなたと会った時からピンときたのよ。きっと仲良くなれるんじゃないかしら……って」
そんなふうに言われて嬉しくないはずがない。
美咲は何か言おうとしたが、上手く言葉にならなかった。
「変な例えだけど、美咲が発する空気って透き通っていて、それでいて……どこか切ないような。私はとても好きだわ」
ビアンカの言葉は、美咲を励ますには充分過ぎるほどだった。
「あのね……」
そこで、美咲は思いきっていろいろな事情を打ち明けた。




