第九話 木内尊と麹町時也 その2
梅雨に入り、空はあいにくの雨模様だった。
「帰りたくなくなる雨なんだけど」
バケツをひっくり返したとはよく言うが、まさにその表現がぴったりの大雨。グラウンドに大きな水たまりができている。
「じゃあ、今日は学校に泊まっちゃう? 刺激的な体験ができるかもよ~」
傘を片手に、時也が言う。
時也の軽口にも慣れた私は、「はいはい」と流して、自分の傘を開いた。
「あ、じゃあ相合傘にする? 青春っぽいしさぁ」
「この雨の中、一つの傘に二人で入るのは無理があるよ」
一人で入っても危うい土砂降りだというのに、二人でなんて絶対に無理。というか時也は傘を持っているんだし……。
正論を言いつつ、しかし私は悩んでいた。時也と付き合えば、ヤンデレルート持ちの『君はタカラモノ』のキャラクターとのフラグは立たなくなる。だから、時也との仲は積極的に温めていくべきである。
「じゃあ今度、小雨の時に一緒に入ろうか」
色気を纏いつつ、どこか幼い笑顔を見せる時也。
痛みが胸に走った。
自分の幸せのために、時也を利用するのはなんか嫌。
時也と並んで歩く。今日は傘の分だけ距離が遠い。
こうして帰り道を一緒に歩くのにも、慣れた。
「あのさ、もう源とは会ってないんだよね?」
「うん。なんか連絡取りづらくなっちゃって……」
「そっか。そうだよね」
あげはの話題になり、緊張が走る。
あの一件からひと月くらい。私はまだ問題を抱えたままだ。
「会ってないなら良いんだ。真里菜ちゃんも会いたくないだろうしさ」
会いたくない、わけではない。本音を言うなら、会って仲直りして、また一緒に料理したりおしゃべりしたりしたい。けど、それはすごく難しいことなんだ。
気まずさも、ある。でも、一番は――恐怖。
私はあげはが……『源あげは』が怖い。
あの記憶を取り戻した時、『あげは』がヒロインを食べている顔を見た時に、爆弾は仕掛けられていた。
それでもあげははあげはで、人を物理的に食べるわけないと、思いたかった。
しかし、私はかじられた。
あげはも、食べたいと言った。
あの瞬間、私とあげはの関係は決定的に壊れてしまったのだ。
「まだ、気にしてる?」
私が黙り込んだのを見て、時也が心配そうに声を掛けてくる。こういう気づかいが、ありがたくて、胸が少しドキドキした。
「キスなんて気にすることないって、ほら、こ、恋人とかできたら、いっぱいするんだし……ね、忘れよ?」
そっちか。忘れよ、と言われるまでもなく今の今まで忘れてた。
「あー……オレなんて、しすぎて回数なんて覚えてないっていうか、相手の人数も覚えてないっていうか……顔覚えてない相手だっているしさぁー。あはははは」
それは、フォローなの?
そのフォロー、なんか胸に痛い。モテないひがみをここにきて感じるとは思わなかった。もやもやとムカつきがぐるぐるしてる。
「それは……最低ですね」
「あ!」
自分の失言に気付いたらしい。
「真里菜ちゃん、待って、違うから、そうじゃなくて!」
「近づかないでください。傘が当たって、しぶきが飛んできます」
「それはごめん! あと、敬語が地味にダメージ与えてくるから、やめて!」
そんなやり取りをしているうちに、さよならの時間がやってきた。私は左に、時也は右に曲がるので、ここでお別れだ。
「じゃあ、さようなら」
「ま・た・ね! 真里菜ちゃん」
力を込めてそう言った時也は、手を振って帰って行った。
一緒には帰る。家までは行かない。これが私と時也の距離。
住宅街を歩いていると、つい先日まで工事中だった場所に空き地ができていた。取り壊し作業が終わったらしい。
「あれ? 誰かいる」
開かれた土地に、黄色い傘の花が一輪。
どうしたんだろうと見ていると、その人はしゃがみ込んだ。微かに「みゃぁ、みゃぁ」と鳴き声が聞こえる。
「どうかしたんですか?」
何気なくそう問いかけて、後悔したのはすぐ直後。
「あぁ?」
傘の影から顔を見せたのは、強面の男性だった。