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チャットモンチー『謹賀新年』

好きだけど、踏み出せない。

いつまでもこの人を愛せるのだろうか。

愛には重さがあるのではないかとよく考える。二年も付き合ってきた彼のことはもちろん好きだし、隣にいると安心する。いなくなってしまったらものすごく寂しいだろうとも思う。だけど、彼以上にその気持ちが強いということは無い気がしている。彼の気持ちと私の気持ちとを天秤に乗せて重さを比べたら、きっと彼の方に天秤は大きく傾くことだろう。初めて付き合った相手でもないのにこんなことをうじうじと考えている自分に嫌気が差す。今年で28。周りの友達はそれぞれ素敵な人を見つけて、早々と仕事をやめて結婚して子供を産んでいる。真っ当な人生、という言葉を耳にする度に彼女たちの顔が浮かぶ。結婚した友達に会うと「独身で仕事をしていることが羨ましい」「独身に戻りたいよ」と言われるけれど、私は彼女たちに会うたびによっぽどあなたたちの方が羨ましいよと言いたくなる。結婚して子供がいることが、というよりはむしろ、もっと基本的なこと、この人とずっと一緒に生きていこう、と決断することができたその勇気が、誰かをそこまで本気で好きになれる素直さが、心底羨ましいのである。






彼と出会ったのは大学2年の春だった。ドイツ語の少人数クラスの授業で偶然同じクラスになって隣の席になった。彼は私の右側で、左手で一生懸命板書をノートに書き写していた。居眠りをしているところなんて見たこともないし、一度も休まず授業に来ていた。毎週似たようなチェックシャツを一番上のボタンまで閉めて度の強い眼鏡をかけていた彼は、まさに理系男子を絵にしたような人で、授業中に急に先生に指されても、私のように慌てたりすることもなくしっかりと答えていた。彼はいつしかクラスの中でも一際「真面目な頭の良い人」という立ち位置になっていて、テスト前には彼に勉強を教えてもらおうとクラスの男子が詰め寄せた。細くて白い左手の指先でこつこつと書きためたノートが、授業をサボってカラオケに行っていたような不真面目な男子たちの手に渡ることが何となく嫌だった。彼の真面目さがそんな人たちに利用されているような気がしたのだった。笑顔でノートを手渡す彼にお人好しなんだから!と叱りつけたくなる気持ちをなんとか抑え、私はそれからも彼の穏やかな横顔を眺めて過ごした。女子と話しているところは見たことがなかったし、もちろん私も最後まで一言も話すことは無いまま一年が過ぎ、授業が終わってからは彼とは全く会わなくなった。そして、彼のことを考えることもそのままなくなったのだった。







大学を卒業してから四年後、残業をしても終わらないほどの仕事に追われる日々を送っていたある日、私は仕事帰りの電車の中で偶然彼を見つけた。連日朝から晩まで降り続く雨にうんざりしていた春の日だった。斜め前に座っている、スーツに身を包んで眼鏡をかけている彼を見るのは、大学二年の三月以来だったからおよそ六年ぶりだった。彼は大学生の時からちっとも変わっていなかった。

例え変わっていないとは言え、何年も会っていなかった彼をすぐに思い出せたことを今でも不思議に思うが、きっと運命というのはそういうもので言葉では説明できないものなのだろう。

向こうはといえば、周りに目を向けることもなく真剣な顔で本を読んでいた。ドイツ語の授業で板書を書き写す彼の横顔が頭に浮かんで、それが本を読む今の彼の横顔にピタリと重なって懐かしく思いながら観察していると、突然彼が顔を上げた。心臓をぐっと掴まれたかのような衝撃が走る。自分に向けられる視線を感じとったのだろう、こちらを見た彼としっかりと目が合った。三秒ほど、目が合ったまま時間が経ったが、私にはそれが三千年ほどの長い時間に思えた。もしかすると彼も私のことを覚えているのだろうか、お辞儀でもしてみようかと思ったのも束の間、彼はすっと本に視線を戻した。ドキドキする私を余所に、彼は何事もなかったかのように読書を再開した。

私のことは覚えていないんだなと寂しくなったが、それも無理はないとも思った。六年という期間はあまりにも長いし、私たちの関わりは細い糸をさらに細く細く伸ばしたようなものだったから。彼をこれ以上見てしまわないように、これ以上無駄な期待をしてしまわないように、私は最寄り駅まで無理矢理目を閉じた。眠れば全てを忘れられる。タオルを頭にのせ、顔を隠して眠った。


電車を降りて眠い目を擦りながら改札へ向かう。電車を降りるときに彼をちらりと見ると、彼はやはり脇目も振らず本を読んでいた。そんなに背も高くなければかっこよくもないのに、変わらないまま元気に暮らしていることと同じ沿線沿いに住んでいることを知って嬉しく思う自分がいる。これを最後にもう二度と会うことはないのかも知れないと考えると微かに胸が痛んだ。

彼はどんな人生を歩んできたのだろう。どんな仕事をしているのだろう。結婚はしているのだろうか。どこに住んでいるの。ぐるぐると彼のことばかりが頭を駆け巡る。話したこともないのに、彼は私のことを覚えてもいないのに。


駅の外に出ると、あいかわらず雨はザーザー降りだった。傘を差そうとしたところでやっと私は傘を電車に忘れてしまったことに気が付いて呆然とした。この前買ったばかりの太陽みたいな明るい色の傘。雨の日にも元気が出るようにとじっくりと選んだお気に入りの傘だったのに、彼のことで頭が一杯で傘の存在をすっかり忘れてしまっていた。さっきの電車は終電だから今日はもう取りに行くこともできない。私以外の人には聞こえないぐらい小さなため息をついて、近くのコンビニへ小走りで向かう。ビニール傘を買ったら早く家に帰って、お酒を少し飲んで寝ようと考えてコンビニへ急ぐ私を呼ぶ声が聞こえた。

「木下さん!」

振り返ると、遠くから駆けてくる彼が見える。

「あ、私の傘。」

彼は私のオレンジの傘を握っていた。

「これ、電車に忘れたでしょ。すぐ追いかけたんだけど、どっちの改札出たかわかんなくて遅くなった。はい。」

彼が肩で息をしながら私に傘を渡してくれた。走ってきてくれたのだろう。そのことも嬉しかったが、それ以上に私を覚えていてくれたことが信じられなくて上手く顔を見て話すことが出来ない。顔が熱い。

「今ちょうど、傘がないからコンビニ行こうとしてたの。ありがとう。ドイツ語のクラスが一緒だった、春野くんだよね。」

「うん、よく覚えてるね。さっき目が合ったとき、もしかしてって思ったんだけど自信がなくて。でも、寝てるところ見て確信した。木下夏紀さん、だよね。覚えてる。」

フルネームで名前を呼ばれてまたどきんと大きく胸が弾む。タオルで顔を隠す一度も話したことが無かったのに、なんで覚えてくれてるのだろう。春野友介くん。覚えているのは私の方だけだと思っていたのに。

「五年ぶり?とかだもんね。まさか覚えてくれてると思わなかった。懐かしいね。あ、そういえばもう下りの終電無いよね、ごめんね。車で送っていくよ。」

私の傘を届けるために、急いで降りてきてくれたということは、まだ彼が降りる駅では無かったのだろう。すると彼は、何てこと無いよと言うように笑いながら答えた。

「隣の駅だし、歩いて帰れるから大丈夫。それじゃあ、また。」

くるりと背を向け反対の方向に歩き出す彼を私は無意識のうちに引き止めていた。

「あ、あのっ。連絡先、教えてください。」

さっきはもう二度と会えないと悲しんでいたのに、また会えてしまった。初めて近くで見た彼の笑顔があまりにも優しくて、久しぶりに聞く彼の声ががとても温かくて、このまま無関係のままで生きていくのは嫌だと本能が叫んでいた。大袈裟な言い方だけど。彼はこちらに戻ってきて言った。

「番号で良い?」

「うん、番号言ってもらって良い?」

彼がゆっくりと口にする数字を携帯に打ち込んで、発信する。間もなく彼の胸元からブーブーと携帯が着信を知らせた。

「登録しとくよ。それじゃ、また。」

「傘、本当にありがとう。またね。」

手を振り彼を見送ってから、逆方向に歩き出した私は傘を持っていない方の手を頬に当て想像通りの熱さに笑う。自分の行動に改めて驚きつつも、あんな風に思い切ったことが出来る自分の新しい一面を知れて誇らしくも感じていた。昨日まで思い出すこともなかった彼にこんなに心を奪われることを誰が予想しただろう。彼についてもっと知りたい。この気持ちは、大学二年生の私が心の奥深くでひっそりと抱いていた、淡い小さな気持ちなのだろう。


春野友介に再会してから数日が経っても、私は彼に連絡することが出来ないままでいた。毎日彼のことを考えているのに、発信履歴に残る彼の番号を見つめることしか出来ない自分が歯痒い。

ある日の夕方、会社帰りに駅前を歩いていると携帯が鳴った。期待を隠しきれず急いで鞄から携帯を取り出して名前を確認すると、大学時代の親友、美歩だった。

「もしもし、夏紀、元気?」

「元気だよ!美歩も元気にしてる?」

「元気元気!あのさー、急なんだけどさ、明日の夜空いてる?」

「明日の夜、うん、空いてるよ。五時半には会社出れるはず。どうした?」

「よーし。明日ちょっと話したいことがあってさ。お店とか適当に決めちゃうね!じゃ、また後で連絡するね!ばいばい!」

こちらに質問させる隙も与えない、相変わらず美歩らしい唐突で一方的な切り方は彼女らしくて笑ってしまう。美歩のこういうところが好きだ。後腐れなく、いつも前だけを見て突っ走るようなところが、彼女の長所だ。

美歩のことを考えた後すぐに、大学時代の私のことをよく知っている美歩になら春野くんに会ったことを話してみても良いかな、とまた彼のことを思い出している自分に苦笑した。大学時代に一度も浮いた話がなかった私の話を楽しそうに聞く彼女のサイダーみたいに弾ける笑顔が目に浮かぶようだった。


仕事が終わって美歩と合流してから聞かされた話は衝撃的なものだった。美歩が選んだ店は、私の最寄り駅の隣の駅にあるイタリアンレストラン「サマー」というアットホームで居心地の良い店で、具だくさんのペスカトーレが看板メニューだったから、私たちもそれを頼んだ。互いに仕事の愚痴や大学時代の同級生の話をしながらピザを切り分けていたときに、突然、美歩は切り出した。

「夏紀、わたしね、子供できた」

「えっ、美歩、付き合ってる人いたっけ?」

私は驚いてピザのチーズを落としてしまった。美歩は慌ててピザの下にお皿を差し出してチーズを受け止めてくれた。

「いや、いないよ。こないだ別れた彼氏の子供。まさか妊娠しちゃうとはなー。どうしようか悩んだんだけど産もうと思ってる。」

「相手には言わないの?仕事はどうするの?」

なんでなんで、と質問が止まらない。美歩はずっと憧れていたCAになって仕事をバリバリこなしていたから、この状況で産むという選択をすることが、ましてやシングルマザーになることにするなんて、あまりに意外で頭がついていかない。

「私も昔は、仕事ずっと頑張りたいって思ってたし、結婚しても子供は絶対に産まないって思ってた。でも今お腹にもう既にいるわけだし。もう四ヶ月なんだって。私と血の繋がった人間がここに生きているんだって思ったらなんかものすごく幸せだなって思ったんだよね。この子がいればいいかなぁって。」

そう言って笑う美歩の優しい顔立ちにはっとした。もうこの人は、お母さんなんだ。そう思った途端に、彼女の決断に全面的に賛成だ、私に出来ることなら何でもしよう、となんだかこちらまで張り切ってしまった。

「そっか、美歩はきっと良いお母さんになれるよ。生まれるのいつ?」

「10月末。生まれたら会いに来てよ。」

楽しそうに話す美歩が幸せそうで私は安心した。きっと良いお母さんになれるに違いない。彼女のような華やかで温かい空気に包まれた人間がもう一人この世に生まれることは、私にとってもとても幸福なことだ。きっと美歩の大きな愛に包まれて、すくすくと育つことだろう。

美歩に聞いてほしいことがあるんだとふいに思い出して、会ってから一時間半が経ってようやく私は意を決して彼との再会を打ち明けようとした。そのとき、信じられないことが起こった。

「ただいまー」

店の中にいるおじさんに声をかけるスーツの若者。

「おかえりー」

レジに立つおばさんが答える。今通った眼鏡の青年は、そのまま店の奥へと消えた。よく似ている。二週間ほど前に会ったあの人に。彼の最寄り駅の近くにあるこの店。すべてが繋がった瞬間、これからあなたの話をしようとしていたんですよ!と笑い飛ばしたくなると同時に、目の前で起きた出来事が信じられなくて動転した。

「息子さんかね、真面目そうだね」

美歩は、私がそわそわしているのにも、彼が元同級生の春野くんだということにも気付いていないようで、ペスカトーレに入っていたエビの皮を剥きながら興味があるんだか無いんだかわからない調子でいった。おそらくここは彼のご両親が経営するお店なのだろう。

「ねぇ美歩、二年の時にとったドイツ語の授業覚えてるでしょ?」

「うんうん、覚えてるよ。夏紀さん単位落としてたよね」

「そんなことは一刻も早く忘れて。あのあとちゃんと再履で取れたんだからね。あの授業でさ、私の隣に座ってた男の子覚えてる?ほら、眼鏡かけてた真面目な。」

「あー、覚えてる覚えてる。夏紀がTHE 理系男子、とか言ってた子でしょ」

「しー」

本人やご両親に聞こえてしまってはまずい気がして、慌てて口の前に人差し指を立てる。美歩の耳元でこそこそと、彼に電車で再会して傘を届けてもらったこと、連絡先を聞いたこと、そして彼の家がここであるとたった今知ったことを手短に説明した。美歩はニヤニヤしながら言う。

「なるほど、で、さっきの人がその人というわけか」

「そういうこと。連絡するきっかけもないし結局このままお別れなのかなって思ってたから、こんなところでまた会うなんて信じられない。これだけ偶然が重なると、なんかつけてきたみたいに思われそうで嫌だな。」

「向こうは今夏紀に気づいてなかったんでしょ?本当にただの偶然なんだし、堂々としてればいいじゃん。ほら、海老食べな。」

美歩が私の皿に乗せてくれたパスタの海老の殻を向きながら、私は改めて状況を理解しようと努める。少しずつ落ち着きを取り戻し、こんなにも偶然は重なるものなのか、人生は面白いなと他人事のように考え始めた私に美歩は言った。

「今日の夜、連絡してみたら?今日サマーで大学の友達とご飯食べたよ、ペスカトーレを食べたよ、美味しかったって。あなたを見かけたよって言えばいいじゃない。」

「いやいや、無理無理。電話番号しか知らないし。これから帰ってかけたら大分遅くなっちゃうし。」

「何言ってんの、今まだ九時だよ?私たちもう26なんだよ?時間とかを理由にするには大人になりすぎてるんじゃないかい?」

美歩の言葉には一理あるように思えたが、どうしても電話を掛けようという気にはなれない。もしも出なかったら?万が一出たとしても不機嫌だったら?全然話がつながらなかったら?心配の種は尽きない。

「向こうに彼女がいるかもしれないでしょ。一度連絡して色々話してみた方がいいよ。好きなんでしょ?」

「別に好きとかじゃないよ。ただ、久しぶりに会えて嬉しかったんだよ。」

「話したこともないのに会えて嬉しいなんて、あんたら中学生かい!」

からかうような口ぶりの美歩は楽しんでいるようにしか見えない。しかし私も、今のこの状況が楽しくないとは言い切れない。こんな風に携帯電話を気にする生活を送るのは、実を言うと高校以来だ。もう10年近く、私は恋愛から遠のいた場所で生きてきた気がする。

「まぁ、どっちにしろ、後悔しないようにね。学生時代みたいにまた明日、また来週ってすぐに会えるわけでもないんだし。結婚しちゃったらおしまいだし。26って難しい年だと思うんですよ、お姉さん。」

母になる美歩の言葉は、さすがとでも言おうか、以前より明らかに重みを増していた。私の心にずしりと現実を思い知らせた。美歩と別れたあとも、結婚しちゃったらおしまい、というフレーズがいつまでも耳元で響いていた。


あなただけの身体じゃないのよ、なんて姑みたいなことを言いながら、私は美歩を車で送り届けて帰宅した。時間は10時半を回ったところだ。謀らずも彼の家へと足を運び、二週間ぶりに姿を見ることとなった私は家に入るやいなや台所へまっすぐ向かう。冷蔵庫からビールを取りだして開けた。ごきゅごきゅと喉を鳴らして無我夢中に一息で飲み干して缶をゴミ箱に放り投げたが、缶はゴミ箱には入らない。一メートルほど離れたところにカラカラと音を立てて着地した缶を眺めながら、わたしはぼんやりと自分が普通ではない精神状態であるのだと理解した。普通ではない精神状態、とはすなわち、おそらく、恋をしている状態と推測できる。誰かのことを考えて落ち着きを無くしたり慌てふためいたりするのはカッコ悪いことであると決めつけていたこの私が。今年26になるいい年をした女が。考えれば考えるほど、わからなくなる。もう一本飲んだら寝ようっと、と独り言を言いながら冷蔵庫へ向かわんとしたとき携帯が震えた。美歩かな、と画面を見ると、「春野くん」の文字がある。一気に酔いが覚めた。

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