ーー空をね、飛べるんじゃないかって思うの
「ーー空をね、飛べるんじゃないかって思うの」
そう言って、優しげな微笑を浮かべてミカはこちらを向いた。
その時二人でベランダから見えた、空に上がっていた月は、綺麗で繊細な大きな丸を形作っていた。そしてその周りを煌びやかに飾る星を見れば、確かに飛ぶ価値のある空だと思った。
深夜の町から角のある光が消え、ただ月の光に照らされるアイツは本当に綺麗だった。俺が見惚れてしまうほど。
ああ、やっぱり俺はこの人が愛おしくてたまらない。俺は彼女と口づけを交わし、一生に一度の不器用な言葉を必死に紡いだ。
それから一ヶ月後の七月一日、俺の前には生気を失いたくさんの無機質な機械につながれ、病室に無機質に横たわるミカの姿があった。機械の一つが発するピッ、ピッ、という音以外どんな音も聞こえない。
医師は辛いぐらい丁寧に彼女がおかれている状況を教えてくれた。
ミカがどうやらマンションの自室から飛び降りたこと。今こうして生きていることが奇跡であるということ。しばらく目を覚まさないだろうということ。それどころか一生目を覚まさないかもしれないこと。目を覚ましても重い後遺症が残るかもしれないこと。
一ヶ月。
タイムリミットは一ヶ月。もしそれまでに意識が回復することがなければ……。
もうここら辺から医師の説明も、機械の音すら耳に入らなくなった。
どうしてもやらなきゃいけないことがある、だからしばらく一人にして欲しい、俺がミカにそう言われたのはこの日の一週間前のことだった。
どういうわけか話を聞いたが、ミカはことが片付いたら全てを話す、と頑として事情を話そうとしなかった。
俺の方もあまり詮索するのは気が引けた。だから、何か危なくなったら必ず俺に言うことを条件づけて彼女の要求を飲んだ。危なくなったら、などと言ったがまさか本当に危ないことに手を出すなどとは欠片も考えていなかった。別に大したことではないだろう、と。
俺はタバコの吸殻を灰皿において今の状況に思慮を巡らせた。
俺たちは結婚を七月の七日に控えていた。結婚が近づく中、最後に一人身で色々やりたいこともあるのだろう。そう思っていたのだ。
今思えばそれは誤った選択だった。誤った選択だったのだ。
胸が張り裂けそうになりながら、いつの間にかミカと俺だけになっていた病室を出た。
すると、すぐそこに見覚えのある男が立っていた。警視庁で何度か見かけたことがあった。確か名前はーー
「警視庁の組織犯罪対策部 組織犯罪対策第5課の山本です。この度は……」
そうだ、山本だ。山本は頭をスッと下げた。そしてすぐに頭を上げこう切り出した。
「秋里ミカさんのことです。あなたも色々知りたがっているのではないかと」
「ーーっ!」
山本から聞いた話では、ミカが関わっていたのは麻薬組織だった。別にミカがその組織の一員だったわけじゃない。
彼女は幼馴染を救おうとしていたのだ。幼馴染の名前は藤田。彼は大学の頃によくあるその手のカルト系サークルに嵌ってしまった。そのカルト系サークルの実態はさらに闇深く、組織的な大規模麻薬栽培に手を染めていた。藤田は大学を中退してから五年以上その組織に関わっていたことになる。その藤田を組織から足を洗わせようとしたのだ。
ある程度合点がいった。俺の職業は警視庁捜査一課に勤める警察官。こんなことを俺に相談すれば藤田もただでは済まない。いや、そもそも仮に彼が足を洗えたところで警察沙汰は免れない。それでも救いたかったのだろう。両親を早くに亡くした私にとっては本物の兄弟のような人なんだ、と。そう彼女が残した手帳には書かれていたようだ。
ある程度話終えたのか山本は一息ついた。だがすぐにこちらを向きなおして言葉を続けた。
「最初我々は秋里ミカさんが組織に近づきすぎた、そのために口封じとして、さらにそれを自殺に見せかけるために彼女の自室のベランダから突き落としたものだと思っていました。ですが、結果から言うとどうやらそれは少し違ったようなのです」
抵抗した跡がないのだそうだ。落ちた時の傷以外そのような跡が見当たらないのだという。
「じゃ、じゃあ自分から飛び降りたってことですか!!」
俺は病院ということも忘れて声を荒げてしまった。それを山本に手で形だけ制止されなだめられた。
「落ち着いてください。あなたにとって辛いのはここから先です。心して聞いてください」
いったいこれ以上なにが待ち受けるのだろうか。
「彼女の血液から薬物の成分が検出されました。おそらく件の組織の栽培しているものでしょう」
考えたくもない推測が頭を冷たく淡々と巡る。
藤田を止めに行ったミカがなんらかの形で薬を飲まされたのだろう。そして正常な判断ができない状態で飛び降りろと言われたらどうなる。もはや催眠のように。
これ以上は考えたくない、嫌だ、嫌だ。
「ーーりしてください!」
気がつくと俺は座り込んでしまっていたらしい。
「遠藤さん、あなたも今日は休まれた方がいい。これ、私の電話番号です。もし何かあれば……」
呆然とする中番号の書かれた紙を受け取った。山本に初めて名前を呼ばれたことにももはや気づかない。
あともう一つこれを、と手渡されたのはミカの手帳だった。
「先ほど申し上げたことのほとんどはこれに書いてあります。本当は全てあなたに向けて書かれたものでした。もうこの手帳の調べは終わったので遠藤さん、あなたに渡しておきます」
それではこの辺で私は捜査に戻ります、と山本は電気が落とされて薄暗い廊下の向こうに消えていった。
俺もしばらくして、山本と同じように消えた。そのままどこかに消えてしまいたかった。
病院の駐車場、ここもやはり暗かった。俺は自分の車にやっとの事で乗り込み、キーを差し込み、エンジンをかける前に車内のライトをつけた。
さっき預かった手帳を開いた。
ユウトへ。そんな書き出しから始まっていた。書かれていることは先ほど山本から伝えられたことと相違なかったが、ただ一つ。ただ一つ。
手帳のページそれぞれに涙の跡があった。きっと、きっとミカは俺に嘘をついていることに胸を痛め、それでも幼なじみを救いたくて、堪えきれない思いでこれを書いたのだ。
俺も堪えきれなかった。もう無理だった。とどめとも言わんばかりに医師の言葉が蘇り、胸に突き刺さった。
一ヶ月。
真っ暗な駐車場で一人。大声で。泣いた。
帰宅したのはそれから三時間ほど経った朝の五時過ぎだった。もう向こうの方の空は白みがかり始めた。
俺は迷わずに固い決意を持ってとある人へ電話をかけた。
『はい?』
若干眠そうな相手に俺は要求をぶつけた。
『……!』
相手が電話の向こうでニヤッと笑ったような気がした。そして、
『ええ、なんとかしてみせましょう!』
ーー七月三十一日
俺が今回の麻薬組織の捜査に加わってから三週間とちょっとが経った。
俺はあの日、帰宅した後すぐに山本に電話をかけた。それは自分を捜査に加えて欲しい、そうお願いをするためである。
山本という人間は実は大変に型破りな人間だった。そもそも、山本はいわゆる組織的行動から度々外れたことをしでかすため、組織犯罪対策課の人間からは疎まれていたようだ。そんな人間が組織犯罪に対応する係にいて、さらには結果すら出しているのだから彼の個人の能力には並外れたものがあるのだろう。俺が捜査に加わることができた、それが何よりの証明である。
俺は、先ほど病院でミカの様子を見に行き、今は車で捜査本部の方へ戻る途中である。
まだミカは目を覚ましていない。それどころか今日はタイムリミットの一ヶ月である。
ミカが目を覚ます気配がないことと裏腹に、捜査は順調に進んでいた。
「諦め」
その言葉がすぐそこまで迫っていた。
「待っていました、遠藤さん!」
あまり広くない捜査本部に戻ってきて、荷物をデスクに置いてすぐに山本に呼ばれた。声が弾んでいるようにとれる。
ここに入るたびに周りに睨まれるのはもう慣れた、がいつもこちらを睨んでくる十組の目は誰もこちらを睨んでいなかった。壁のホワイトボードに視線は集まっている。
「どうしたんです?」
ホワイトボードに注意を向けながら山本に尋ねた。
「ついに麻薬を栽培していると思われる工場が見つかりました。度々組織のトップの男も目撃されてるので本拠地ということでいいかもしれません」
今まで組織の末端については数々の現場を押さえてきた。だが、そこで薬物は見つかっても栽培している現場を押さえられたことはなかった。それが今回はどうやら核心に近づくどころか根元から組織を潰すチャンスであるようだ。
ホワイトボードに群がる連中の間を縫ってそこに書かれた内容を全て頭に入れる。
この手の組織は転々と場所を移動していることが多く、悠長にしていると逃げられる恐れがある。だから突入は明日になっている。もうすぐ明日の突入の段取りのミーティングが始まる。
ようやくこの時が来た。俺は腹にどす黒いべったりとしたものを押し殺し、抱えて、ここまで来た。
「ちょっとすぐ戻ります」
そう言って俺は捜査本部を出た。戻るつもりはない。
警視庁を出てすぐに車に乗り込む。目的地はもちろん麻薬を栽培している工場である。
車を走らせながら今日までのことに思い巡らせた。
許せない奴が一人いる。どうしても許せない奴が。
ミカが救おうとした幼なじみの藤田である。奴はただの組織の末端の人間だとばかり思っていた。だが調べてすぐとんでもないことがわかった。奴は組織の中で麻薬の栽培を取り仕切る幹部だった。
藤田は自分から組織に貢献し、自分の意思でミカを傷つけたのだ。
絶対に許すわけにはいかない。ミカが意識を取り戻す望みが薄れていく中、憎しみは嫌な質量を持って増大していった。
奴らの工場と思われる場所の前に着いた。側から見ると変哲もないただの三階建ての雑居ビルである。車の時計で二十時ちょっと。ここで自分が携帯を持っていないことに気づいた。それどころか、他の荷物を全て捜査本部の机に置いてきたようだ。
だがもうそんなことは俺にとってまるでどうでもいい。
ビルには外から見た感じでは明かりは見えない。果たして奴はいるだろうか。
これから一人でカタをつける。
ホルスターから拳銃を少し乱暴に抜いて弾を確認した。念のためだ。いや……。
何が待っているかわからない。拳銃は常に構えておくことにする。
ビルの一階には鍵がかけられていなかった。中はよくある雑居ビルの一フロアである。だが、カーテンが引かれている以外物が何も置かれておらず、もちろん人もいない。それどころか何かに使われた形跡もなかった。偽装だろうか。いや、これではなんのカモフラージュにもならないだろう。怪しい点はあるが怪しい点は見当たらない。結論としてこう言わざるを得ない。
すでに警察に感づかれたことがバレているのだろうか……。もしかしたら全てを取っ払って撤収してしまったのかもしれない。俺はより音と気配を消して二階へと上がった。
俺は二階の部屋のドアの横、壁に張り付いてこっそりと中を伺う。またしても人の気配はない。
しかし、明らかに一階までとは違った。何かの植物が大量に栽培されていた跡がある。だが見た感じでは全て取り除かれ、床に葉が何枚か落ちているのが見える。
やはり、ここで当たりだった。だが肝心の大麻はどこへ…?そして人の姿も見えない。
とりあえず中に入ってみようと思いドアノブに手をかけた。だが、
「鍵がかかってるな」
ぶち破ることもできるが優先度としては明らかに低い。
二階で栽培しているなら最後の三階は加工場だろう。むしろここが重要なのだ。
その時、上からガチャッっと物音がした。ドアを開閉する音だ。
ーー人がいる!
俺はやはり音を消しつつも三階に駆け上がった。おそらく先ほどの人物は階段を上に上がった。足音からして一人。そして屋上に向かったと考えられる。
三階まで上がった俺だったがドアの向こうの異様な何かが目に飛び込む。
「!?」
俺はドアを物音を気にすることを忘れ叩き開けた。
酷たらしい。この言葉ではとても言い表せない光景が広がっていた。
一階や二階と同じ広さのその部屋には室内灯が一つだけ点いていた。そしてそこには十名ほどの男女が転がっていた。そのほとんどが何も着ておらず、異常だった。
さらに全員が全員吐瀉物や液体にまみれてぐっちゃぐちゃだった。部屋に充満する匂いに吐きそうになる。
辺りに錠剤やら吸入器やらが転がっているところから推測すると、過剰に薬物を摂取してそのむき出しの本能で貪りあったのだろうか。
「全員もうダメか……!」
ほとんどはすでに死んでいた。また、まだかすかに息があるものもいたがもう手遅れだろう。この分じゃ薬を吐かせてももう遅い……。
捜査本部の重要人物として見たような顔が何人か見えたが、組織のトップもいないし藤田もいない。
これなら山本だけでも連れて来ればよかった……!
設備から考えるとやはりここは工場だった。だがどうしてこんなことにーー、
「ーー!」
この部屋に気を取られていたがこの部屋から生きて出たやつがいる!
ここに倒れている奴ら全員の顔をなんとか確認したが組織のトップも藤田もこの中にはいない。おそらく先ほど屋上に向かったやつがどちらかだ。
「どっちだ…!」
もはやここまで来たら音など気にせずに階段を駆け上がる。そして屋上のドアをーー
その男は、タバコを吹かしながらどこか汚い満月を見つめていた。
その男は、屋上の風にあおられながら、またそれに抗おうともせずぼんやりと立っていた。
その男は、
ーーこちらを向いた。
もはや目はどこを見ているのかさえ分かりはしない。
藤田だった。俺の腹のなかのぬべったい何かが燃料になって燃え出した。拳銃をホルスターに静かに戻した。
「藤田ぁ……。お前には聞きたいことがたくさんあるぞ」
藤田はこちらを見ながらこちらを見ていなかった。
「ミカをあんなにしたのはお前か?」
藤田に近づきながら俺はこう訊いた。風が強くて奴が聞き取れたかどうかはわからない。しばらくたっても返事がないのでもう一度訊こうとしたその時、
「ミカがさー。空を飛びたいって言ったから」
「は?」
おそらく向こうは俺を知らないはずだがミカというワードに反応したのかつらつらと語り始めた。
「この薬さー、空飛べんのよ。だから飲ませてあげた」
「…………」
「ミカ嬉しそうだったよー。涙流して喜んでた」
「でもこれ未完成品なんだよね。今丸井さんが飛行機に乗ってずっと空飛べる奴作りに行った。そしたらもうこんなのいらなくなるんだよねー」
と、藤田は咥えていたタバコを捨てた。それもクスリか……。いや、そんなことはどうでもいい。
「どう?ミカ空飛んだ?感想聞きたいんだけど」
下卑た笑いをこちらに向けて、今だにどこを見ているかもわからないままこちらに歩み寄ってくる。
「ねえ?ミカなんだっーー」
迷わず殴った。顔面を。
鼻が折れたらしく、奇声をあげている。
俺は倒れもがいている藤田に向かって同じ箇所をもう一度殴った。
俺は手に付いた返り血を一瞥して、屋上を後にした。
体も心も水に沈んだみたいに重たかった。これで終わりなのだろうか。これは終わりなのだろうか。
沈みきった足取りでビルを出た瞬間、見知った顔が一人いた。
「私にも言わずに行ってしまうのはいかがなものなんです?」
山本だった。こうは言うが言葉にも顔にも全く怒気が感じられない。いつも通りの山本だった。
殴っていいよ、力なくつぶやいた。
「殴るどころじゃ済まされないと思いますけどね、これ」
そんなことは知っていたし覚悟もしていた。それでも殴って欲しかった。
山本はさて、と続けた。
「組織のトップの丸井ですけど、今成田空港から連絡があってさっき出発したイタリア行きの便に乗っているようです。イタリアの警察に協力を要請したので向こうに着いた途端につかまることでしょう」
「じきに本部の皆さんも駆けつけます。でもその前に」
何かを手渡された。自分の手のひらを何秒か見つめてようやくそれが自分の携帯であると気づいた。
「携帯ぐらい持っていったほうがいいと思いますよ。大事な知らせが受け取れない」
続けて山本は信じられないことを口にした。
「秋里ミカさん、意識が回復したそうです。早く行ってあげてください」
自分がどんどん浮き上がっていくのを感じた。
「奇跡的に、というか奇跡的に後遺症もないそうですよ。ただ事件前後のことをよく覚えていないらしくて、そのうち思い出すことになるでしょう。秋里さんにとって今回のことは大変辛いことだと思いますので一緒にいてあげてください」
とりあえずは代わりに怒られておきますから、と山本は報告を締めくくった。
俺はすでに駆け出していた。早く会いたい。できるだけ早く。
きっと山本は笑って俺を送り出したことだろう。そしてこのあと待ち受ける捜査本部からのキツいじゃ済まないお叱りを思って笑みが暗くなったことだろう。すまないな、と心の中で謝っておいた。
警察として大変申し訳ない限りだが俺は今回だけ数多の交通放棄を無視することにした。
窓からさっきも見た月が見えた。
なあ、ミカ。お前はあの時こう言ってくれたよな。
「ユウトと一緒ならね、空をね、飛べるんじゃないかって思うの」
俺もそう思う。ミカと一緒なら、あの時みたいな綺麗な空も、こんな汚れた空でもいくらでも飛べる。
赤信号に引っかかった。俺はこんなタイミングで止めてくる信号にイライラして、ポケットからぐしゃぐしゃになったタバコケースを取り出した。
ミカがあんなことになってから一本も吸っていなかった。タバコを取り出して、火をつけようとして、やっぱりやめた。
どうしても藤田がタバコタイプの麻薬を吸っていたことが思い出されるからだ。そもそもミカも俺がタバコを吸うことに対していい感情は持ってなかった。
タバコ、このままやめるか。
信号がようやく青になった。持っていたタバコのケースをぐしゃっ、と握りつぶして、俺は急いで車を発進させた。
綺麗な空を、取り戻しに行こう。