No.401~No.499
401. 彼岸の渉り方
先の未来に対して優しい約束を交わすのは、過去に於て皆無だったと云っても誇張じゃ無い。
明日の単語は今日の延長。
総じて其れは次の仕事に付随したり、又は天気に対する期待や倦怠にだった。
貴方だってそうだった筈。
如何したら良いの。
ユウは、素知らぬ顔で先を行く。
402. 其れは時に美しい残像
パパと一緒に、お部屋の壁にペンキで絵を描く。
明るい色で、森を描くの。
小鹿にリス、小鳥や蝶々が遊んでるお花畑。
遠くにはキレイな湖。
ピクニックにぴったりな森。
一人きりで追い掛けた動物さん達。
誰かが呼びに来てくれるのを待ってた湖。
私の大好きな森を。
403. マカロニ穴の向こう
ドーナツの穴には何が在る。
如何して鯨は空を泳ぐ。
街を巡る水路の先は何処。
小鳥は如何して居なくなった。
何にも難しい問いじゃない。
全てが全てスナークさ。
意味が有ろうと無かろうと、誰も皆知った事じゃない。
突き出された肉刺の先。
訳知り顔の誰かが囁いた。
404. 幼心の黄昏
明日が来る前に。
君の話を聞き乍ら、カップを傾ける。
『先輩』の昼寝場所を見付けただののと、興奮気味に語られる細やかな『探検』。
だが、何れは君も小さな石塊に宝物を見出せなくなり。
薄暗い路地裏には行き止まりが在る事を知るのだろう。
そうだとしても、君は僕の娘。
405. 融けない蝋燭
ジィモが休憩時に『工房』で作っていた物。
兎の置物、では無く、アロマキャンドルだと云う。
安眠効果があるそうなので、早速使おうとした、が。
可愛相だと、君に涙目で首を振られた。
まあ、火を点けなくても多少の効果はあるだろう。
さて、寝室の何処に置けば落ち易い?
406. 垣根の上に居る女
空の鳥籠は捨てたかね。
銀の靴も捨てたかね。
黄の煉瓦は赤くお塗り。
黒い仔猫は追い出しな。
バヴィは語る。
謎掛けめいた言葉を。
現は余り見得ない目だが、私にはちゃんと見得とるのさ。
嬢やが大事なら、覚えておおき。
濁色の目が笑う。
天井の片隅、蟠る影を見乍ら。
407. 夢の往路
此れは夢だ。
夢以外に無い。
何せ、小さな僕が目の前に居る。
痩せて生傷だらけ。
人らしく装う事を学ぶ前の、愛想無い子供。
此方を向いては居るが、焦点を結ばない瞳に淡く笑う。
安心しろ。
人生の最後には帳尻が合うから。
呟いた言葉は寝台に零れ。
君の側に在る事を確かめる。
408. 物語り
クルミの殻に小さな金の蝶番。
反対側には小さな留め金。
中には太陽と月と星のステキなドレスが三枚入ってる。
『市場』の人もそう言ったし、エイさんは本を見せてくれたわ。
ドレスが欲しかったのかい、ってパパは首を傾げる。
私はにっこり笑った。
ううん。
お話が欲しかったの。
409. 名前以外を知ってる
私は誰でも無いの。
詩人のお姉さんはさらさらと、ノートに書いた。
私は姉妹で、妹であり姉だった。
そして姉でも妹でも無くなった今、私が名乗る名前は無いの。
羽根ペンでかりかり、お姉さんは声を書く。
変なの。
名前が無くったって、私は『私』でしかないでしょ。
410. いつかまた
やっとパズルが完成!
の、はずだったのに。
最後のピースが見付かんない。
探してもどこにも無いの。
諦めなさいってパパが言う。
とりあえず裏返しにしようとしたら、崩れちゃった。
何か、白い箱から何かが覗いてる絵に見えた、けど。
いいわ。
又作れば。
も一度箱に戻した。
411. 理由探し
ノイとリィスの仲は一進一退。
躯を交す事を、手段や目的だと認識した時点で誤りだ。
正直になりさえすれば良い。
と、云った所で聞かないだろう。
好きだけじゃ駄目なのと無邪気に問う君を撫で、答える。
どんな物であれ、意味らしい物が無いと安心して動けないのが大人なんだ。
412. 家族の空白
欲しい?
欲しくない?
確かめる様に問い掛ける。
君の返事は何時も同じ。
『いらないわ』
『欲しくなんかないわ』
何度聞こうと、首を横に振って云う。
『いらない、絶対』
では、ロラなら?
試しの問い。
ちょっといいかもと返って来て、苦笑する。
父子二人で丁度良い様だ。
413. マルジナーレ
チェス盤の前でオーズィーと物語の果てのお話。
終わりじゃなくて、果て。
世界の果てみたいなものかしらって言うと、猫さんは頷いた。
そうですね。
実際どちらも閉じ込められているのです。
このチェスの様に。
黒白の上、キレイに並んでる駒は突付いても全然動かなかった。
414. グロブラーレ
此処は一つきりだが『彼方側』は沢山在る。
此れは全く不思議な物だね。
しかも『落ちる』のなら『彼方側』は上にあるのだろう。
何処まで昇れば『彼方側』の底に辿り着くのだろうか。
いや、本当は昇って来たのか。
――ジィモの戯言は続く。
なら、僕らは何処へも行けない。
415. 韜晦の解
パパのボートはいつも、ゆったり。
乱暴に抜かされても気にしない。
慌てたりしないで、するする水路を滑ってく。
レッシさんなんて、周りを気にしないでどんどん行っちゃうのに。
年期が違うんだって自慢してたけど、私知ってるのよ。
『工房』のレースではパパが一位だった事。
416. 愛情期限
君何時か、僕を愛さなくなるだろう。
別の者を愛し、僕を省みなくなるだろう。
其れで構わない。
如何か其の時までは、僕を愛してくれないか。
すると、君は力強く言い切った。
大丈夫、私は若いもの。
別の人は、パパを愛し切った後で探しても十分間に合うわよ、と大人びた顔で。
417. 誰にも捧げない
貴方が『君』と呼んでいるから。
彼女の名は『キミ』とばかり思っていましたよ。
稍もすれば恨みがましい声から顔を背ける。
勘違いした儘の方も居るのでは。
尚も縋る声への返答は、曖昧に逃がした。
他人の思い違いを訂正する必要は無い。
僕にとっての『君』は、唯一人。
418. 煩い観客
子供らしくないって知らない人に言われた。
子供らしいって、どんな風かしら。
『らしく』ないと、何でダメなの。
『らしくない』だけで、何で笑われたり怒られたりするんだろ。
――誰でも何でも、その人の想像と違うモノは気に食わないのさ。
パパは呆れたみたいに肩をすくめた。
419. 海を彩る
昨日の痕跡は何処にも見得ない。
一切は海が飲み込んだ。
先に沈んだであろう『落下者』同様に。
確証は無かったが、失踪が止んだ事実がある。
何時か君が投げ入れた時と同じく、波は散り散りになった花束を海底へと攫って行く。
アコーディオンの音色は、最早何処にも響かない。
420. 街の隙間でかくれんぼ
裏道の階段を覗いたら、夏、だった。
すこんと高い青空にむくむくした雲。
その下には、どこまでも広がってるみたいな一面のひまわり畑。
パパに教えてあげなくちゃって、壁に印を付けてから、もう一度覗いたの。
そしたら、夏はどっかに行っちゃった。
本当なのよ。
421. ウンケの護り
『長屋』にはヘビが一匹住んでるんだって、ノイさんが教えてくれた。
神様のお使いで、子供を守ってくれる良いヘビさん。
黒くて、耳があって、けーんって鳴くの。
それは本当にヘビなのか、ってパパは首を傾げるけど、本当よ。
だって、お話通りにミルクを飲んでったもの。
422. 毛糸のパンツ
ユウに編み物を教えたのは私。
だから、彼が何かを編んでる事は知ってた。
けどねぇ、此れは無いんじゃない。
ロラ、見て! そう云ってスカートを捲り上げたアイちゃんの手を慌てて下げさせ乍ら、胸裏でぼやく。
初心者は温和しくマフラーにでもしときなさいよ、全くもう!
423. 本人にどうぞ
今日はダイナーで女子だけのお茶会。
私とアイちゃんとリィスでお喋り。
今日の話題はノイの話。
いいえ、最近ずっとノイの話。
誰かのせいでね。
――あのねリィスさん。
もうノイさんに云った方が良いと思うの。
終にそう切出したアイちゃんに、思わず机の影で親指を立てた。
424. 夜盲の羊
微昏いバルの隅。
俺は二人の仲を知っている。
そう告げると、彼は僅かに目を見開いた。
責める積もりは毛頭無い。
だが、お前は。
俺に皆迄云わせず、ユウが杯を突き付ける。
見続けて来たのなら、今、彼女の眸が誰を映しているか重々承知では。
硝子の向こう。
真摯な目が在った。
425. 優柔不断な主演
『街』で一番大きな交叉点。
あっちからこっちへ。
こっちからあっちへ。
今日も色んな人が行ったり来たり。
角っこのカフェは一番の特等席。
沢山のお話が見られて面白いの。
でも、今一番気になってるのは宝石店の前で悩んでる人。
ねぇ、パパ。
ノイさんは中に入るかしら。
426. 祝福以外認めない
周知の秘密に皆、気が漫ろ。
ノイが出た数分後、手筈通りに君がリィスを『工房』の中庭へと誘い出した。
野次馬達は揃って息を潜め、物陰から窺う。
さて。
後は、意地の張り合いでパーティーの用意が無駄にならないと良いが。
厨房からは既に甘い香りが届き始めている。
427. 追憶の少女へ
唐突にユウがミシンを借りに来た。
トレーンベアラーを任されたアイちゃんの小物を作るから、ですって。
好きに使わせてあげたら、帰り際に思い掛けない贈物。
物のついでだと渡されたのは、色違いの髪飾り。
そんな不本意そうな顔をしないで頂戴。
此れは『妹』にあげるわ。
428. 幸せは誰の物
此の儘幸せになっても良いのかしら。
ふと溢れた呟きに、小さな聲が返って来た。
『幸せにして貰うだけ? 幸せにしてはあげないの』
不思議そうにアイちゃんが云う。
嗚呼、そうよね。
彼は私を丸ごと受け入れてくれたんだもの。
今度は私が、彼を幸せにしなくてどうするの。
429. 役割譲渡
何時も仏頂面の神父も、今日ばかりは神々しい。
祝福を授ける聲は朗々と聖堂に響き、新郎新婦が幸福そうに笑み交わす。
良い式だ。
溢れた呟きに、好意的な相槌が返って来た。
娘の姿だけを追っているかと思いきや、違ったらしい。
祭壇の二人を見据え、ユウは穏かに笑んでいる。
430. 宴席の影で
『工房』で一番人気だった二人の結婚式。
ともなれば、祝福と羨望、そして諦めの混じった視線を送る奴らが居て当然だ。
俺と同じ様に。
だが、別の人間へと似た眼差しを向ける奴が居た。
ユウだ。
……あのな。
アイちゃんの番は当分先だからよ。
そんなにルーカを睨んでやるな。
431. もう既に
ブーケは貴方には早いから。
そう言って、リィスさんは代わりに手袋をくれた。
今はぶかぶかの手袋。
ぴったりになったらパパと結婚するかい、ってノイさんは言うけど。
ぶんって首を振る。
別にパパのお嫁さんにならなくったっていいわ。
だって、もう一番近い所に居るんだもの。
432. ムトゥアリズモ
パパは何型?
本を見乍ら訊う君へ、端的に血液型を告げる。
占いに興味は無い。
そも、抗原の違いが個人の性格形成に重大な影響を及ぼす筈なぞ無かろうに。
其れでも。
同じだねと躁ぐ君に、僕も又笑みを作る。
同じ型なのは素直に喜ばしい。
僕は君に分け与えられるのだ。
433. フィッシュボウル
祭りを迎え、『街』中魚だらけだ。
リストランテで供される多様な魚料理は云う迄も無く。
菓子に玩具、街路の其処此処に翻る飾りさえ、魚。
まるで水族館の中に居るみたい。
君は鰭の様にスカートを靡かせ、賑やかな道を行く。
確かに。
水に鎖された此処は水槽に等しい。
434. 怖がりばっかりね
今日はみんなでホントのさかさまを言う日。
ウソつきのお祭り。
一番大きなウソをついた人には賞品が出るの。
だからあちこちから、キライとか、顔も見たくないとか、大きな声が聞こえてくる。
でも、変ね。
みんな、いつもよりずっと、ホントの気持ちを言ってるなんて。
435. 花やぐ足跡
人は未来を見る事が出来無い。
故に若者は皆、時に俯向き乍も前を見据えて、蛮勇にもひた歩く事を止めないのだろう。
後を振り返り、軌跡を懐かしむのは、歩みに飽いた年寄りの特権……では無い様だ。
砂浜に刻んだ軌跡を眺めて歓談する親子。
其の行き路に幸多かれと願った。
436. 卵菓子売り
『街』の隙間には卵が挟まってる。
彩色された復活祭の卵を思い浮かべて御覧。
其れと似た卵だ。
勿論、中身は普通の卵とは違う。
中身は別の世界。
偶に卵が割れて、見知らぬ路に行き当たると言う訳。
で、此れが其の卵で――。
頻りに僕を窺う君へ小銭を渡す。
中々巧い口上だ。
437. さよならをいうまえに
伝えたい言葉がある。
どうしても口にしておかなければいけない、唯一つの事。
胸裏に何時の間にか巣喰った其れを、如何にか君へと伝達したい。
直截的な欲望を示す言葉でも、物理的な願望の名でも無い其れを。
二人で居られる時間は、思う程に長くは無いのだから。
438. 知らない貴方
パパは時々、甘い匂いがする。
チョコレートみたいな。
バニラみたいな。
私の好きな匂い。
でも、別の甘い匂いがする時がある。
お花みたいな。
シロップみたいな。
誰かさんと、同じ匂い。
どこで付いたか聞かないし、教えてくれない。
だから、どっちもパパの秘密の匂いなの。
439. 美しさは時に毒
ねぇパパ、お日様が遊んでるわ。
君の繊い指が示す先。
硝子窓から差し込む陽の帯に、舞い踊る金色の粒子。
嗚呼、確かに綺麗だな。
そう云い掛けて、席を立った。
腕を捲くり、天窓もベランダの扉も開け放つ。
良い天気だから掃除をしようか。
一陣の風が埃を攫って行った。
440. 飛ばない鳥
教会の窓には翼を広げた天使様が居る。
人にも羽の痕がある。
神父様がそう教えてくれた。
お前も羽が有ったら落ちなかったんじゃないか、なんてルーカは言ったけど。
それじゃあパパに逢えなかった。
広い背中にくっついて、肩の膨らみに顔を埋める。
だから羽なんていらない。
441. 熱夜の始まり
君の顔は、絶望とも称べる色に染め上げられていた。
幾度かの開閉を経て、高い声が語る。
――パパ、私一人で寝る。
吐き出した言葉も、繊い肩も、酷く震えていた。
まるで、此の世の終わりと云わんばかりに。
だが、仕方が無い。
一緒に寝るには流石に暑過ぎる、夏の始まり。
442. 記憶の寄す処
『――――』
スケッチブックに引かれた一本の線。
クレヨンが引いた藍色の一筋。
『――〇――』
暫く逡巡ってから、君は中央に黄色で真円を描いた。
其れは、海と空と月の絵。
砂浜から見える風景。
本物は此所に有るから、難しく描く必要は無いの。
君はそっと胸を押さえる。
443. 瓶詰め空想
砂浜で半分埋まった、緑色のビンを見付けた。
中に紙が入ってる。
宝の地図かしら。
遠い島からのお手紙かしら。
わくわくしながら出したけど、何にも書いてない。
裏を見ても、お日様に透かしても。
何にも。
だから、元に戻して海に流した。
別の誰かが、わくわく出来るように。
444. 君を哀す
皿の上に横たわる魚。
鱗は剥がれ。
眸は白濁し。
皮は爆け。
凝固した肉には、とろみのある赤いソース。
芳しい湯気を立てるメインディッシュを前に君は、美味しそうね、と歓声を上げる。
可愛相、では無く。
境界線は何処だ。
浮かぶ言葉と白身を飲み込む。
鈍い方が生き易いから。
445. 狂い騎士の軛姫
へたり込む男と見下ろす男の構図は久方の物。
突然の物音に、アイちゃんが吃驚顔を覗かせる。
途端、ユウの態度が一変した。
工具が落ちただけだと笑顔で告げ、拳が僅かに凹んだ壁から退く。
……確かに俺ぁ、ぶち切れたお前も恐ぇと思うがな。
其の変わり身の早さも怖ぇ。
446. 二つの意味
今日のランチは君が持たせてくれた白黒の塊。
以前古書屋で見た事もある此れは、おむすび、と云うらしい。
何でも、心を入れて結ぶから、御結び、なのだそうだ。
今、手に乗る君の心は、白く、柔らかく、歪で仄かに涙味。
丹念に咀嚼して嚥下す。
喰わせはしない。
他の誰にも。
447. 種と胚
植物になりたいと思った。
花屋に並ぶ事の無い、道端に獅噛み付く様な雑草の類いとして。
枯れたら潔く土に還る、酸素と水と太陽を糧に光合成を行うだけの命。
其れは他人が煩わしい際に耽っていた妄想。
だが近頃は、こう思う。
暖かい部屋で君に世話される観葉植物が良い、とも。
448. スィレーナ
ダイナーの前をかつかつ音を立てて、リィスさんが通り過ぎてく。
キレイで、かっこいい。
でも、ハイヒールは爪先が痛くなるんだって。
じゃあ、どうしてみんな履くのかしら。
ロラは、内緒話みたいに小さな声で言った。
みんな人魚姫なのよ。
王子様に逢うには我慢が必要なの。
449. 夕焼影法師
私の目が変なんだって思ってた。
一昨日遇った『先輩』の影に尻尾が二つあった、とか。
昨日、階段にお澄ましして座ってるヲルトの影が顔を洗ってた、とか。
見間違いだと思ってたけど、そうじゃなかったみたい。
今、一匹の猫さんが橙色の坂道を走ってく。
薄ぺらな影だけで。
450. 終わらない足跡
『街』では、婚約時に靴を贈り合うのだと云う。
同じ材料で仕立てて貰い、其々の片足ずつに同じ印を刻んでおくのだ。
『二人共に歩む様に』との、願いを込めて。
真新しい靴を示し乍ら語るノイを尻目に、ひそりと考える。
何時か、君の靴に僕の印も忍ばせられない物かと。
451. 櫻花落つる
何やら机で色紙と格闘している君。
手伝おうか。
聲を掛けると、素気無く来ちゃ駄目と睨まれた。
仕方無しに本へ目を落す事暫し。
漸く机を離れた君は、ソファに乗り上げて結んだ拳を開く。
途端、舞い散る歪な薄紅の花弁。
捕まえたら願いが叶うの。
花雨の向こうで君が笑った。
452. 思い出は蕾のまま
思い出なんて物は、幾等有ったって多過ぎる事は無いの。
そりゃ確かに重い時もあるけど、段々軽くなってしまうのよ。
だから、精々集められる時に目一杯抱えておきなさいな。
ロラの眼差しの先。
髪飾りを結ばれた銀の写真立ての向こうでは、永遠の少女が微笑んでいる。
453. コンフェイト
ビンの中にはお星様がたくさん居たのだけど。
今はもう一人ぼっち。
甘い甘いブルゥのお星様。
最後の一つは砂浜に埋めた。
小さなお星様の種。
いつか目を覚まして、お空に帰るかしら。
パパは答えてくれないで、新しいのを買おうって笑うだけ。
だからお話はこれでおしまい。
454. ラジオメーター
陽光に分子が踊り、羽を回す。
電球に似た硝子容器の内で、四枚の羽根が回る。
見得ない物を可視化し、くる、くると。
唯其れだけで意味の無い代物を、君は飽かず眺め続ける。
くるり、狂り。
時に早く。
時に遅く。
羽は回帰を続ける。
何時までも回れば良い。
不意に思った。
455. 頁の上でロンド
古本屋さんで謎々一つ。
お話に必要な物はなあに。
えっと、主人公かしら。
私の答えに、ケイさんはそっと首を振った。
それだけじゃ足りない。
一人だけではお話にならないからね。
大事なのは舞台と、そして周りの人だよ、だって。
なあんだ。
じゃあ、この『街』もお話ね。
456. 再帰的ロマンス
白鯨が悠々と『塵芥箱』へと泳いで行く。
白い腹を見上げながら『職人』達が浮かべた一つの疑問。
果たしてモビィは雄か、雌か。
下世話な話に耳を傾けていた君は、そっと言葉を紡いだ。
――モビィはきっと女の子よ。
だって、もう一度こっちに『産んで』くれたんだもの。
457. 酔うならば
今日のレッシさんは少うし青い顔。
夕べ飲み過ぎたんだって。
お酒を飲んで騒いだり、次の日大変だったり。
それなのに、どうして飲むのかしら。
不思議。
パパもお付き合いはするけど、理由を知らないの。
甘い物の方が良いのにね。
パンケーキを分けっこしながら、パパは言う。
458. 楽園を征く
パパと一緒に住み始めて少しの間、ドアの向こうが恐かった。
出たら入れてもらえないかも。
振り返ったらお家が無いかもって考えたら恐くて。
けど、もう大丈夫。
ドアの外にはみんなが居る。
何でもある。
これから会う人や物がたくさん。
それに。
パパがくれた合鍵があるもの。
459. 膿の様に滲む
近頃の君がお気に入りの本。
赤革の表紙に、小口は金塗り。
小さな手に余る程重厚な、美しい装丁の、辞書。
今日も膝上に広げて、言葉を辿る。
――何時か自分で物語を書くの。
そう語る横顔は大人びていて。
嘗て不惑の意味を問うた稚い君が、消える。
胸裏がじくりと痛んだ。
460. 漸く手に入れた沈黙
窓飾りがからころ揺れる。
水路が滔々と囁く。
ラヂオが控えめに歌う。
其れが聞こえる全て。
僕らの間に、会話は無い。
君は何時しか、忙しなく喋るのを止めた。
僕も又、言葉を尽くして意図を伝達する事を止めた。
其れは御互いに知ったから。
言葉が全てでは無い事を。
461. ハルシヲンの揺籃
今迄、眠りは常に浅かった。
目を閉じれば聲がする。
眠るな。
死にたくなければ。
生きたければ。
眸を抉じ開け敵を駆逐しろ。
己以外を排除しろ。
死の可能性を無効化し、排斥し、攻撃に移れ。
だが。
近頃では其の危険回避の能力が働かない間隙がある。
そう。
君の傍では。
462. モールス心臓
寝台の中で君を抱き寄せる。
触れ合う箇所から伝う、君の心臟の律動。
楽しげに跳ねる鼓動は、僕のよりも早い。
軽快に、何かを語り掛けるかの様。
毀れた呟き。
君は云う。
パパの事が好きって云ってるのよ。
『好き』が私を動かしてるの。
僕の手を胸元に導いて、君は微笑む。
463. 魂の眠る庭
モルグ、は、死体置き場の事。
辞書にはそう載ってた。
『工房』の倉庫も、モルグって呼ばれてる。
モビィの所で拾って来た物は、どれも何処か壊れてるから。
だけど、私は知ってるわ。
本当はみんな、眠ってるフリをしてるだけだって。
誰かが起こしてくれるのを待ってるのよ。
464. いしの宝石
ベッドの下に押し込められていた、妙に重いブリキ缶。
蓋を開けば、大小様々な石が詰め込まれていた。
角の残る自然体な物から、波が磨いたのであろう艶やかな物まで。
僕は暫し思案の後、缶を手に君の元へと向かう。
この宝物に相応しい入れ物へと移して良いかを、聞く為に。
465. ディズリヴェッロ
大人の群れに子供が一人。
ともなれば、意識していないと容易く視界から外れる。
だが。
君と僕の身長差。
繋ぐ手の高さに躊躇した。
疲れはしまいかと。
僕の呟きに、君は真剣な面持ちで僕の手を取り頭上に掲げ持った。
御免、違うんだ。
おんぶと抱っこ、何方にしようか。
466. 鋭利な平穏
しゃりしゃり冷たい音。
パパは包丁を砥ぎ終わるまでキッチンから出て来ない。
私は入れて貰えなくてつまんない。
まだ大丈夫じゃないの。
――中途半端が一番危ないんだよ。
余計な怪我をするし、痛いからね。
どんな物でも。
どんな事でも。
キッチンから静かな声が流れて来る。
467. 灯りの昏闇
電球を割る。
既に皹の入っている白熱電球は、モビィが吐き出した物だ。
『落ちた』から壊れているのか、壊れたから『落ちて来た』のか。
定かでは無い。
唯、無心に僅かな力で容易く壊れる硝子を砕き続ける。
再利用の為と云い乍ら。
僕は君に見せられない衝動を昇華している。
468. 拝啓、神様
伏し目がちに机に噛り付いている君。
其の前に開かれているのは、物語を書き留める為に買った一冊のノート。
真新しい其れは、未だ数頁しか使われていない。
物語の断片を前に君は鉛筆を手放し、細く溜息を零す。
『世界』を作るのって大変なのね。
神様はどうやったのかしら。
469. 1+1=∞
真っ青な、本当に白一つない空に、茶色の点が一つ。
紙袋が空を飛んでる。
落ちないで、高く、うんと高く。
サーマルに乗ったんだ、ってパパが言う。
鳥も上昇気流を掴んで飛んで行くんだって。
一人じゃ出来ない事も、誰かと一緒なら出来る。
一人よりも二人。
そういうことね。
470. ラジオゾンデ
空にゆらゆら白い風船。
お天気のご機嫌を聞いてるんだって。
でもね、邪魔されてるみたい。
――あいつが来ると暫らく無線が跡切れる。
しかめっ面で言って、気象協会のおじさんはモビィを睨む。
ガラクタと同じように電波も食べてるのかしら。
モビィって本当にクジラなの?
471. 一過の現在
鳩の縫い包みを、君は何処にでも持ち歩く。
其の為にか、白い躯は薄汚れていた。
時に水浴びと称した洗濯をしようと、取り切れぬ汚れが目立つ。
其れでも君は手放しはしまい。
何時か形が失われる迄。
或いは心から存在が失われる迄。
健全で当たり前の、何時か必ず来る其の日。
472. 永久糖土
朝は君と目覚め。
夜は君と眠る。
なだらかに毎日の生活は過ぎ去り、もうどれ程の年を重ねたか定かで無い。
此所に落ちて暫く。
或いは君が来てからの数ヶ月。
其の頃には暦を残していたが、今ではもう捨ててしまった。
算えなければ此の平穏は永続する。
そんな夢想を、今は抱く。
473. 生者の役
『元の世界を忘れて笑っている奴は最悪だ』
街の大通りで、『以前』を忘れられない『落下者』が喚いている。
誰かが不幸でも、自分が幸せになっていけない訳では無い。
怒声に萎縮した君と目を合わせ、静かに言い聞かせた。
不幸は独りでも味わえる。
だが、僕らは独りでは無い。
474. 故に、希望
『向こう』は一日がとっても長かった。
でも今は毎日が凄く早いの。
『街』は、まだ知らない所がたくさんあるし。
パパのお話も、もっと聞いてたいのに。
もう瞼がくっつきそう。
――全てを知らない事が幸せなんだ。
ゆらゆら揺れる頭の中、パパの声がぽたりと落ちて沈んでく。
475. パラディーゾ
何も彼も捨て去って行き着ける場所が楽園、とは何時かのロラの言葉。
だが、しかし。
君の悲哀。
僕の罪悪。
其れすら受け入れ、赦す此の『街』。
本当は全てを等しく受け入れる場こそ、楽園と称ぶに相応しいのではないか。
等と不意に考えて小さく笑う。
何時か君に教えよう。
476. 羽化の抜殻
私もちょっとずつ大人になって。
服も靴も、合わなくなってきた。
大好きだったけど、もう着れない。
だから、バザールに出すの。
誰かのお気に入りになれるように。
そしたら、パパもクローゼットから持ってくる。
あの黒いシャツを。
もういいんだ、って。
箱に詰めて封をした。
477. 謎なぞり
例えば。
パズルのピースが一つ、異なっているとする。
更に其れは、元来其処に在るべきだった物と大変似た形であるとしよう。
しかし、元と同一では無い以上、填る事は無い。
擬い物を取り除いても、無論其処は空白の儘。
さて此の場合、如何すれば良い。
弓月の口が少女に問う。
478. 蜜月の終焉
始まりの反対は終わり。
人は産まれて後、死へと突き進む。
だから否応なしに終幕を意識せざるを得ない。
だが、此れは想定していなかった。
君が傍から居なくなるにしろ、此の終わり方は微塵も思わなかった。
今度手放すなら、自分からだと。
冷たい寝台の窪みが、玄い孔の様。
479. アナスタシア
深い深い水の中から、昇ってくみたい。
そうして目が覚めら、『ママ』が泣いてた。
『おじさん』は、おかえりなさいって、私をぎゅうっと抱き締める。
『おじさん』の腕は息が苦しくなるくらい強くて。
とっても痛いよ。
まるで、あの時のパパみたい。
……あれ、パパはどこ?
480. 悪夢が音を立て
九つの生の内、一つを落して来た。
微塵も表情筋を動かさず、黒い男は云う。
冗談は笑って云うものだろうに。
揶揄した所で、仮面の如き顔は揺るぎはしない。
揺るがない事を僕は知っていた。
――若し。
彼が君の代わりだと云うのならば。
何と出来の良い悪夢なのだろうか。
481. 誰か、と言って貴方を呼ぶ
今日はとってもいい天気。
お庭で『ママ』が笑う。
『パパ』も笑ってる。
テーブルには出来立てのアップルパイ。
ラジオからは楽しい音楽。
キレイなお家。
私達はきっと、幸せな家族。
でも。
パパが居ない。
私のパパは、ここには居ない。
ねぇパパ、何処にいるの。
482. プルガトーリオ
舞台から一度退けられた役者に、再び灯を当てる必要はあるまい。
僕達はもう老いた。
語る僕に、彼の眼差しが突き刺さる。
――未だ、終わっていない。
嗚呼、あの聲が云う。
あの時が終幕で無いのならば。
此処ですら終焉で無いのならば。
一体何時になったら、終わるのだ。
483. 握り締めたクレヨン
パパ。
何だい。
呼んで答えるのは、おじさん。
本当は違うのに。
パパを呼ぶと、怖い顔で『ママ』は言うの。
『パパ』はここに居るでしょ、って。
どうしよう、パパ。
これじゃ私、パパを忘れちゃう。
忘れさせられちゃうよ。
画用紙の上で、パパの顔がぐしゃっと歪んだ。
484. なぞれない輪郭
此処は似ているな。
良く似ている。
レッシを横目に男が鼻を鳴らす。
嬉しかったか、戻れて。
欠けた『長屋』の穴に入り込み、男は嗤う。
昔の様に。
嗚呼。
胸のロケットを握る。
僕の、アイ。
そう呼んだ時、君が浮かべた少しだけ含羞んだ様な笑みが、もう良く思い出せない。
485. 目隠し鬼
やっぱり『ママ』は私を見ない。
『ママ』が見てるのは『パパ』だけ。
『パパ』は私を見てくれる、けど。
そうすると、『ママ』は少しだけ顔をしかめるの。
だから私も二人を見ない。
二人を愛さない。
でもね。
私は『愛したい』の。
だから、帰して。
見上げた空にクジラはいない。
486. イオ・ノン・オ・パウラ
あれも似ているな。
嘲りを塗した吐息が耳朶を掠める。
だが偽者だ。
未練や執着を持つな。
囁きと共に掌へ落とされた塊。
張り付く様に冷えた鉄。
其の先端に空いた虚を緩慢と目標に向ける。
瞠目かれた青では無く、凍えた黒へと。
消えるべきは、レッシでは、無い。
487. おかえりはさようなら
時計の針が一回転。
円く刳り抜かれた時間が落ちる。
黒い虚ろには人影一つ。
シルクハットが訊く。
少女に訊く。
金の目が訊く。
男に訊く。
半分の『ヒト』が、半分ずつ問う。
二つの、されど一つきりの問い。
『世界』を捨てて逃げますか、と。
弦月の口で。
笑い乍ら。
488. 『君に、逢いたい』
懐かしい。
其の言葉が、ぽつりと浮かんだ。
僅かに緩んだ唇。
見開かれた目。
眉間に宿る険は幼い頃には無かった。
だが、其れでも。
向けられた表情が、酷く懐かしかった。
そして、其れが悲しい。
右手に力を込める。
然様なら、『家族』で在った人。
貴方とは行けない。
489. 『パパに、逢いたい』
細く拙い指が祈る様に折られ、畳まれた。
冷たい土に跪き、薄茶の澄んだ眼差しが遥かな蒼穹を仰ぐ。
少女の薄紅色した柔かな唇が一心に同じ言葉を繰り返す。
其れは唯一絶対であり、何事にも代え難く、無垢で、真摯で、其れ故に此の世で唯一つの、心からの願い事。
490. 例え総てを失っても
『其れで君が帰るなら』
『それでパパに会えるなら』白頁に浮かぶ文字。
「だ、そうですが。
如何でしょう」
上空を見上げ、或いは足下を見下ろし、猫は問う。
其れに答えるかの如く繰られた頁。
一つの名前が消され、出来た空欄に別の名が浮かぶ。
猫は満足げに頷いた。
491. 366日目の奇蹟
ここからお帰り。
『あの人』の声がする。
湖から出て来た白い手が私の手を引く。
落ちてく途中で、黒い人とすれ違う。
けど、振り返ったりしなかった。
だって、目の前にパパが居る。
ゆらゆら揺れる、四角い窓の向こう側。
本当に、パパ?
パパの手から黒い塊が落ちた。
492. ノンナートゥスの産声
擦れた声が問う。
本当に、パパ?
確かめる様に服を掴む指が白い。
そして、短く息を吸い込むと、君は躯を震わせて叫んだ。
愛して、と。
僕を呼び乍ら。
声の限りに泣き叫び乍ら。
焼ける様な躯が渾身の力で獅噛み付いてくる。
君の泣き声はまるで、産声の様だった。
493. 観客の眼
聞きたい事は山程有る。
有った。
あの男は誰だったんだ、とか。
アイちゃんは何処に行ってたの、だとか。
何で俺は殺され掛けたんだ、とか。
今のは何の奇術だ、とか。
そんな言葉を一切飲んで『長屋』に戻る。
其の序で、足元に転がる塊を水路に蹴り込んだ。
部外者は退場、だろ。
494. 最愛たる君へ
安堵の余り呼吸が出来なくなるのは初めてだった。
そして二度と味わいたく無い苦痛だった。
其れでも。
君も何時かは僕の手を離れ。
僕も又、君を置いて先にゆくだろう。
如何か其の時までは、僕に愛させてくれないか。
意気地なしの懇願に、君は唯黙って僕の手を握り締めた。
495. アフター・ア・レイン
物語のおしまいは、ちゃぁんと決まってるわ。
『二人はいつまでも幸せに暮らしましたとさ』この言葉でいつも終わるのよ。
ひどい嵐の後でも、雨が止んだら虹が出るの。
そして、みんなで言うんだわ。
『めでたし、めでたし』温かい雨の降るパパの腕の中で、呟いた。
496. 物語の外側
後は何処へなりとも。
水鏡の裏に響く声。
出来得る筈が無いと首振る男の肩を、『猫』が叩く。
何、貴方とて筆に乗るのを止めればいいんです。
失踪、大いに結構。
案外喜ばれるかも知れませんよ。
登場人物が多過ぎては世界も狭くなろう物。
――何処かで何かの閉じる音がした。
497. シュレーディンガーのチェシャ猫
「パズルは永遠に完成しない」
語り乍らに指で玩ぶは、一片のパズルピース。
「何故か。ピースが一枚損われ、箱は内側から鎖された」
其れを丁重にポケットへと落し、『猫』は一礼する。
「さあさ、紛いの猫は此れにて御退場!」
笑声だけが暗所に谺する。
498. ふたりよりとわへ
中々如何して、物語は『作者』の思惑通りに行かない物。
本当は愛したかった男。
本当は愛されたかった少女。
其れは二つで一つの形。
パズルの様に収まるべき場所に収まった二人は、今更別ち難い。
だから。
海が乾上る迄は、今日が終わらない様に。
涯無い海へと願いを。
499. さよならを言う日
モビィは拾い上げる。
数式の海から語られなかった物語の断片を。
言葉の欠片[ピース]を己の腹腔で継ぎ合わせ、再び世界へと帰す為に。
だが、此処はもう十分だ。
ごぉんと一声街に韻かせ、白鯨は『貴方と私の物語』から離れる。
巨躯がゆるりと、数式の狭間に消えた。
500. 【行方不明】
最後のピースは行方不明。
其れ故に物語りは永遠に始まり続け、終わり続ける。