表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
il pazzle  作者: 橘颯
1/5

No.001~No.100

登場人物

アイ:私・少女 / ユウ:僕・男

ロラ:ダイナー店主 / ノイ:『長屋』大家

レッシ:お隣・『工房』の職人 / ガス:『工房』の職人

バヴィ:水路行商人 / イール:『長屋』二軒目住人・『落下者』

ジィモ:『工房』の職人・『先生』・『落下者』 / コトリ:鳥屋店主』

リィス:お向かいのお姉さん・『落下者』 / ルーカ:教会の男の子 

エイとケイ:本屋店主夫妻・『落下者』/ テオ:教会の神父・『落下者』

01. ノウワンズランド


此処には何かを無くした者が来る。

焦点の虚ろな黒穴めく眸が、塵捨場を見下ろし呟く。

物、人、或いは記憶。お前も無くしたのだろう。

或いは、捨てたか。淡々と地に横臥する者へ聲は降る。

ようこそ。故に誰もを受入れる地へ。

歓迎と取れる声にも終ぞ感情は無かった。


02. パラティッシ


野太く、だがしなやかさを持つ声が紡ぐ。

Paratiisi。

『私』はそう称ぶわ。

節くれ立った指には針の様なシガリロ。

勿忘草色の糸が一筋立ち上る。

何も彼もを捨て去って行き着ける場所でしょ。

積乱雲を割って征く鯨を眩しげに見上げ、囁きを溢す。

『楽園』なんて。


03. アンダーヤード


張りぼての街、其の上空。

果て無く広がる青の一枚布の上を、モビィがゆったりと泳いでいる。

本日は快晴。モビィの口から零れるフラグメンツが、陽光を弾いて眩く輝く。

この分なら、砂塗れの男達が笑い乍ら帰って来るだろう。

明日も晴れれば良いと女は洗濯物を広げた。


04. ダストシュート


擂鉢状の穴の底。

蟻地獄とも称ばれる其処に降りて行き乍ら、何時もの様に馬鹿話。

宝箱やら何だかんだと呼ばれちゃいるが、此処は所詮塵芥箱だ。

他に似合いの称び方なんて無いだろう。

陽気に笑い飛ばす赤ら顔に唯一つ頷いた。

塵芥箱の底で塵芥を漁る塵芥虫だ、俺達は。


05. ナウヒア


『世界』は語られる。

男の口から。

女の口から。

老人の繰言。

幼児の戯言。

本で。

歌で。

字で。

音で。

総ゆる形で『世界』は語られる。

昨日も。

今日も。

明日も。

『生粋』の生まれでない限り、『彼等』は語り続ける。

嘗て己が属していた世界を。

そして、今此所に居る其の意味を。


06. ノウウェア


塵捨場の砂に塗れた儘、歩く、歩く。

疲れた躯を引き摺る様にして。

ダイナーで買ったデリカの袋すら重い。

其の重さに、少し笑いが漏れた。

本当に重い物は疾うに無くしたと云うのに。

『向こう』に在るのに。

其れでも『僕』は生きている。

限り無く天国に近い地獄[ここ]で。


07. 廻り出す世界


家へ帰り着く寸前、『長屋』の大家に呼び止められた。

あんたを訪ねて来たのが居るよ。

ロラ、は無い。

レッシか。

顔を浮かべて呟くとノイは首を振る。

いいや、小さい女の子さ。

ぐ、と突き出された指が階段の先を示す。

錆の浮く見慣れた扉の前。

膝を抱えて座る少女が居た。


08. ライク・ア・チャイルドライク・チャイルド


階段を登り、小さな躯を見下ろす。

落ちた翳りに弾かれた様に顔を上げた少女は鮮やかに笑った。

『お帰りなさい、パパ!』誰がパパだ。

『だってパパはパパだもん』誰でも良い。

先の言葉を僕が理解出来る言語に翻訳してくれ。

可及的速やかに。


09. シリートーク


僕に子供は居ない。

先ずは穏やかに云う。

僕はもう四十で、四十と云えば不惑の歳だ。

自制し、軽率な過ちは起こさない。

フワクって何? 間髪入れずに問われる。

迷ったり、狼狽てたりしない大人と云う事だ。

でも、『絶対』は無いでしょ、と切り返された。

……賢しら口を。


10. 繋がらない


私はパパの娘なの。

パパがパパで在る様に。

如何して判ってくれないのと云わんばかりに円い眸が見上げる。

庇護欲を擽る稚い眼差し。

絆されるな。

無垢な視線から顔を背けて鍵を開けた。

僕はパパじゃ無い。

早く家に帰りなさい。

そっと背を押遣ると、顔を歪めて離れて行った。


11. オムレツの憂鬱包み


柔らかな曲線を描く表面に、刺すと云うよりも置く様に肉刺を下ろす。

途端黄金の表層は容易く破れ、芳しい湯気が立ち上った。

とろりと溢れ出す、たっぷりバターを浪費った半熟卵。

口に運べば、蕩けたチーズが舌を擽る。

至福。

パパ、美味しい?

此の訊いが無ければ。


12. そして、軽やか


最早燥いた笑いしか出ない。

あの空虚な部屋を後にしてから、ずっと。

煉瓦の赤い所だけを踏んで、少女は僕の後を付いて来る。

時折其れを振り返り、姿が在る事を確認。

滑稽だとは解っている。

少女の影が又、鳥の如く路上を舞う。

其れは全てを無くしたからこそ、なのか。


13. 今目の前に居る者は


『工房』に現れた人物に歓声が沸いた。

パパがお世話になっています。

こましゃくれた挨拶に、脂下がる男共。

正直気味が悪い。

だが其れ以前に何故君が此所に居る。

お弁当忘れたでしょ。

云って紙袋を手渡し、揚々と去る背をレッシが指差す。

あれは誰だって? 

娘だ。


14. ガールズカラー


女心は複雑なの。

ロラがふっと煙を吐き出す。

お前は女じゃないだろう。

言葉は胸の奥深く蔵い込まれた。

口に出さぬが賢明である。

以前、失言した者が如何なったか知らぬ僕では無い。

兎も角謝んなさいよ、との云いに頷くに止めた。

全く、歯刷毛なぞ何色でも良かろうに。


15. 明くる日其の日


人間、諦めが肝腎だ。

結局の所、如何し様も無い。

『教会』へ預ける事も考えたが、止めた。

其れに。

昨晩、無視し切れず家に上げてしまった時点で、ほぼ決まっていたのだ。

『必要ないモノ』は手を取り合うより無く。

家族記念日。

そうカレンダーに印す小さな頭を撫でた。


16. ハウスオブライト


夜闇にぽつり。

遠く小さな灯り。

されど温かな其れに導かれる様、歩く。

足首に絡み、親切顔で奈落へと手繰り寄せようとする疲労に抗い、ただ前へ。

短いステップを登り、錆付いた扉を開く。

そうすれば。

お帰りなさいと、ステラ・マリスの灯火を背負い、君が笑うのだ。


17. よいこわるいこいらないこ


ここはいらないモノの街だって、親切なおじさんは教えてくれた。

いらないモノが集まってくるんだ、って。

じゃあ、わたしも? 

そう聞くと、困ったように笑うから、慌ててここに行きたいのと紙を見せる。

おじさんは知ってる場所だからと連れて行ってくれた。


18. ホーカス・ポーカス


起きた時、手の中にあったのは一枚の紙切れ。

これは幸せの住所。

シルクハットの影で、あの人はそう言った。

ここで○○が待っているよ。

三日月みたいな口で。

私はがらくたの山から立ち上がる。

待ってるなら行かなくちゃ。

真っ白い鯨を追いかけるように歩き出した。


19. 暖海の底


海の中みたい。

床に横たわって君は呟く。

招かれる儘横たわれば、微妙に歪む壁一面の硝子を透過した陽が板張りの床で揺れる。

45度きっかりしか開かない天窓の隙間を窮屈げにモビィが横切った。

吹き込む風がどうどうと鳴る。

緩い温度が指に絡む。

そして。

二人海底で微睡む。


20. アドレスインヘブン


こんな物書いたかな。

パパが床に落っこちてた紙切れを摘まんで呟く。

あっと言う間にゴミ箱に捨てられちゃったそれを、私はこっそり拾った。

危ない危ない。

ちゃんとしまっておかなくちゃ。

たった一つ。

私が持って来た物だもの。

『家』の住所をベッドの下に隠した。


21. 髪に愛おし


髪の毛を切って欲しいの。

鋏を差し出し、神妙な顔付きで云う。

僕には出来ない。

渋ると、君は躊い無く鋏を髪に当てた。

さりさりと零れる亜麻色は、日差しの下で金に煌く。

パパに、あげる。

昔はブローチにしたのよ。

何時も一緒に居られる様に。

渡された髪は酷く温かかった。


22. コーリング


ユウ。

何度目かの呼び掛け。

返って来るのは曖昧な返答。

『落下者』に有りがちな乖離だ。

しかし。

パパ。

其の一言でユウは、ひとり、から帰って来る。

アイちゃんの髪を撫で、静かに笑う。

十分、愛し愛されてんじゃねぇか。

言葉は声にならず、唯喉を掻く様な笑いに変わった。


23. ラミアカーサ


ただいま、の声に顔を上げる。

白い白い砂の道。

そこから戻って来た工房のみんなと、パパの姿。

パパに抱き付くと、ざあんと寄せた波に砂で作ったお城がさらわれてくのが見えた。

いいよ。

それは海にあげる。

私にはあっちがあるもの。

パパの手を握って、『家』へ歩き出す。


24. ラブレターフロムバスルーム


交代、の聲に浴室へと向かう。

生温い湯気に包まれた先、其れは在った。

朦朧と曇る鏡に、何故かくっきりと浮かぶ物。

何だ、此れは。

石鹸を塗ると曇らないんだって。

ロラが云ってたの。

遠く聞こえる君の声。

大きなハートの中には間抜けた顔が写っている。


25. ブレッドクラム


鳥。

魚。

馬? 

多分此れは犬で、次は猫。

様々な花は名前が分からない物も有る。

船に十字。

点々と床に落ちている、反故紙で形作られた物達。

其れ等を一つ一つ拾い上げて行けば、倉庫の隅で厭に楽しげに笑う君とレッシに辿り着いた。

パン屑より確実、じゃないだろう。


26. 肌の下の海


どこかに連れてかれそうな音が怖くてシャツを握ると、ぎゅっと抱き締められた。

人間にも海が在る。

パパがぽつんと囁く。

だから怖い事は無いよ。

背中を撫でながら。

ゆっくりと。

そして、耳元には心臟の音。

あかいあかい海の音は優しくて。

私は安心して、海に沈んで行った。


27. 心臟の温度


轟と唸りを上げ、湿った風が部屋の中を駆け巡る。

四方を海で囲まれ、街内にすら水路を抱く街では、風も乾く事が無い。

何処か生緩い其れが搬ぶ海鳴りに君が一層身を丸めるから。

そっと胸へと頭を抱き寄せた。

心臟の真上。

留まる熱。

其れは目覚めた後も失せぬ様な気がした。


28. 未だ早い


多分古い映画だろう。

題は分からない。

色褪せたフィルムは寸断されていて、接ぐにも苦労した。

満身創痍な其れを、慎重に映写機へ掛ける。

からりから。

燥いた音を立て、映し出される情景は矢張り取り留め無い。

恰も走馬灯の様に。

浮かんだ言葉に、君が見ない様箱へと隠した。


29. 瞬き一つで世界が変わる


赭く焼けた太陽が海に落ちて行く。

熱塊を受け、海水が蒸発する音が聞こえる様な夕景 。

断末魔の残照を見乍ら、君は云う。

太陽と海がキスしてる、と。

其の一言で、世界は甘い光芒を纏う。

海と融け合い乍ら夜の褥に沈んで行く陽を君から隠す様、窓帷を閉じた。


30. 愛おしい体温


パパは捨てられたんでしょう。

此処で私まで捨てたら、パパには何も無くなっちゃうじゃない。

何時もの勝気な顔で言い切って、君は僕に獅噛み付く。

私も、そうなのよ。

少しだけ震える痩躯。

シャツに皺が寄るじゃないか。

そう叱れば良いのに。

出来ない儘、強く抱き締める。


31. インサイドアウトサイド


クローゼットの中に、黒いシャツ。

パパが何時も着るのは、白いシャツ。

絶対着ないのに、一枚だけぶら下がってる。

私はパパの黒い髪と目を思い出しながら、扉を閉じた。

黒は着ない方がいい。

だって、きっと夜に獲られてしまう。

それでもパパは捨てないでいる。


32. スカビオサ


懐かしくも悍ましい夢を見た。

遠く置き去りにした、戻れぬであろう筈の光景を振り払い、目を抉じ開ける。

胸元に沿う、君の繊い首。

片手で容易く握る事の出来る。

過る思考すら払い、柔い双頬を包んで頭に鼻先を埋める。

温かな亜麻色は、とても健全な日向の匂いがしていた。


(スカビオサの花言葉:無からの出発)


33. 水平双極


一呼吸の間。

僅かな時を経て、膝を折った。

両の脛を床に触れさせ、目線を合わせる。

そうして漸く辿り着く、君の、視界。

低く、狭い、世界。

額を覆ねれば、交叉する視軸。

だが、どうか交わらないでおくれ。

したしたと掌上の塊に清らかな涙を注ぐ君に請う。

其れが僕の祈りだ。


34. アネクドート


ミルクもだめ。

羊もだめ。

寝れない私に、パパは悩んで悩んで、兎を追い掛けて穴に落っこちた女の子の話をしてくれた。

でもね、パパ。

女の子は、本当は帽子屋を追い掛けて落っこちたのよ。

そして幸せに暮らすの。

そう言いたかったのに。

言葉は、あくびに変わって消えた。


35. ドゥルカマラ


『城砦』と言う店が在った。

窓も無い混凝土壁で固められた微昏いカフェ。

疏らな照明に隣の客すら曖昧な、苦い煙草の香が充満する暗室で出される黒水。

珈琲とはそんな物だった、のだが。

今、僕の手に在るのは君と同じカフェオレ。

味蕾を甘く麻痺させる其れに目を伏せた。


36. チャイルディッシュ


バヴィが来たよ。

パパの声に、慌てて水路へ籠を下ろす。

船の上には野菜が山盛り。

トマトにキャベツ。

あ、セロリも。

けれど、セ、まで言った途端、口を塞がれた。

パパは片手で、セロリ抜きの籠を上げてしまう。

どっちが大人だか。

バヴィさんと船がゆらゆら笑った。


37. デイドリームビリーバー


其れは所謂白昼夢と云う物だった。

幸福な幼児期を経て健全な成育を果たし穏やかな老後を送る。

其の僕は、ベンチに腰掛けて躁ぐ子を眺めつつ、足元に群れる鳩に餌をやっている。

鳩と戯れる君を見乍ら、そんな古い幻が甦った。

空では夢の様に白鯨が泳いで居る。


38. アクロス・ザ・ウィンドウ


私の家には壁一面の窓がある。

部屋の奥まで明るいし、海が良く見えて好き。

けど少し暑い。

違う。

少しじゃなくて、とっても。

でも、カーテンは無し。

付けなきゃいけないけど、まだ無い。

多分これからも。

海を見るパパは今日も、少し懐かしそうな目をしてる。


39. 6月キャンディ


今日も雨。

昨日も雨。

うんざりしても一ヶ月は続く雨。

『あちら側』の東の国と同じ。

そうパパが言ってた。

つまんない。

溜息をついたら、頭にこつんと何かが当たった。

ぱらぱら降って来るのは青空色した飴。

こっちの『あめ』なら大好きよ。

素敵な雨雲に、キスをあげた。


40. いきもの、よきもの


パパの長い指に摘ままれた針が動くたび、白い糸が右左。

ぱっくり開いた穴を塞いでく。

最後にぱちんと糸を切って、出来たのは真っ白の鳩。

すっかり直ったぬいぐるみ。

真ん丸の目は、何時かの小さい子に似てる。

おかえり。

呟くと、パパの優しい手が頭に乗っかった。


41. ルッキング・フォー・サムシング


煩い隣人は今日も窓から逃亡。

親切な大家は何かとお裾分けを持って来る。

世話焼きなダイナーの店主は距離を測り違えない。

其れは何時かの巻き戻し。

一度は手放した物が此処には在る。

僕を愛してくれる君すら居ると言うのに。

何故。

此の目は徨うのか。


42. 猫とワルツ


私が三歩進むと『先輩』も三歩進む。

必ず三歩先。

遅れても怒られるから、ちゃんと後ろに付いてく。

階段を上って降りて。

市場を通れば噴水前。

そこから街をぐるっと一巡り。

もうだいぶ覚えたよ。

ありがと。

街の先輩猫さんは尻尾の先で返事をして、路地裏に帰っていった。


43. アイ・ノウ


愛してくれなくてもいいよ。

ママと同じように。

パパの背中に、そっと呟く。

『私が』、パパを愛してあげるの。

ぺたり、広い背中に寄りかかる。

少しだけ震えた肩に、おでこをくっつけた。

大丈夫だよ。

私は愛する為に生まれて来たの。

愛されに生まれて来た人を、愛する為に。


44. マスケラ


結局の所、誰にも判りはしないのだ。

『彼方から来た』と云えば。

其れが真実か偽りかを知る由は無く。

当人が語る以上は『そう』なのでしょう。

カウンターの向こう、何時もよりぎこちなく、けれど『自然に』笑う彼を見て思う。

貴方には必要なのよ。

其の子が。

素顔になる為に。


45. 一口どうぞ


レッシさんは元気が無い。

パパは自業自得だって言う、けど。

ちらちら私を見てるから、可哀そうになった。

ね、分けたげる。

あーんって差し出したら、ロラがフォークを取り上げた。

私はどうしてかパパの膝の上。

そして、二人に揃って怒られる。

……レッシさんが。

ごめんね。


46. アイゴケロス


岩に腰掛け、汀に遊ぶ背を朦朧と眺める。

見て、パパ。

呼掛けに意識を戻すと、流木を頭の左右に掲げた君。

砂に落ちた影は異形を形作る。

二本の足で立つ、有角の生物。

其れは恰も、幻想の獣に似て。

思わず枝を払い落とし、戸惑う君を抱き締める。

其方には行かないでくれ。


47. ラガッツァ


白いフリル。

ピンクのリボン。

黒のエナメル。

青い花。

金のチェーン。

たくさんの可愛い物。

ロラが私にくれる物。

自分には似合わないからって。

少し哀しそうに。

オンナノコ、にはなれないからって。

でも。

私の髪の毛を編んでくれる大きな手は、誰よりもオンナノコだと思う。


48. 遥かなる旅路


街でたった一つの電車。

赤いペンキもあちこち剥げて、錆びだらけの電車。

砂浜にぽつんとある、もう走らない電車。

まるで海を走ろうとしたみたい。

砂だらけの運転席に入ってガラスも無い窓から水平線を見る。

ねえ、ここからどこに行きたかったの?


49. 月の船


ガスさんが担いで来たのは船だった。

レモン色のペンキもぴかぴかしてる船。

船嫌いのこいつがアイちゃんの為にって言うからさ。

レッシさんがパパを叩く。

帰るよ。

顰め面のパパが水路に浮かんだ船に乗せてくれる。

そっと進み出すと、頭の真上で月も夜空を滑ってくみたいだった。


50.忘れたの、忘れられたの


『長屋』の二軒目に住んでるイールさんは、いつも何かを探してる。

それがどんな形なのか分からない。

ううん、物なのかも分からない。

モビィから落っこちた時には、もう忘れてたから。

何かを忘れた事すら忘れさせて欲しかったよ。

そう言って、今日も探してる。


51. 揺籃揺れた


パパはとても頑張り屋さん。

『工房』では体が大事だからって、毎日運動してる。

今日は腕立て伏せ。

よいしょと背中に乗っかった。

ゆらゆら揺れる背中におぶさって数を数えてると、眠くなってくる。

ふわふわ、いい気持ち。

だったのに。

おしまいってラグに落された。

ひどい!


52. イオ・ロ・ジェット・ヴィーア


サイレンみたいな声を上げて、モビィがおっきく口を開く。

青から白へ落ちてく、いろいろ、色、彩。

きらきら光りながら、穴に落ちてく。

何処かの誰かのいらないモノ。

お腹のモノをすっかり吐き出して、モビィはゆっくり泳ぎ出す。

何時だって下を見ずに。


53. ビー・アワーズ


此間再生した本を抱え、分からない字があると言うアイに、『先生』だったと云うジィモが教えてやっている。

何つーか、すっかり『俺らの娘』みてぇだよな。

レッシの見解に、オレも小さく頷く。

確かに、そう思わないでもない。

が、口には出すな。

『父親』が睨んでるぞ。


54. ビー・マイン


君は誰にでも笑い掛ける。

だからなのか。

『工房』の片隅。

今日も今日とて、作業の邪魔にならない様、静かに座っている君の元へ、『職人』達が入れ代わり立ち代り話掛けに行く。

だが。

眸を向けると君は口唇だけで呟くのだ。

君の『パパ』は、僕。

其の呼称は、僕だけの物。


55. 君と僕の境界線


床に敷かれた黒と白。

明暗の対比。

暑いだろう。

そう弁解して、光に在る君を引き寄せる。

さあ、目を閉じておけ。

思いを透かさぬ様に。

口も閉じておけ。

心裏を吐かぬ様に。

腕の中で身じろぐ君は、一撫でで温和しくなる。

大丈夫。

僕は君と同じ場所に在れる。

此処でなら。


56. アスタ・ラ・ビスタ


『モビィの島』の反対側。

『港』に何時も居る、お爺ちゃんと黒い犬。

バールの店先に置かれたイスに座って、海を見てる。

夕方には、十字路でお爺ちゃんが犬にまたなと言うの。

犬もわんとお返事。

そして二人は右と左に帰ってく。

昨日も。

今日も。

きっと明日も同じ。


57. ムジカ・ムンダナ


そわそわ。

何だか足の裏が擽ったい気分。

音じゃないけど、音がする。

噴水から溢れる水。

街を抜けて行く風。

空を旅してく星。

ほら、『歌』が聞こえるよ。

首を傾げるパパの手を取って、ぶうんと揺らす。

大丈夫。

私が教えたげる。

だから踊ろうよ。

この世界のダンスを。


58. 音色に弄ばれる


いきなり耳元で声がして、本を落っことした。

顔を上げると、屈んだパパ。

私にマグを渡して、今度はパタパタと音を連れてキッチンに戻ってく。

――パパは家に居る時、たまに足音が無い。

私を驚かせるためって笑う、けど。

キッチンからは、今も食器の音だけが聞こえる。


59. 星を呑む


マーケットで見つけた、濃藍色のミルクパン。

ホウロウで出来てるんだよ。

お店の人がそう言って、夜空みたいな表面を撫でる。

私はお願いして、それを取っておいて貰った。

お小遣いを貯めて買うの。

そして、たまに眠らないでいるパパに、星を溶かしたミルクをあげようと思う。


60. ただ願った


『教育』の一環で、兎を飼っていた事がある。

薄茶色の小さな子兎。

最期には如何するのか、僕は知っていた。

其れでも。

餌を遣り、怪我や病気に気を払い。

温かく頼り無い感触を慈しんだ。

其の時が訪れる寸前迄。

あの時を忘れるな。

自分に言い聞かす。

君を撫で乍ら、一心に。


61. 生態観察


子供とは如何なモノだっただろうか。

繰々と動く躯を窺い乍ら思う。

自分は基軸にならない。

だが、出生率が低い為か『街』にも左程子供は居ない。

『教会』のは如何だったろう。

思惟を巡らせるも止めた。

朝ご飯よ、パパ。

揺する手に狸寝入りから起きてみせる。

結論は未だ早い。


62. かつて私の全てであった人


パパの手は大きい。

硬くてごつごつしてて。

でもあったかい。

そっとほっぺたを乗せると、小さな声が聞こえた。

『どうしたら』

閉じた瞼の裏側。

細くて白い手が揺れる。

『――ってくれるの』

大丈夫。

パパの手をぎゅっと握る。

もう大丈夫。

白い手にさようなら。


63. いつか言うおかえりの為に


水の膜の下。

口から吐き出す、こぽりこぽり、銀の珠。

指からも泡の粒が溢れてく。

それは私の欠片。

細かく細かくなって水に還る想像をしてたら、パパに栓を引っこ抜かれた。

お風呂の穴に落ちてく私に小さく手を振る。

またね。

何時か空から戻って来る日まで。


64. ピジョノ


地面に落ちてた白い雲。

近付くと、ふわふわの塊がポッと小さく鳴いた。

雲の端っこにピンクの嘴。

小さな鳩。

首に赤いリボンを巻いた、お洒落な子はおいでおいでするように地面を跳ねる。

後をついてくと鳥籠だらけの店に着いた。

コトリさんが笑う。

家族が見付かったかね、と。


65. 可愛いは化け物


空気に色が付くとしたら黄色か、桃色、それとも赤か。

小鳩を前に交される、寒色ではない声音に溜息を付く。

三人集まらなくても十分に姦しい。

ぼそり零れたガスの呟きが頭痛を喚ぶ。

君、は未だ好い。

だが、頼む、ロラ。

お前まで頬に手を当てて身を捩るのは止めてくれ。


66. チェノーネ


皆の目は一様に真剣で、隙が無い。

其れは恰も幾度もの戦場を経た猛者の面差しにも似て。

何時誰が始めた物か知れないが、儀式の如く一斉に手を合わせる。

そして同じ言葉を唱え、フォークを取った。

――其処から先は戦場。

眼を見開いた儘の君が為、僕も参戦するとしようか。


67. 王女のフーガ


水路の手摺りが地面に縞々の影を作ってる。

そこにしゃがんで入ると、檻の中のお姫様ごっこ。

誰か助けてくれないかしら。

そしたら、檻にぽっかり大きな穴。

パパが傍でしゃがんでる。

檻に穴が開いたので、囚れのお姫様は逃げ出しましたとさ。

そう言って、私を抱っこした。


68. イルマーレ


『全ての命は海に還る』

眼鏡の奥で藍玉が優しく揺れる。

『土に在るモノも、やがて雨と共に海へと向かうのですよ』

そう教えてくれたのはジィモさん。

だから、お墓は作らなかった。

小さな箱は波の下。

その晩。

パパの腕の中、白い小鳩が海の中を何処までも飛んでく夢を見た。


69. ほつれていく


白糸を引っ張れば、ぽろぽろり。

簡単にほどけてく。

マフラーだったモノがどんどんほどける。

床に落ちたそれは、もうただの毛糸。

さっきまでマフラーだったのに。

もう無い。

簡単に無くなっちゃった。

落ちた言葉と毛糸をパパが巻いてく。

もつれた所もほどいて、まん丸に。


70. ネル・パッロンチーノ


膨らむ。

膨らむ。

どんどん膨らむ。

赤い風船、膨らむ。

中に一杯言葉を詰め込んで。

嫌な言葉。

痛い言葉。

苦しい言葉。

悲しい言葉。

全部息と一緒に風船の中。

目一杯膨らんだ風船を、ベランダに連れ出す。

ぶぶぶと泣きながら青い空に飛んでく風船に、やっと笑えた。


71. 雛の塒


此処の所、諦めてばかりだ。

痛切に思う。

今日も今日とて、寝台の中には温かな塊。

良くもまあ、狭い所に入り込んで来る物だ。

しかし、思えばソファーで寝ていた時でさえ、君は来たのだった。

さて。

丸まる躰を横に退け、寝台を降りる。

一先ずあの部屋は、物置に戻すとしようか。


72. 過去は遥かな逃げ水の如く


道の先、溢れてる光みたいな物。

近付き過ぎたら消えちゃうから、私はじっと立ったまま見てる。

時々揺れる光だけを目の中にしまうの。

何時か触る事が出来るまで。

熱くても、冷たくても。

きっと飲み干して見せるから。

私は待ってる。

パパが話してくれるまで。


73. アンテンナ


アンテナ立ってる。

僕の寝癖に触れ乍ら、弾む声。

そう云う君にも、揃いの寝癖。

一体何を受信してるのやら。

跳ねた髪に聲を落すと、勿論パパの居場所に決まってるわと得意げな顔。

緩く僕を指す髪に指の鋏を軽く当て、閉じる。

勿論切れない。

どうか其の儘、僕を捉えていて。


74. インクリナルスィ


ある意味、とても判り易い。

目の前には、不自然な角度で翳された傘が一つ。

其処から伸びる長い両脚と、側らで気遣う少女の姿に、頬も緩もうと云う物だだろう。

我輩と違って、君は無くした物を見付けたのだねぇ。

すっかりと色を変えているユウ氏の肩に向け、囁いた。


75. (ダズント)イグジスト・フロム・ビギニング


鳥が飛ぶ。

馬が走る。

猫の欠伸に、誰かの横顔。

君が穹窿に見る物。

様々な雲の形。

だが、僕には見えない。

何一つとして。

僕には無かった。

君の様に見える目が。

昔も今も。

だから一心に耳を傾ける。

決して判らぬ世界に少しでも触れようと。


76. クレッスィードゥラ


ガラスの中には海水と真水。

引っくり返すと青く染まった真水だけがぽつぽつ落ちる。

どれだけ振っても二つに分かれちゃう。

不思議。

ここの海はそう言う物なんだよって、パパは云う。

決して混じらないから、一緒に居られる。

もう一度逆さにして、静かな静かな声で。


77. スカラマンツィーア


階段の根元。

石畳の隙間にバールを突き刺し、引き剥がす。

僅かばかりの土を掘り、落とすは錆釘。

丁重に埋め、敷石を戻す。

此れでもう悪いお化けは入って来ない。

そう云うと漸く、階段に腰掛けた君が表情を緩めた。

序に、悪い小父さんも。

今頃締め上げられてるさ。


78. 過剰防衛


アイちゃんが男の子と歩いてた。

『職人』の言葉に、先ず動いたのはユウ。

まあ当然だろう。

続いてレッシ、ガス。

ジィモまでもが薄笑いで扉に向かおうとする。

って……おい、待て。

取り敢えず座れ。

そして聞かせろ。

作業道具を手に持って、一体何をしに行く心算だ、お前ェ等。


79. バッカーノ


バールで酔漢共が悪巧み。

さあ、去る君に溢れんばかりの愛を。

大小様々、ハートの形に千切られた紙が舞い、父の背で舟漕ぐ少女に降り注ぐ。

大の大人達が他愛無い。戸に消える背が阿呆と言ち残す。

むべなるかな。

哄笑が弾け、高く杯が掲げられた。

愛[めぐ]しき子に乾杯!


80. フィラストゥロッカ


近頃の娯楽と云えば。

夜、窓から届く物。

潮風に乗り、軽やかに舞う其れ。柔らかく伸び、甘い余韻を残す物。

或いは闇に深く降り積む其れ。

深々と降り、されど艶を帯びて包む物。

夜毎二色の音色は水路を航り、住人の娯しみとなっている事を当の二人だけが知らない。


81. スクリンニョ


『自分だけの物』、何と甘美な言葉だろうか。

所有しない事、執着しない事が美徳。

其れは身に付いた、身に付かされたサガ。

柔らかく寄り添う君を抱き、室内に目を遣る。

今、此処に在るモノは全て僕のモノ。

悪くは無い。

日溜りの猫の如く咽喉を鳴らし、腕の力を強くした。


82. 隙間を埋める


緩慢と頭上を滑る物。

一度、二度。

酷く拙い手付きに意味を見出そうとし、直に思考を破棄した。

知る必要は無い。

柔い五葉が撫ぜる感触だけを追う。

時折髪を梳くのは、多分僕の真似。

懸命に与えられた仕草をなぞる君に、口の端を密やかに擡げる。

そうやって満ちれば好い。


83. 聖域を侵せば


鳴り響く扉を背に、ベランダ伝いの逃走。

硝子の向こう側。

ソファー越し、静かにユウの目が細くなって行く。

くっと上げられた口角に、慌てて軽く手を上げた。

水路へと飛び降りる迄の間に、ちっとも笑わない視線が背中に突き刺る。

もう昼寝の邪魔はしねぇ。

目で殺される。


84. 休日、9時52分


パパを起さないように、そっとベッドから降りる。

腕まくりで用意するのは踏み台。

四本足は一本が短くて、ぐらぐらするから気を付けて。

オムレツを焼くの。

パンもこんがりキツネ色。

コーヒーだっていれたよ。

お疲れさまのパパにブランチを。

今日はゆっくりしようね。


85. ジェラート


こつん。

こめかみに当たる冷たい塊。

アイス食べるか。

目の端で、白と青のパッケージが揺れる。

飛び付くと、笑って手の平にバニラアイスを乗せてくれた。

パパにとってアイス、と言ったらバニラ。

他の味はなし。

だから私は、チョコよりストロベリーより、バニラが一番好き。


86. 罪の果実を何とする


むくつけき男共がダイナーに犇く。

刃物を翳す者。

白粉に塗れる者。

力一杯に伸す者。

懸命に煽ぐ者。

一種異様な光景の中、ロラの目が鋭く光る。

人に押し付けようとするんじゃないわ。

溜息交じりの聲に、少女もこっくり頷いた。

二箱の林檎は、さて幾つのパイになる?


87. 泣くのは一人で十分


もういい。

そう言って、おっきな溜息一つ。

救急箱を抱えたパパは、もう私を見ない。

つきんと胸が痛くなったけど、頑張って口を閉じ続けた。

だって許せなかったの。

絆創膏だらけの膝を抱えて顔を埋める。

パパの事を言うのだけは、許せなかったの。

だから謝らない。


88. 計算と誤算


街では稀に『落下者』の失踪がある。

或る日、突如として消えるのだ。

前触れも無く。

帰還したとの聲もあるが、真か否かは知れない。

だが、其れ故に創られた此の関係。

『父親』の顔は周囲に受けが良い。

しかし。

何時でも手放せる筈の君を前に、よらりと揺れたは波か心臟か。


89. 男は黙って土下座


林檎は好きだよな。

鳩の縫い包みも。

パパもだな。

じゃ、俺は。

レッシの質問に、アイちゃんは元気良く『はい!』とだけ答えていく。

まあ、そう云うゲームなのだから当然だ。

此処迄は良い。

『俺と結婚するか』

……さて、俺達が云いたい事は分かるよな。

其れは駄目だ。


90. 温和しく音無しく


あなたは良い子ね。

リィスさんは私を見ないまま、そう言う。

優しい、大人しい良い子ねって。

見上げても、髪の毛に隠されてお姉さんの顔は見えない。

私はもう一度、お姉さんの手を握った。

ママと同じ温度は、私をそっと包み返す。

だから、やっぱり何も云えなかった。


91. コンジェーネレ


可愛がるのは『娘』だからかしら。

若しくは『落下者』だから。

貴方の其れは――愛玩動物に向ける目と何が違うのかしら。

背を向けて佇むだけの男に、唯声を投げる。

ねえ、ユウ。

判っているの。

あの子は演じる術を知っている。

――お前も、又。

静かな聲に、一粒泣いた。


92. 人より一つ拗れている


笑みを乗せ。

眦を下げ。

柔和でありながら、其の実全くと言って良い程に他者を見ていない双眸。

仕草の一つ一つが丁寧に作り上げられていると思う。

此処の人間達は総じて明け透けだから、余計にそう思うのだろう。

其の癖他人の手を払えない男の先に、幸を願った。


93. 自分のモノには名前を


先ずはお気に入りの本達に一通り。

縫い包みにはリボンの目立たない場所に。

ポーチにハンカチ。

靴の内側。

服のタグ。

油性ペンの滲みに気を付け乍ら、君の名を書く。

其の上には僕の姓。

大切な物だから忘れずに。

二つで一つだからね。

僕の言葉に、君は笑顔で頷く。


94. 見得ない隣人


神様は居るの?

パパはちょっと上を見て、それから、居るよ、と言った。

居て欲しいと思う人には、一人一人違う神様が、ここに居るんだよ、って、左胸を指した。

じゃあ、パパの神様は?

パパは私を抱き締めて、前の神様は居ないけど、居るよ、今も、と頭にキスをした。


95. インディカトーレ


十字架は偶像崇拝に該らないのか。

問いに、眸を交差する形に遣り。

此れは只の空中線故。

神父は云う。

十字架しかり、石碑しかり、或は位牌しかり。

宗教によって違いこそすれ、何れも送受信機よ。

繋ぐ物が無ければ、繋がり様も無かろう。

落書きをペンキで塗潰し乍ら。


96. 幸せ一抱え


機械が唸りを上げ、淡いピンクの霧が周辺を漂う。

そして腕を回す。

兎に角回す。

闇雲に回す。

回し続ける。

霧を幾重にも覆ねて作られるはコットンキャンディ。

次第に成長し、両腕一杯程にもなろう砂糖菓子に、頬を紅潮させ眸を煌かす君。

さて、後の悲劇には目を瞑ろうか。


97. さよならはいつでも目の前に


海へ入ってはいけないよ。

大人はみんなそう言う。

水路なら良いけどね。

噴水なら尚更良いけどね。

教会のルーカだって、そう言うの。

海だけは入っていけないよ。

赦してくれないから、って。

入った人は戻って来なかった。

誰もみんな。

モビィだけ今日も泳ぐ。


98. 正しいしまい方


箱を一つ無くしたような感じだって、イールさんは言う。

記憶の箱を落っことした。

多分厳重に鍵を掛けていたんだろう。

だから中身が溢れもせず、落した事にも気付かなかった。

散らばっただけなら集められたろうに。

大事なら閉じ込めてはいけない。

絶対に、と微笑った。


99. クラッセ・ディ・コットゥーラ


オムレツは得意だが、未だ危なげだ。

刃物も早いだろうか。

そうだな、先ずは簡単なサラダから。

カプレーゼ辺りを当面の目標に――云々。

淀み無く流れる聲に天井を仰ぐ。

まあ、アイちゃんに頼まれた時点で予想してたけど。

どんだけ過保護なのよ、アンタ。


100. アイ・ドント・ノウ


君は海の無い所から来たと云う。

躯の内にこそ響く潮の音も、失せる事の無い水の広がりも知らなかった、と。

そして何より。

空の青と海の蒼。

似てる、けど。

全然違うね。

窓硝子に寄り掛かった君が呟く。

嗚呼、確かに違う。

昔の僕は、そんな事すら知らずに居たのだ。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ