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山内くんの呪禁の夏。  作者: 二宮酒匂
第壱章 鬼の子ミーツ狐の子
5/32

黒蝉

 パジャマに着替えた山内くんは、タオルケットをかぶり丸まっている。パパの実家へ逃げ帰ってきてから、かれはずっとこうして布団で芋虫状態だった。

(お祭りになんか行かなきゃよかった)

 牙笛をお守りのように右手ににぎりしめ、歯の根が合わなくなりそうなほど山内くんは震えている。寝室として使っている座敷の電気はつけっぱなしだった……眠れないのは、あるいはそれが一因かもしれなかったが、消す気にはまったくなれない。

 今日、生まれて初めて幽霊を見たのだ。

(結局は逃げるなら、もっと早くそうしておけばよかった。あんなものを見る前に)

 こちらを見つめてきた死霊の、(うろ)のごとき眼孔を思い出したとたん、ぞぞっと肌が粟立(あわだ)った。

(やっぱりパパのいる部屋で寝ようかな……)

 もう来年は中学生なんだから親といっしょに寝るなんて恥ずかしい。山内くんはそう主張して、すこし前からひとりの部屋で眠るようになっている。しかし今夜かれは、男の意地をひっこめてパパの布団に入れてもらいに行くべきか真剣に悩んでいた。

 なにしろ、火を体内に吹きこまれたときからずっと、

(目がもとに戻らないし……)

 明らかに、視界に違和感があるのだ。

 闇があまりにも澄んで見える。獣の目になったかのようだ。

 怪異こそいまは見える範囲に存在していないものの、それらが見えなくなったわけではないと山内くんは気づいていた。単にこの部屋に存在していないだけである――いまのところは。

「全部あの子のせいだ」小声で罵る。「おかしな技使って、見たくもなかったものを僕にむりやり見せて……人の名前を平気で笑うし、自己紹介でしれっと嘘ついてたし。なにがコン太だよ、男の名前名乗ったけど女の子じゃないか」

 そうだ、まちがいなく女の子だった。

 それを考えたとたん、山内くんは顔から火が出そうになった。右のてのひらに、温かいふくらみの感触がありありとよみがえったのである。布かなにかできつく押さえつけてあったのか外から見ただけではわからなかったが、手で触れたいまでは、あの子に乳房が存在していたことは疑うべくもなかった。

 こんなこと意識しちゃいけない、と山内くんは自己嫌悪に陥って手をにぎりしめた。

(触っちゃったのは偶然だ……女の子だなんて知らなかったんだもの。性別に気づかなくたってしかたないだろ、言うこともやることもぜんぜん女っぽくないし、自分のことオレなんて呼んでるし。

 でも、謝っておこう)

 パパが聞いたら言うだろうから――触ってしまったことはどうあれ事実なのだから筋を通せと。

(それに現実としてあの子の機嫌をそこねてちゃまずいよね、目を戻してもらわないと困るし……

 パパの話だと、あの子の実家に明日行くんだっけ? そのときに会えたら謝ろう)

 少女への対処を考えていると、恐怖はすこしだけ意識から遠ざかった。張りつめていた精神がわずかのあいだゆるみ、かれはうとうとしはじめ――すぐに深い眠りへと引きこまれた。



 怖ろしかった。たとえようもなく怖ろしかった。

 その暗い、荒れ果てた山の(やしろ)の夢は。

 あまたの鳥居立ちならぶ石畳(いしだたみ)の道を、パジャマ姿の山内くんは駆けつづける。ほとんど泣きそうになりながら。(つら)なる千もの鳥居の色は、腐った血を何層も塗りたくったかのように赤黒い。

(逃げなきゃ……この山のなかから。真っ暗な神社から逃げなきゃ)

 いま自分は、ここから必死で脱出しようとしている。それだけがはっきりわかっていた。


  のうけつたちまち……ゆうてきし……しゅうえはみちて……ほうちゃくし……


 低い(うた)声が遠い背後から聞こえた。山内くんは悲鳴を噛み殺した。


  ふにことごとく……らんねせり……ひとのしがいは……かずしらず……


 唄声に背を押されるようにして、山内くんはしゃにむに鳥居をくぐり続ける。だが石畳の鳥居路はどこまでも続いた。息が切れ、とうとうかれはひざに手を置いて休まざるをえなくなった。心臓が破れそうだった。汗が目に入りかけてかれはまぶたを固く閉じた。

(早く出なきゃ、早く)

 もう少しでここから脱出できるという気がしているのだ。がくがく笑うひざを叱咤してかれは顔を上げようとし、ふいに気づいた。

(なんだろ……笛が重い)

 目を開けて見る。ずっとひもで右手から下げていた牙笛を。

 ……宙に浮いた人の腕が、牙笛をつかんでいた。

 血まみれの腕の手の甲は皮膚がはがれて骨が露出し、手首の腕時計にはひびが入っていた。腕は骨が砕けているようでクラゲのようにぐにゃぐにゃになっている。ひじから上は輪郭がぼやけていたが……山内くんが凍りついているあいだに、肩のほうまでうっすらと、人体が形をとりはじめた。

 無残な姿の死霊が現れようとしているのだと気づいて、山内くんの理性は消し飛んだ。

「うわああっ!?」

 山内くんはとっさに牙笛を死霊ごと投げ捨てる。手放した瞬間に血まみれの腕は消えた。石畳にぶつかった笛だけが、路の先の暗がりに転がっていった。

 山内くんは何をしてしまったか遅まきながら気づいた。

(しまった……あれは手放しちゃだめだ!)

 牙笛が落ちた先に駆けよる。拾わねばならない――が、駆けよった先でなにかが身動ぎした。おののいたが、その存在がはっきり見えたとき、つかの間とはいえ山内くんは恐怖を忘れた。

(……へ? せみ?)

 一メートルはある黒い蝉の幼虫……鳥居の陰から頭を出し、がさり、がさりと通路に出てこようとしている。

 不気味だがさっきの手よりはましだ――あぜんとして巨大な虫を見つめ、山内くんは考えた。

(この場所はいったいなんなんだろう? それより、たぶんこの蝉の近くに牙笛が落ちちゃってる……周りで探しててもこいつ、危険はないかな?)

 とたんけたたましい音が思考を破った。全身がこわばる。

〈いいいいいいい!〉凶事を警告する牙笛が、狂ったように()きはじめていた。〈いいいいいいいい!〉

 大きな幼虫の腹の下で。

 これまでの経験が、山内くんに逃走を強くうながした。その笛が鳴ったときには、一目散にあとをも見ず逃げなければならないのだ。そうすることでこれまで命を拾ってきたのだから……

 決断は迅速だった。牙笛を拾いだすことはあきらめ、かれは脱兎となって蝉の前を駆けぬけた。




 山内くんは目を覚ました

 わけがわからないし、ひどい夢だった。さっさと寝なおさなきゃと顔をしかめて、

 ――自分が立っていることに気づく。

(あれ)

 そこは寝ていた部屋ではなかった。

 まだ夢のなかかといぶかるが、もちろんそうではなかった。落ち葉が積もった暗い雑木林のなかに、パジャマ姿で山内くんは立ちすくんでいた。

 足の裏に鋭い痛みが走る。見下ろすと折れた小枝を踏みしめていた。泥で汚れたはだしで。

(僕はあの家から……自分で歩いて出てきた?)

 夢遊病になったことなどこれまでなかった。目が完全に覚め、とつぜん背中が冷たい汗を噴くのを感じた。

 とっさに牙笛をさぐったが、はたしてそれは消えている。

(笛を落としたから……? でも夢なのに。あれは夢のはずなのに)

 焦ったとき、つんと不快なにおいが鼻にとどいた。それはどこかで嗅いだことがあるようなないような……


 小枝を踏む音が背後で起きた。ぱきりと。


 あやうく膀胱がゆるみかける。小動物のような素早さで、かれは体ごとふりむいた。

 懐中電灯の光が目を射抜いた。

「夜中にいったい、君はそこでなにをしとるんだ」

 ライトを手にとがめる声をかけてきたのは、髪が半白になった初老の男だった。銀縁眼鏡をかけ、痩せ型で神経質な雰囲気をただよわせている。

「どうしました、石田先生。なにかいたんですか」

「ああ、みんな……子供が林のなかにいてな」

「どういうことです」

 懐中電灯を持った男のあとから三人分の足音が続いた。大人が二人、下生えのやぶをかきわけて現れた。そのうしろに続いているのはビニール手袋をはめた中学生くらいの少年である。薄ら笑いを浮かべる少年の手袋には、赤黒い血がついているのが見えた。

 山内くんが立っていたのは林の外れで、道路が思いのほか近い場所だったようである。

「あ……あの……僕、寝ぼけたのかも……」

 しどろもどろに言う山内くんに、石田先生と呼ばれた男は舌打ちを聞かせた。

「どういうつもりか知らんが、こんな夜中にふらふらするんじゃない。まったく、青丹(あおに)の餓鬼は猫殺しよるし、最近の子供ときたら……こんな連中が増えたせいで近頃は教職も楽じゃあない」

「先生、この子は寝ぼけたと言っていますよ。見たところ、夜遊びのたぐいではなさそうです」

 後からきた大人たちがやんわりと意見した。石田先生は「そうだな。そこの猫殺しがずっと舐めた態度とるせいですこしカリカリしてもうた。補導員のみなさんのほうが大変だろうに、すみません」と、手を血で汚した少年にあてつけるような言葉を吐いた。猫殺しと言われた少年はそしらぬ顔でそっぽを向いていたが、鼻をひくつかせてやにわに顔をしかめた。

「ここ臭くない?」

 不愉快そうに猫殺しの少年を見たものの、石田先生もすぐにけげんそうに鼻を鳴らした。

「そう言われればなんだ、えらく焦げ臭いな……」

 補導員たちも顔を見合わせている。

(僕の気のせいじゃなかった。みんなこの臭いを感じてる)

 山内くんはとつぜん息苦しさを感じた。

 胸騒ぎなどという段階ではない強烈な悪寒――いますぐ逃げ出したくてたまらなくなる。

「……おい。なんだそれ」

 石田先生がライトを山内くんの横、三メートルほど離れた木の根本に当てた。

 光に照らされたそれに視線をやって、場の誰もが絶句した。

 忌まわしい光景。山内くんはあとから何度もこのときのことを回想して苦みを噛みしめることになる。あのとき自分はすでに、暗い淵に踏み込んでしまっていたのだと。

(あの蝉だ)

 山内くんは震えながら見下ろしていた。

(夢で見た蝉はこの、『かれ』の姿の暗示だったんだ)

 その物体は落ち葉の上で煙をしゅうしゅうと上げていた。高温で焼かれて真っ黒に焦げ、うずくまって地に伏すような姿勢。炭化した四肢は半ばから崩れてなくなっている。

「馬鹿な……これは」

 石田先生がおののいた表情でつぶやく。

 黒い蝉の幼虫のようにも見えるそれは、人の焼死体だった。

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