アカオニアオオニ〈3 河虎岩〉
川べりでの一対一は、ほとんど一方的な展開になりつつある。
アカオニはときおり獰猛な興奮を復活させ、雄叫びを上げながら山内くんに急迫する。それにもかかわらず、場の主導権がその手に戻ることはない。
山内くんは颶風のような勢いで、殴りかかるアカオニを迎え打つ。打つ。攻撃をはたきおとす。打つ。かわして打つ。蹴る。はねのける。さばききれず一発もらう――衝撃と痛み、無視できる範囲――無視して殴り返す。
こぶしとこぶしが宙でぶつかる。小さい石のような山内くんのこぶしの硬さに、歯の間から悲鳴を漏らしたのはまたもアカオニだった。
山内くんは体格と体重と総合的な筋力と四肢のリーチで劣っている。
その一方、小回りと見切りと技の精確さと運動持続時間と四肢末端の鍛え方では、はるかに勝っている。すべて修練によって積み上げたもの。
両手のこぶしを紫色に腫れ上がらせたアカオニはもはや殴ろうとはせず、山内くんを捕まえようとしはじめる。押し倒して、地面での取っ組み合いにもちこむつもりのようだった。
あいにく山内くんは、打撃戦よりも、つかんでくる手をさばく技のほうが得手である。
肩をつかまれたが、即座にひねってその手を外し、また一撃加える。
手首をつかまれる。逆に相手の手首関節を極め、激痛を与えながら地面に転がした。
倒れた相手が立ち上がるのを待つ――ということはなく、山内くんはアカオニの顔面を蹴りあげた。くぐもった叫びを漏らし、アカオニは地面で顔を押さえる。その指のあいだから冗談のようにどっと鼻血があふれた。
(僕より怖がればいい)
肩で息をしながら、山内くんは瞳を炯々と輝かせて血を見つめる。
(怖がって、戦うつもりをなくしてしまえ)
山内くんの攻撃衝動の根にあるのは恐怖である。敵を無力化するまで収まらなくなっていた。
アカオニはあえぎながら、こぶし大の石をつかんで立ち上がった。だが、それは最後の意地だったのだろう。かれは両のこぶし、手首の関節、ふくらはぎ、太もも、足の甲、肝臓、胃と横隔膜、こめかみ、頬そして鼻に何重ものダメージを与えられ、大量の鼻血で呼吸を乱し、立つのがやっとの有り様になっていた。その瞳の奥には山内くんが意図したとおりに、的確にもたらされる痛みと実力差への恐怖が生じはじめていた。
「てめえ……ふざけ、んなよ、二歳下だ、ろ、なんで……こんな……」
中学生と小学生。通常なら喧嘩にもならない体格差。
しかし山内くんは“通常”ではない。幼いころから、命がかかっていると思いつめてきた。みずからの身を守る技の習得に膨大な時間を費やす子供は、そうはいない。
もうフットワークは使わず、山内くんは弱った敵に正面から歩み寄った。石を持ったアカオニの手が、近づくその頭を打とうと鈍く持ち上がる。山内くんは振り下ろされたそれを難なくかわし、正拳突きをかれの水月へと突き刺した。背中まで突き抜ける衝撃に、アカオニがくの字に上体を折る。だめおしに、鋼の鞭で打つに似た下段蹴り――アカオニの下半身の輪郭がぶれるほど思いきりぶちこんだ。
それで終わりだった。
糸が切れたようにアカオニはくずおれ、腹を押さえて立ち上がれなくなった。しゃがんで顔を伏せたまま一方の手のひらを山内くんに突き出し、弱々しくうめく。
「やめろ。やめろよ」
心が折れたとわかるその言葉が、トップドッグを確定させた。
山内くんは追撃をやめて数歩下がった。
(これ以上やれば、弱いものいじめになってしまう)
呼吸を収めようとしながらアカオニを見下ろして言った。
「もう僕らに一切かかわらないでほしい。直文やマイタケたちにも」
「ところが、そうもいかないんだよ」
粘っこい声がかけられた。
山内くんは横を見る。
薄笑いしたアオオニがかれに竹筒を向けていた。
その足元には、白い鼠がいた。中型犬ほどの大きさの体躯のそれを、鼠と呼べるのならだが……それ以前にそいつには頭部がなかった。首には、鮫に食いちぎられたかと思うような無残な肉の断面をのぞかせている。
なのに動いている。尻尾をミミズのようにうねらせ、体を震わせている。
せわしなく身動ぎする首なしの巨大鼠からは、強い苦痛と怒りの波動が伝わってきた。首の断面からは黒い血がおびただしく流れ、神経や血管の束が出たり引っ込んだりしていた。
(あ。これ、この世のものじゃない)
固まっていた山内くんが弾かれたように体ごと向き直ったとき、にわかに首なし鼠は突進してきた。
人ではありえない捷さに、反応する間もなかった。
胸へ体当たりされる。かろうじて腕を交差させて身を守ったものの、後ろにふっとばされた。ふんばろうとした足元が、岸の土を削ってずるりと滑った。
あっと思ったときには水中にいた。
山内くんは川へ突き落とされていた。深い淵。足が立たない。冷静さが保てず、思考が周囲の水泡のごとく乱れる。
(油断した――アオオニのほうが危険だとわかってたのに)
(泳がないと溺れる)
(なにこれ、水が速い、重い)
……なにか奇妙だった。
山内くんは動きにくいことに気づく。いくらジャージを着たまま水中にいるからといっても、ここまで体の自由がきかないものだろうか?
ましてや、これだけ深い淵なのだ、通常は流れはもっとゆるやかになるはずである。それなのに水流は無茶苦茶なほどかれの体をきりもみにしてくる。水の中で自身の体を見下ろして、山内くんは目を見開いた。
数十本もの青白い手……指一本ほどの太さしかない手がたくさん、かれの体を捕まえて転がしていた。
このとき、淵の流れは明らかに渦を巻き始めていた。浅い下流に行くこともできず、ぐいと底の方へ引かれ、山内くんはごぼりと口から気泡を吐く。
(水面に上がれない!)
かれをつかむたくさんの手は、暗い川床のほうから伸びてきていた。正確には、巨大な神体のごとく鎮座する黄色い岩の下、その暗がりから……
河虎岩。
山内くんはアオオニの狙いを理解した。最初から、かれを川に落とすつもりだったのだと。
(岩の下に引き込まれる――)
全身の血が急冷した。焦って大量の細い腕を引き剥がそうとする……が、人につかまれているのとはわけがちがい、その腕は鰻か藻かというぬるぬるした手触りで、つかんでもすべるばかりだった。息ができない苦しさに、頭がガンガン鳴りはじめ、また底へ引かれ……
どぼん。
だれかが間近に飛びこんできたのはそのときだった。白く細かい大量の気泡が、山内くんのそばで柱を作った。
その柱の向こうから、口を真一文字にひきむすんだ紺が現れた。
彼女はぴったり山内くんに密着し、羽交い締めで捕まえ、立泳ぎで水上へと浮上した。
ようやく顔を水面に出せた山内くんは激しくあえぐ――が、下から強く引かれてまた頭が沈んだ。肺に水が流れこみ、むせるとまた水が入ってくる。あまりの苦しさにかれはパニック状態になりかける。紺がぎゅっとかれを胸に抱き締めて暴れることを封じる。
紺は必死な声で叫んだ。
「速川の瀬に座す神よ聞し召せ! 身供えの形呑みて鎮まれ、この形代に穢れあらんや!」
口から上をかろうじて水面に出してむせこんでいる山内くんは、苦しさのなかでその光景を見た。
河虎岩を中心に大渦を巻く淵の波間に、白い紙片が一枚漂っていた。
人形をしたその紙片は渦の中心でぐるぐると回り、とつぜんヒュッと沈んだ。明らかに、水面下にいた何かに引き込まれての消失だった。
同時に体が軽くなり、山内くんの顔はようやく完全に水面に出る。
「山内、水神が、身代わりを受け取ったから、もう大丈夫、だ。暴れるなよ」
紺に諭され、山内くんはむせこみながらもおとなしくする。溺れる危険は去った。
息を継いでいる山内くんを、紺は抱えたまま引いていく。青ざめていた直文やマイタケ、それに紺を呼んできたらしい穂乃果が、ふたりに手を伸ばして岸に引き上げた。
「アオオニぃっ!」
岸に上がるや、荒い息のまだおさまらぬうちに強烈な怒声を紺は放った。憤怒に燃え上がりそうな目で河原を見回す。
「逃げたよ、あいつら。自転車に乗ってさっさと消えた」
マイタケがため息をついた。
紺は歯ぎしりする。
「あのクソ野郎、式神をけしかけて本気で人を……山内を殺そうとした! 頭おかしい」
「げほっ、こ……紺」
山内くんは四つん這いで水を吐きながら、紺に告げた。
「あいつ……僕を知ってた。僕を狙ってたようなことを言った。もしかしたら、あいつが僕を呪詛していたのかも……」
怒り狂っていた紺が体ごとかれをふりむいた。「確かなのか……いや」彼女は左の手のひらに右のこぶしをぱちんとぶつけて気炎を上げた。
「それがほんとかどうかは、ぶちのめした後で本人に確かめればいいや。今日のことで話がすっっごく簡単になった。
アオオニには、術者として対応してやる。
ここまであいつはやらかしたんだ。二度と術を悪用できないようにお灸すえることを、楓だって止めやしねーだろ」
「待って、紺……」山内くんは手をあげて制止する。「それだけじゃない。あいつ、牙笛を、持ってたんだ。僕が夢のなかで落としたはずのやつを……」
息巻いていた紺がぴたりと止まった。彼女は眉を寄せた。
「……なにー? ちょっとまて、闇宮の夢だよな?」
神かくしに関係するかもしれない、あの夢の。
そうたしかめる紺に、山内くんはうなずいて、離れたところの地面を指さした。アオオニのポケットからこぼれおちた牙笛がまだそこに転がっていた。
紺はしばし黙る。彼女は濡れた前髪をかきあげるように押さえて、しずくを切りながら「まいったな」と漏らした。
「そうなると話がだいぶこんがらかってきてんだけど。アオオニがおまえと同じ夢のなかに行ったってのか? ……まさかあいつが神かくし事件の犯人とかじゃねーだろな?」
「あの、紺ちゃん。いろいろ考えるのはいいんやけど、その前に注意しいな」
穂乃果がタオルを紺に押し付けた。
「さらしゆるんどるやん。濡れた服が肌にぺっとり貼りついとるよ。割とスケスケで」
電光石火で紺がしゃがんだ。胸を触られたときのようにひざに顔を埋めてぷるぷる震えはじめる。
男子組は慌てて河原から移動。
河虎岩には荒ぶる水神が宿っているのだと、あとから山内くんは紺に聞いた。




