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山内くんの呪禁の夏。  作者: 二宮酒匂
第弐章 呪禁の町
14/32

流れ灌頂(かんじょう)

 ラムネの瓶に山内くんは口をつけた。ぎらぎら河原を()く夏の太陽のもと、川の清水で冷やされたラムネののどごしが心地よい。

 右隣ではマイタケと直文が、かれと同じく河原の石に腰かけて瓶をかたむけている。……ひとしきり泳いだのちの休憩だった。

 瓶を口から離してビー玉をカロンと鳴らす。

「この“沢のプール”ふぜいがあっていいね」

 口元をぬぐって山内くんは讃嘆した。

 かれらがいま泳いでいたのは、谷川の深くなった箇所を利用して造られた水場である。山間にある小学校からも近く、毎年夏はここが子供たちのプールとして利用されるということだった。

「川の横に着替え用の小屋たてただけの手抜きプールだよ」直文が笑った。「いまどき、学校の敷地内にプールついてないんだからやんなるよ。設備がととのったでっけぇプールに泳ぎに行くことあるけど、絶対あっちのほうがダサくなくていいって。姫路住みの山内がうらやましいや、大きなプールも海も近くにあるんだろ」

「ぼくは川のほうが好きかも」マイタケが控えめに主張した。「この小川は海に負けずいろいろたくさん獲れるんだよ……魚とか、カニとか。岸がいっさいコンクリートで固められてないから。たまに大雨で氾濫して大変だけどさ。でもそのときはカニ罠に獲物がよく入るんだ」

「マイタケは生きた食材捕まえて食うことばっかだなあ」直文が呆れる。

「別にそういうわけじゃ……山内くんはどうなの?」

 話をふられて、山内くんはちょっと辺りを見渡した。

 沢にせりだした頭上の太枝から木漏れ日がふりそそぐ。葉群を透かしたかのように光も心なしか緑を帯びている。川渡りの風とともにカワセミがすばやく視界をよぎる。さざ波で水面が宝石のようにきらきら輝く。やかましい油蝉の声すらも風流に聞こえた。

「こっちのほうが水も景色もきれいだから、僕はこっちが好き」

 真情をこめて山内くんは言った。マイタケがにこにことうなずき、直文が「ふーん、そんなもんかねえ」とつぶやく。

「へっ」

 背後で、だれかが鼻で笑った。山内くんたちはいっせいに振り返る。

 女子用のスクール水着姿の紺がいた。

 山内くんたちは固まる。

「のんきなこと言っちゃって。このあたりの川をきれいなだけだと思わないほうがいいぜ」

 いっちにーさんしー、と準備体操でしなやかな手足を伸ばしながら紺は言う。露出した二の腕や太ももが夏の陽光にまぶしいほど映えた。

 山内くんたちは固まっている。

「変なモノ見たって泣きついてくる前に忠告しとくけどな、山内。この水場は何百年も昔から利用されてて、水難事故も一度や二度じゃないんだぜ」

 紺はつま先をそろえて、ぴょんぴょんとジャンプをはじめた。肢体が躍動するたびに宙にショートの髪先が舞った。その髪は狐の毛並みめいた色素の薄い天然茶毛で、それがきらきら反射光の粉をまいている。

 山内くんたちは固まっている。

「とくに“河虎岩(かわとらいわ)”の周りは危険だからな。オレらは何回も大人から注意されてることだけど、おまえは知らねーだろうから教えるぞ。

 下流の(ふち)に黄色い大きな岩があんだよ、その岩には絶対に近寄るな。何人も死んでんだから。

 ……おい聞いてんのか」

「き、聞いてる」

「なんだおまえら、そろってほけっとアホ面しやがって。あ、この格好?」

 得心いったように紺は水着の肩のところを自分でつまんだ。山内くんはやむなく答える。

「うん……そのう、君は外で女の子の服着ないって聞いた気がするんだけど」

「そうそう、紺はプール授業でも水着になったことないしな」動揺から立ちなおった直文があわてて追随してきた。

「うんうん、珍しくて驚いたよね」マイタケが同じくのっかってくる。

 紺は顔をしかめた。

「しょーがねーだろ、オレだってたまには泳ぎたいんだよ。でも服着たまま泳ぐわけにも男の水着で泳ぐわけにもいかねーもん」

「そ、そうだよね」

「ちょっとのあいだ水着着るくらいいいだろ。ほんとは結界外で童男姿(おぐななり)解いたって、いまの世じゃ別に命に関わりゃしねーんだ。……でも楓にはオレが女子水着着たこと黙っとけよ? しきたりにうるせーから」

「言わない言わない」

 山内くんたちはこくこくうなずく。これにてこの話題は終わったかと思われたのだが、

「わかってないなあ紺ちゃんは!」

「わ!? 穂乃果!?」

 紺のわきの下から、ポニーテールに髪を結った少女がにゅっと顔を出したのである。文字通り話に首をつっこんできた穂乃果という少女は、快活な笑顔で暴露をはじめた。

「男子組がびっくりしたのは紺ちゃんの水着姿が珍しいからじゃないよ!」

「おい穂乃果……」直文が情けなさげな声で制止しようとした。山内くんたちは一様に恥じ入った様子でうつむいている。

「……はぁ?」

 紺はとびきりけげんそうな顔になった。それを穂乃果はふりあおいで「あー、そっか」と言った。

「紺ちゃんみんなの前で水着着たのはこれが初めてやもんね。それでこういう男子の視線気づく機会なかったんかあ」

「だからなんの話だよっ、穂乃果」

 紺の疑問に直接答えず、穂乃果は山内くんたちをふたたび見る。そしてうかつに返答できないようなことを言い放った。

「ねー、びっくりするよねスタイルのよさ! 特に胸!」

「んなっ!?」

 紺が泡を食ったが、穂乃果は意に介さず紺のわき下に顔を出したまま話しつづけた。

「さっきのジャンプ体操のときなんかすごかったよね! ふだんさらしで圧迫虐待してるくせに、解いて水着着たとたん水ヨーヨーぽよんぽよんって感じやもん、卑怯やんね!」

「だっ……黙れバカ!」

 頬を燃やした紺がぐいと穂乃果の頭を押さえる。それにも穂乃果は止まらず、頭上に手をやって勢いよく指さしさえした。「学年中でも一、二を争うボリュームなんよ、これ!」

 かくて事故が発生した。少々無理な体勢で指さしたために数センチほど距離感が狂ったのだろう、穂乃果のひとさし指はななめ下から紺の胸にめりこんだ。水着の生地におおわれた双球の片方がむにゅっとたわむ。

「ひゃわんっ」と悲鳴を漏らして肩をはねさせ、紺が目を白黒させた。

 見ていた少年たちは穂乃果の恐れ知らずのふるまいに声をのむ。

 はたして一秒後、限界まで顔を真っ赤にした紺のひじ打ちが、穂乃果の頭頂に炸裂した。

「いったーい! ひどい、あたしの予備水着貸してあげたのにいっ!」しゃがんだ穂乃果が頭を押さえて叫ぶのをあとに残し、紺は逃げるように足早に川に入っていった。

「紺ちゃんほんと天然エロやねえ。たまにきわどいことするくせに自覚なしなんやから」

 存外ダメージはなかったようでけろりとして穂乃果は向き直る。

 目を点にしていた山内くんの手をつかみ、笑顔でぶんぶん振りはじめた。握手のつもりらしい。

「邪鬼丸くんよろしく! 最近紺ちゃんや直文たちと仲いいんやってね! こっくりさんやったときにあたしもいたの覚えてる!? あの日のお昼から家族旅行に行ってたから、お近づきになる暇なかったけど!」

「いたね、うん……よろしく……できれば苗字で呼んでもらえると」

「え、なんで!? あ、下の名前自分ではあんまり好きじゃないん? ちょっと変わった名前やもんね、あっ失礼なこと言っちゃったかな!? そういえばお祭りの夜に名前聞いてみんなで笑っちゃったのもごめんね!」

「う、うん」

「オッケー、これからは山内くんって呼ぶね! あたし大浜穂乃果っていうんよ! 大浜でも穂乃果でもいいよ! キミにはお礼言わなくちゃって思ってたの!」

 山内くんが困惑して首をかしげると、穂乃果は得々しゃべりはじめた。

「紺ちゃんってほら、怖いものなしやん? ふしぎなことできて度胸あるってだけやなくて! えっとな、紺ちゃんいつでも自信満々やしぐいぐい引っ張ってくタイプから、女子にもアンチいるんよ。助けられたりなんだりで、紺ちゃんに告白しかねないくらいぞっこんファンになってる子はもっと多いけど」

「あ、そうなの……」でもなんとなくわかるなと山内くんは感じた。紺の個性は強烈だ。そのぶん、周りの反応も極端になりやすいのだろう。

「そんでアンチでもファンクラブ会員でもない、あたしみたいな普通に友達やってる子らも……ささいな頼みごとやこっくりさんの監視をやってもらうこと多いと、ね? どの男の子が好きとかの秘密ぜんぶ握られてるようなもんやから、微妙に頭上がらへんの。

 別に言いふらされたりはせんけど、こう、長年の不公平感えらい(すごい)やん?」

「うん……」山内くんは困惑する。話がどこにつながるのかさっぱり見えてこない。「あの、それでなんで僕にお礼を」

「それそれ。うちのクラスの女子の多くは、紺ちゃんの弱みが知りたい思っとったんよ! いじれるネタが欲しいというか? そしたら山内くんが紺ちゃんのおっぱい触ったやん? あの子思いっきり恥ずかしがって乙女反応したやん? 『あ、盲点だった。弱点これや!』ってあたし気づいたんよ」

「………………」

 山内くんは唐突に死にたくなった。

「そんでさっき胸ネタ試したらやっぱりあの反応やん? 紺ちゃんの弱点はおっぱいだってみんなに伝えるつもり。二学期始まったらきっと楽しいことになると思う! おっぱいタッチしてくれてほんまありがとうな山内くん! キミのあのえげつないセクハラのおかげや!」

「やめて……礼を言うより早く忘れて……」

 夏の川辺は緑と陽光に満ちている。山内くんのみ鬱々しい暗黒をまとっている。

「紺に呪われなきゃいいな」

 直文が醒めた声でつぶやき、こそこそとささやいてきた。

「山内……もうだいたい悟ってると思うが、穂乃果の話はまともに付き合ってたら日が暮れるぞ。うるさい長いウザいの三重苦だからな、やんやん鳴く種類の蝉だと思って適当に聞き流せ」

「聞こえてるよ、ひどいやん直文! 年々あたしにそっけなくなってない!? 昔はもっと優しくて話じっくり聞いてくれてたやんか! まだ覚えてるよあんたが保育園のころあたしに渡したラブレターの文句! なんならここで一字一句そらんじてあげてもええんよ?」

「そのネタいいかげんにやめろよな」直文の目の下がひくひくした。「ちくしょう……紺に頼んだら、こいつの記憶を一部消してくれたりしないかな……」

「余計なちゃちゃ入れないなら言わへんよ? ところで山内くん」

 話の矛先が戻ってきて山内くんはびくっとした。

「な……なにかな」

「いま紺ちゃんの家に泊まってるんやろ。なにか祓うとかで。

 あの、聞きたいんやけど、紺ちゃんのおばあちゃん見たことある?」

 穂乃果の顔は思いのほか真剣だった。いつのまにかほかの二人もかれをじっと見ている。山内くんは当惑しながらも首を振った。

「会ったことない」

 実はかれもそれを不思議に思っていたのだ。紺の祖母の姿は一度も見ていない。気配はまったくないわけではないのだが……

 三人が顔を見合わせた。「同じ家に寝泊まりしてもだめか……もう十年は誰も姿見てないって話だよな。やっぱり実は死んでるんじゃない?」直文がとんでもないことをつぶやく。「でも、うちの近所の上月さんが十妙院の家に依頼しに行ったとき、障子に大奥様の影がうつったって言ってたよ」マイタケが怪談みたいな逸話を口にした。「紺ちゃんに聞いたら『年がら年中離れの蔵の地下にひきこもってるだけ』って言うんよ。でもあたしら、紺ちゃんといっしょに蔵を探検したことあったよねえ……? 地下への入り口なんてなかったよね」穂乃果がはばかることのように声をひそめる。

 山内くんはだいたいのところを把握した。どうやら十妙院家の大奥様こと紺の祖母は、あまりに長いこと人前に姿を現していないらしい。生存を疑われるほどに。

「でもほら、十妙院じゃない。狐の家だし……何があっても不思議じゃないよ。秘密の抜け道とかさ」

 漏れてきたマイタケの一言が、山内くんには気になった。

「狐の家? どういうことなの」

「ん? ああ、こっちじゃ有名な話だよ。十妙院家は狐の血が混じってるってさ。昔この土地によそから流れて来た女が――」

 直文が言いかけたところで、穂乃果が「あっ待って」とわりこんだ。

「その話は知りたければ紺ちゃん自身に聞いたほうがいいと思うよ山内くん!

 ところで、とつぜんですがやっぱり直文のラブレターの文面発表しまーす! 『はいけい ほのかちやん いきなりたけと ほくはいつもたのしそうにおはなしするほのかちやんが すきてす』――」

「黙れえええええ」

 絶叫。穂乃果が川に逃げこみ、それを直文が追いかけはじめた。「言わないって口にしたばかりじゃないかよクソ穂乃果!」「きゃははははは」泳ぎは双方得意らしく、クロールしながら猛烈な勢いで川面を遠ざかっていく。

 呆然と山内くんは二人を見送る。「あの二人はいつもあんな感じだ」とマイタケが呆れ顔で言い、それから山内くんに「ここだけの話だけど」とささやいた。

「え、う、うん」

「直文が口にしかけたのは昔から伝わる話だけど、あんまりいい語られ方してないんだ、十妙院の家は。元がよそ者ということもあって、昔は悪しざまに言われてたみたい」

「……そうなんだ」

「直文はうかつだからそのまんま口にしかけたけど。さっきの穂乃果は強引だったけど、あれでも気をつかったんだと思う」

「わかった」

 聞かないほうがよさそう、と山内くんは決める。家にまつわる噂など関係なく、紺は紺だと自然にかれは思った。が、

「あ、でも紺自身に聞いたらあっさり教えてくれるからさ。自分自身でもネタにしてるもの」

「……なんだよそれ」

 思わずつぶやいたが考えてみれば、知らないところで人にささやかれるのと自分で言うのとではかなり違う。

 ひとまず納得した山内くんに、マイタケが笑いかけてきた。

「ところでそろそろ遊ぼうよ。ぼくは魚を捕まえてくるけど、君も行かない?」

 山内くんはうなずいた。面白そうである。

(マイタケっておとなしくて落ち着いてて、話がいちばん合うかも)




「ほらそこ、そこ網のばして! 遅いよ山内くん!」

「ご、ごめん」

「しょうがないな、網を貸してみて。

 小川の中央を人が歩くと魚は逃げるけど、縄張りがあるからか、どこまでも先へと逃げはしないんだよね。ほら、先のほうでUターンして岸沿いに戻ってくるでしょ? 人の横を高速ですりぬけようとするから、その動きを先読みして岸付近に網を突っ込むんだ。川幅の狭い場所で魚のこういう習性を利用すれば、さっきのプールみたいな広い場所でひたすら追い回すよりはるかに簡単に捕れるんだよ。

 ほらこうだよ、こう!」

 ひざまで水に浸かったマイタケが誇らしげにかかげる網のなかに、小魚たちが跳ねまわっている。

「イェー! 幼魚は逃がすけど、十センチ以上の魚はあとで焼こう!」

「マイタケって、魚捕りだとテンション高くなるんだね……

 ところでちょっと……みんなのいるところから離れすぎてない? だいぶ上流に来ちゃってるけど」

 いろいろな理由で冷や汗を垂らしている山内くんに、

「だいじょうぶだよ。このへんはたまに魚捕りに来てるんだ。というか、このあたりくらい川幅がせばまってないと、いまやってる逃げ道に網突っ込む捕り方はできないからね」

 マイタケはこともなげに言って、水に浮かべた竹細工の魚籠(びく)に十二センチほどのハヤを入れた。その魚籠はビニール製の浮袋がついていて、川に半分だけ漬けて魚を生かしておける。生け()状態で、ひもを使って川面を引っ張っていくのである。

「さ、山内くん、やってみて」

「う、うん」

 コツをつかむと面白いほどに捕れた。オイカワ、ハヤ、モロコ……一定の大きさ以下の魚は放すが、それでも魚籠にはどんどん魚が増えていく。いつしか夢中になっていた山内くんの前方で、手ぶらのマイタケは大きな川床の石にとりついてしゃがみこみ、なにやらごそごそしている。

 かと思うと、

「捕れたー! ドンコ!」

 十五センチほどの、ずんぐり太った黒い魚をつかみあげてみせた。

 山内くんは目を輝かせて近寄る。

「なにこれ」

「ドンコだよ、見たことない? ナマズと同じで、見た目は悪いけど美味しいよ。

 山内くんもつかみ漁やってみない? こういう川中や岸辺の石の下……すきまに手をつっこんでまさぐるんだ。ナマズやドンコみたいな速く泳ぐのが苦手な魚は、日中は狭くて暗いところにじっとしてるんだよ」

「ふうん……」

「つかみ漁で昔はウナギも捕れたっていうんだけどねえ。

 ウナギだと思ってつかんだら蛇だったみたいなこともあったらしいよ」

 岸の石の下に手をつっこみかけていた山内くんは高速で手を抜いた。マイタケがあははと笑う。

「そうそういないからだいじょうぶだよ!」

「肝を冷やさせないでよ……」

 恨めしげにマイタケをにらんだのち、山内くんは網での小魚漁に専念することにした。

「淵にはカニ罠も仕掛けてるんだ、なにか捕れてたらまた誘うから見に行こうよ。たいていはモクズガニ……上海蟹(シャンハイガニ)の仲間の大きなカニが捕れるんだけど、まれにコイの仲間やナマズみたいな大魚がかかっちゃう。大きなすっぽんも捕れたことあるよ、五千円で料理屋に売っちゃったけど」

 楽しそうに話していたマイタケは、「流れがゆるやかになって水が暗くなってるとこは魚のいるポイントだよ。あそこの柳のある岸沿いみたいなさ……ちょっと見てくる」と岸辺に寄っていった。

 おっとりしているようでいて活発な趣味なんだな……とかれを見ていた山内くんは、

(ん?)

 眉を寄せて目を細めた。

 気になったのは、柳の影が落ちる水面だった。

 水底から大きな何かに突き上げられているかのように、円形の波紋が広がっているのである。

 マイタケがしゃがみこんで、岸を構成する古い石造りの(つつみ)の下をまさぐりはじめている。その横で、起きる間隔を短くして波紋がひんぱんにたちはじめる。

 ぷかり。

 赤ん坊がうつぶせに水面に浮き上がってきた。

 硬直した山内くんの見ている前で、赤ん坊のまわりの水が朱色に染まっていく。マイタケがしゃがんでいるその場所の水は、たちまち赤い絵の具を溶いたかのように変わっていた。

 赤ん坊にはへその緒がついていた。その肉の綱は岸につながっており……

 山内くんが視線を上げると、柳の岸に、マイタケを見下ろすように女がうずくまっていた。

 白い経帷子(きょうかたびら)。長い黒髪が前にも垂れて顔は見えない。帷子の腹のあたりが真っ赤に染まり、すそからへその緒が垂れて赤子につながっていた。

 山内くんはマイタケのひじを捕まえ、ばしゃばしゃと水をはねあげながらものすごい勢いでその場から遠ざかった。

「ちょっと、どうしたの山内くん!? 魚の感触が手に触れたとこだったよ!」

 不満げに言いつのるマイタケの肩をつかんで、据わった目で告げる。

「出。ました。幽霊。さっきのとこ」

「あっはい」

 即座にマイタケが素直になる。かれは名残惜しげに魚籠を見た。

「まあ、このくらい捕まえたらよしとするべきかな……」

「なにのん気なこと言ってんのさ! 早くみんなのとこまで戻ろうよ!」

 血相を変えてせっつく山内くんのかたわら、水面からしぶきをはねあげていきなり人が立ち上がった。

 山内くんたちは悲鳴をあげかけ、それが紺であることに気づいた。川底に潜って泳いできたらしい。手に西瓜(すいか)の入った網――生き物を捕るものではなく野菜を入れる種類――を持っている。

「あれ見たのかよ。赤ん坊のくっついた、腹の裂けた女だろ」

 西瓜を水面にたゆたわせておき、水中ゴーグルを紺はひたいに押し上げた。濡れた肢体を陽光できらきら輝かせながら、呆れをふくんだまなざしを向けてくる。

「忠告しただろーが、このへんは伝統ある水場なんだ」

「で、伝統があったら幽霊も出るのかいっ……」

 盛大にびびっている山内くんを一瞥して、「また葬儀関係だよ」と紺は言った。

 彼女は山内くんたちが逃げてきた、柳の生えた岸を指さす。

「あの女の姿は念が凝り固まったみたいなもんだ」

「念……」

「残念無念、そんな念。妊婦が死んだとき、ここらじゃ流れ灌頂(かんじょう)っていう供養を行ったんだ」

 彼女の解説を山内くんたちは聞く。

 流れ灌頂とは、朱筆で戒名を書いた卒塔婆を水場において、毎日念仏をとなえながらひしゃくの水をかける供養法である。数十日かけて念入りに、特別な死の(けが)れを落としたのだという。

「妊婦の死はほとんどの場合腹の子の死でもあった。二重の死ということで強い穢れであり、お産で死んだ女は血の池地獄行きといわれたんだ。いまから見れば理不尽だけど。

 その死を救済するための流れ灌頂だ。流水は昔から穢れを落とすものとされてる」

「お、落とされてないじゃないか……化けて出てるよ」

「厳密には霊じゃないんだってば。見ろよ」

 紺は静かに、柳の岸辺をよく見ろとうながした。

「柳のそばに地蔵があるだろ? 流れ灌頂を行ってたのはあのへんだ。長い年月のあいだ、何百回も流れ灌頂が行われた。

 そのつど全部の死穢(しえ)が完全に洗い流されたわけじゃない、ちょっとは水ごと岸の土にしみこんでた。あそこの古い柳はその水を吸ったんだ。

 腹の赤子もろとも死んでいった女たちの念を、いまもなお柳が投影することがある。それがおまえらが見たものだよ」

「おなかが血まみれだったのは……」

「ここらでは魔除けの儀式のひとつに、妊婦を供養する前、夫か父親が、孕んだ腹を切り裂いて赤子を露出させておく風習があった。そうしないとウブメという迷い霊になると言われたんだ。でもそれ自体が、妊婦にとっては恐ろしい話だったかもしれない。死ねば自分の腹が裂かれると知っているわけだから。そのイメージも柳は吸ったってわけだ」

 山内くんは、なんとなく物悲しい気分になってきた。マイタケも神妙な表情をしている。

 ……怖いものは怖いからもう柳に近寄りはしないが。

「ったく、勝手に離れんなよな」

 じと目でふたりを見つめていた紺は、「マイタケの漁キチっぷりは病気の域だから、魚捕り自体はやめさせらんねーけどさ」とあきらめのため息をつき、

「ただしマイタケ、これだけは守れ。河虎岩には近づくな」

 厳しい声で、そう告げた。マイタケがうつむいて「う……うん」と妙に歯切れ悪く答える。

 紺はうなずき、川面に浮かべた西瓜をぽんと叩いて、

「西瓜割りするからおまえら呼びに来たんだよ。戻ろーぜ」

 にっと笑った。


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[気になる点] これはマイタケくん行ってますね...
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