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恩犬と火事と夏のはじまり

 僕を救った犬を救うためパパは火のなかに行った。


 兵庫県姫路市、七月二十六日の朝。

 青ざめた山内くんは路上にパジャマ姿で立ち尽くし、炎上する築四十年の木造アパートを見上げている。かれのパパがバイクで突入していったばかりのその建物は、爽やかな朝の空に黒と白の煙をふきあげていた。

「非常階段からいけ、いまのバイクの男を救出するんだ!」

 消防団の現場指揮官らしき人が大声で部下に指示していたが、「非常階段側は火勢が強くて突入できません!」と答えられた

「なんてことだ」うめく防火服姿のその人は、突然ふりむいて、山内くんたちアパート住民に非難をぶつけてきた。

「なにを考えているんだ、さっきの人は! 火事場に犬のためにバイクで突っ込むなど」

 山内くんはぎゅっと唇をひきむすんだ。持ち出してきたランドセルをにぎりしめる手が震えた。

(あなたたちがプディングを助けに行こうとしてくれなかったからパパは行ったんだ。筋を通すために)

 のどから出かかったがのみくだす。言ってもわかってもらえない。それに素人目にも火の勢いはすさまじい。消防団が自分たちの命を賭ける突入を行わなかったからといって――それも客観的には寝たきりの老犬であるプディングのために――責めることはできない。

「プディングはほんまにいい犬なんです」

 代わりに目を真っ赤にして訴えたのは、プディングの飼い主である田中さんというおばあさんである。

「人を何度も助けたんです……賢くて勇敢なんです」

「だからといってねえ、犬ですよ! しかももう歳をとってて足も動かないんでしょう、犬くらいこうなったらあきらめるのが当然でしょうが。代わりの犬を飼えばいいでしょう」

「寝たきりなのは、一年前に人間の赤ちゃんを車から助けて代わりに下半身を轢かれたからなんです。あんな犬ほかにおりません」

 朝早くから路上に避難しているアパート住民たちがむっつりと消防団員を見つめる。「ああ、その犬だったんですか……」新聞にも載ったその事件のことは知っていたのだろう。消防団員はたじろいだ様子を見せる。だが、それでも理解できないとばかりに首を振った。「いくら役に立った犬だからって……せっかく人の犠牲者は出さずにすむところだったのに!」かれは言い捨てて救出活動に戻っていった。

 ミニチュア・ダックスフントの血が濃い雑種犬であるプディングは、田中さんの亡くなった孫娘の忘れがたみである。本来ならこのアパートはペット不可であったが、管理人に特例を認められプディングは飼われていた――認められるに至ったのは鋭い鼻と利口さを活かし、さまざまな手柄をあげたからだ。管理人の奥さんが紛失した宝石を発見した。住民女性の部屋にひそかに侵入しようとしたストーカーに吠えかかってお縄に持ち込んだ。誘拐された子供のにおいをたどって発見したときに、完全に住民に認められた。

 なおその誘拐された子とは、山内くんのことである。

(あの六年前の誘拐事件のときは、プディングが僕のところにパパを連れてきてくれた……でも、その借りのためにパパはいまあそこに行ってしまった)

 黒煙をぶすぶすと吐くアパートの窓に人影が見えないかと、山内くんは目を凝らした。残念ながら煙の奥に見えるのは赤く凶暴な炎だけだった。

「ごめんなあ、山内くん。私がいつもどおりプディングを散歩に連れて行ってれば、お父さんに助けに行ってもらうこともなかったのに……」

 田中さんがすすり泣きながら謝る。

「いえ……僕も、避難のときプディングが残ってることを確かめなかったから……」

(牙笛(きばぶえ)が鳴って目が覚めたとき、いつもみたいにあわてて逃げちゃった)

 自己嫌悪で山内くんはため息をついた。牙笛――その不思議な笛がひとりでに鳴ったとき、山内くんはすぐにその場を離れるようにしている。そうやって災いを避けてきたのだ。しかし今回はその反射的な行動が裏目に出ていた。

 田中さんは外出するときはいつもプディングを抱いて連れて行く。そして朝の早い彼女は、明け方ごろに姫路城周辺の遊歩道を散歩するのが昔からの日課だった。だから山内くんたち住民も、朝の火事であわてて避難したとき、田中さんとプディングの姿が見えなくてもさほど心配しなかったのである。火の手が上がる前に、田中さんが出かける姿をちらりと見た人がいたのだ。

 しかし住民が知るよしもなかった。老いた近頃のプディングは起きるのが遅くなることがあり、田中さんはその場合愛犬を寝かせておいてひとりで散歩に行くのだなどとは。今日がたまたまそういう日であった。

 戻ってきた田中さんは燃えるアパートに駆けこもうとして、消防団と住民に押さえこまれた。田中さんをはがいじめにしたのは、通勤中だったのをUターンして戻ってきた山内くんのパパだった。そして結局、泣き崩れる彼女を間近で見ていたパパ自身がバイクにまたがったのである。

『あの犬は何度も俺たちを助けたからな』燃えるアパートへの突入前、パパはそう言った。『今度はこっちが助けるのが人としての筋だわな』と。

 しかしパパは山内くんの同行ははねつけた。『ぼ、僕もいっしょに行く!』と衝動的に声をあげたとたん、返ってきたのは『阿呆!』の怒声である。ちょっとみんなこいつ見といてもらえますか、とまわりの住民に念を押すやいなや、パパはバイクを発進させて消防団の封鎖線を突破したのだった。

(あのバカ親父、僕を孤児にしたら一生恨んでやる)

 憎しみに変わりそうなくらいに強くパパのことを案じながらも、山内くんは田中さんに首をふった。

「パパならプディングを連れてすぐ帰ってきますから。だから謝るのはやめてください」

 それに……

(この火事自体、また僕が呼び込んでしまったものかもしれない……同じアパートの人たちを巻き込んでしまったのかも。責められるなら僕じゃないだろうか)

 それを思うとくらくらする。自分が煙を吸ってしまったかのようだ。

 死んだらいやだパパ、と山内くんが息をつめて願ったときだった。

 アパートの二階の窓が砕け散った。火の粉と轟音をともなって。

 下で見上げている者たちの目が点になる。

 炎の尾を引くロケットさながら燃えて飛び出してきたのは大型二輪の青い車体。

 スズキ・イナズマ1200。

 周囲でガラスの破片を乱反射せ、パパは朝日に輝きながら飛んだ。

 そのままアパート前にある姫路城の堀に放物線を描いて突っ込んだ。

 どぱーんと派手に水しぶきが上がる。

「うわあああ!?」

 絶叫して山内くんはコンクリートでかためられた堀端へと走る。

 どきどきしながら堀をのぞきこむと鯉が三、四匹浮いてきた。バイク墜落に巻き込まれた衝撃で気絶したらしい。

 藻と白い魚腹がぷかぷか浮かぶ水面に、海坊主のごとくフルフェイスメットの頭部が現れた。続いてざばあと水を分けながら巨体が上がってくる。内側から筋肉で弾けそうな黒いライダースーツ。

 山内くんのパパ。元ヤンキー。現在は喫茶店のマスター兼評判のバリスタ。身長二メートル体重一○二キログラム。やや細身で背丈も同年代小学六年生の平均しかない山内くんとは、親子にすら見えないマッチョマン。

 それでも山内くんのたったひとりの身寄りである。

「プディング生きてるが、だいぶ煙吸ってるからすぐ獣医んとこ行ったほうがいいな」

 パパの野太い声が響く。パパは腹に巻きつけた大きなポーチから息絶え絶えの老犬をつかみだし、岸にかかげた。わっと歓呼が湧き、山内くんのそばに来ていたアパートの管理人のおじさんがあわててプディングを受け取る。田中さんが手に顔を埋めて嗚咽し、まわりの住民たちが動物病院へのタクシーを手配しはじめた。



 岸によじのぼったパパが水したたるメットを脱ぎもせずがははと笑った。

「消防団の連中は『堀のせいで消防車が燃えてない部分に寄せられないからはしご突入できん』とかなんとか言ってたが、こっちは堀のおかげで助かったぜい」

「こっ、この、なにをのん気にっ!」

 山内くんはふだんおとなしい子だが、このときは感情がたかぶっている。かれはパパの腹に正拳突きを叩きこんだ。

「さんざん心配させておいて……!」

 不覚にもじわっと涙がにじむ。

 拳は厚い筋肉の壁に受け止められただけだったが、安堵の涙のほうはパパをひるませたらしい。気まずそうにパパは山内くんを見下ろして詫びた。

「すまんな。プディングを助けるにゃ今すぐ突っ込むしかねえと思ってよ」

 涙をぬぐいながら山内くんは首をふる。

「助けに行くこと自体は別に怒ってなんかっ……」

(パパは本物のバカだし、よその人が今日のこと聞いたら馬鹿にするかもしれないけど)

 それでも山内くんにとっては、パパはヒーローなのだった。

「ま、無事だったんだから。それより家もバイクもなくなっちまったな。どうするかねえ」

 頭を掻いてパパは言った。黒焦げになりつつあるアパートを見ながら。

 拳を引いて、山内くんは苦渋のこもった声を出す。

「あの、パパ……この火事、僕のせいかな?」

「違う。何を言ってんだおまえ」

「パパはそう言ってくれると思ってた。でも管理人さんがさっきつぶやいてたんだ。出火原因に心当たりがないんだって。

 一階の開かずの物置あったでしょ? あの部屋がまず燃えて、たちまち火が広がったらしいんだけど……鍵がかかってだれも入らない部屋で火の不始末はおろか放火すらありえない、って。

 こういうの、僕のまわりでよく起こるじゃないか」

 不気味な事故は、山内くんの人生につきまとうものだった。

「僕……やっぱり、もういちどどこかでお(はら)いとかさ……そういうの、きちんとしてもらったほうがいいんじゃないかって」

 パパはしばし無言だった。「それも考えるとなると」かれはようやく言った。

「こりゃ、ちっと実家のほうに身を寄せるしかねえなあ……あの土地にはおかしなことの専門家みてえなのがいる。俺の後輩だが」

「え? 実家あったの……もしかして“あの町”にあるの? 行くの?」

 山内くんは驚いた。パパは墓参り以外では“あの町”には帰りたがらない。実家が残っているなどと山内くんは聞いたこともなかった。

 だが、今回パパは腹をくくったようだった。

「どうせしばらく寝泊まりするところも必要だしな。盆にはちと早いがいったん、俺の田舎に行こう。現金とカードは持ちだしてきたんだろう?」

「うん……あ、その前にパパ、消防団の人にめちゃくちゃ怒られると思う。ほら、あっちからずかずか歩いてくる」

 ありゃだいぶカッカきてんなあ、とパパが情けない声を出した。

 かくして小学六年生の夏休み序盤。

 山内くんは、家を失ってパパの故郷の田舎へ身を寄せることになった。


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