旅立ちの日
反対――。
と言った所で何かが変わるはずなんてなく、日々は刻々と無慈悲に去っていった。聞いてから一か月憂鬱に日々を過ごした私も、よく考えればこんな事考えている暇など無いと言う事に気付いて父と母。妹に助けられながら勉強にはげんだ日々だった。けれど足らない。何も足らない。というか因数分解って何。三角関数の加法定理って――。
こんなの人生に必要?
必要なの?
隣国の言葉も覚えさせられて。気づけは季節は冬から春へと移り変わっていた。
もう嫌。もう逃げる。
そんな事を喚いているうちに私達は領主様に挨拶を済ませて――なんでだか会ってもくれなかった。居るはずなのに。窓から隠れる様に見る人影を見たのは間違いじゃないはず――月に一度出る王都行の馬車を待っていた。村の端っこ。誰も通らない通路だが一応王都に通ずる道である。見た目畦道でしかないが。
妹と両親は先ほど帰路についた。『お姉ちゃん――っ!』子供らしく号泣する妹を容赦なく兄様が引きはがし両親が引きずるように連れて帰る。鬼かと思う程得笑顔で。いや。学校は六年制で下手したらしばらく帰ってくることが出来ないのだけれど悲しんでいるのが妹だけって。こっちが悲しい。挙句の果てに『お土産よろしく〜』とか叫んでいたし。ま。まぁ、お荷物が減って嬉しいのだろうか。それはそれで――悲しい。なんか泣きそうなんだけど。ええと家族だったよね。あの人たち。
覚えていないけど。
おまけに。私は隣で壊れた様に話し続けている兄様に目を向けた。
「でね。僕いい店見つけたんですよ。きっとライラは喜んでくれると思う」
いつの間にどうやってリサーチしたのか、ふふふと妄想で笑っているよ。その顔が天使のようでもなんか怖い。天才だなんて信じられないし信じない。
妄想に浸っている兄と距離を取りつつ、ため息一つ落としてから私は手に持っていたノートを開いていた。ミミズののたくったような文字がびっしりと書かれている。これはデリオロン語。隣国の言葉でこの国と友好関係にある国家だ。その為に学校でこの言語が飛び交うらしく私は覚えなければならなかった。まだこの国の言葉だって真面目に書けないのに。ま。幸いにして母親の祖母がデリオロン出身で母が話せたことが唯一の救い。簡単な会話なら話せるようになったけれど――それだけではきっとダメなんだろう。
憂鬱な気分でブツブツとノートに書いてあった文字を辿りながら声に出す。
「王都ってばね――って。あれ? なんだろ?」
不意に隣の空気が変わって私は顔を上げていた。相変わらず可愛らしい天使のような横顔。ただ些か緊張した面持ちに精悍さが混じっていた。
何かが、くる。
それは当然の様に馬車ではなかった。低く地鳴りを上げて掛けてくる数頭の馬。もちろん人が乗っていて――何だろう。どの位湯あみをしていないのか、汚らしい格好をした男たちが剣を振り上げ『ひゃっはー!』とか叫んで通り過ぎていった。どうやらものすごく上機嫌らしい。砂埃をまき散らされた私はかなり不機嫌だけれど。
「――怪我はないですか?」
兄様は言うと私の埃をパンパンと軽く落とした。覗き込む双眸は心配そうだけどそんなに過保護にしなくてもーー通り過ぎて言っただけだから何ともないのだが。やっぱり私の事故が関係しているのだと思う。それを考えるとなんだか申し訳ない気持ちでいっぱいになった。
「大丈夫です」
兄様は私の言葉を聞くと、安心したかのようにニコリと微笑んだ。しかしながらその表情はすぐに一変する。口許を固く結び眉を潜め、『奴ら』が去った方向に目を向けたのだ。爛々と輝く双眸で。見たことも無い表情だった。それは大人びていると言うよりどこか子供離れをしていて怖い。
「あいつら。俺の大事な妹を――ぶっ殺す」
「……」
どなた様。
と言いたくなるような豹変ぶりに私は固まってしまっていた。これが『以前の兄様』なのだろうか。先ほどまでの壊れた天使はどこへ行ったのか兄様は護身用に持っていた不釣り合いな剣を握りしめると駆け出していた。何もかも。私の存在まで忘れてしまったかのように。
「え? ちょっと待ってくだ――え?」
そもそも何もされていないし、どうでもいい。そんな事より。
一人にはしてほしくないのだけれど。先ほどのの事もあるし。何があるか分からない。何より一人は怖いのだ。言い知れない不安が横たわるようで。一瞬泣きそうになってしまったけれど、とにかく私は慌てて荷物をかき集めた。むりやりノートをかばんに押し込んで、消えてしまった兄様を慌てて追いかけて行った。