9
重い脚を引きずるようにして家に帰ってきた。
家の門を開けようとして、そう言えばあの日浩輔をここで見送ったな、とか思ってまた涙が滲みそうになった。
「・・・ただいま」
習慣になってしまった「ただいま」は、どんなに気分が落ち込んでいても口をついて出てくるらしい。
一瞬の間を置いて、居間から妙にのんびりした声が聞こえてきた。
「おかえりー」
お母さんの声だ。
「ご飯はー?」
「・・・食べてきた」
食べたくない言い訳をするのが面倒で適当に誤魔化す。
「シャワー浴びる」
「はいはーい」
いつも以上にのんびりした返事をするお母さんは、でも居間から顔を出してこない。
今日が何の日か知っているから、私が遅く帰ってきても多分何も言わないんだ。
私はそのまま浴室に直行すると熱いシャワーを浴びた。
そしてそのまま家族の誰とも顔を合わせずに自室に引きこもった。
今度はベッドに直行する。ブランケットを頭から被った。うわ、あつい。
今となってはあの時見た浩輔が、自分の願望が作り出した幻の様な気がして来た。
過去と現在の時間が繋がるなんて、そんなSF見たいな事、ある訳がないもの。
あれは狂った私の頭が造り出した幻想。愛しい人の、幻影。
だとしたら、神様。
もう一度、彼の姿を見せて下さい。
夢でもいいですから。
お願いします。
なのに何の夢を見ていたのかも定かでない。
きっと夢見が悪かったのだと思う。揺すぶられて起きた時、かなりの頭痛がした。
「んー・・・イタタタ・・・」
顔をしかめて見上げると、浩輔が眉毛を下げて覗きこんでいた。
「まだ寝てるの?」
ああ、よかった。浩輔がいる。私の願いが届いたんだ。
私はすごくすごく、嬉しくなった。本当に本当に、嬉しくなった。
「うん。もう起きるよ。だって遊びに行くんだものね?」
満面の笑みと共に体を起こして彼に応えると、彼は何故だか面喰った様な顔をした。
「・・・どうしたの? そんな素直で」
「だって嬉しんだもん。やっと浩輔とデートが出来る」
「え?やっと?」
戸惑った表情を見せた彼は、その後照れたように顔を赤くした。
「あさみ、そんなに俺の事好き?」
「うんっ。すっごい好きっ!」
私の笑顔全開に浩輔は、今度こそ顔中を赤くしてあろう事か思いっきり目を反らした。
というか、瞳がうろたえている。キョドってる。
うわ、かわいい。
私はガバッと彼に抱きついた。
彼は私に首からぶら下がられ、バランスを崩してベッドの上に両腕をついた。
だから私のお尻は再びベッドの上。
浩輔は前屈み状態。
「ちょっと、あさみ」
「ふふふー」
アタフタする浩輔が面白くって、鼻を彼の首筋に摺り寄せ、思いっきり彼の匂いを堪能した。
ああ、嬉しいなあ。こういう香りだったわ、うん。懐かしいなあ。
というか私、ここまであからさまに浩輔に抱きついた事ないんだった。
匂いなんて、なおの事。
「ふふふじゃないよ。これはアブナイって。おばさんに見られたらどうするの?せめて上になんか着てくれよ。」
「着てんじゃん、Tシャツー」
「そんなの着てるうちに入んねえだろ」
ここぞとばかりに私は思いっきり彼に甘える。もう嬉しくってしょうがない。
すると浩輔は私の肩におでこをコツンと乗せ、そして黙ってしまった。
しばらくして少し掠れた声で呟いた。
「当たるんだよ。・・・マジで勘弁して。それとも拷問プレイ?」
当たるって?・・・あ、胸が? そっか。ブラ着けてないもんね。
・・・随分リアルな事を言うなー。設定、細かいなー。そんな浩輔も脳内で造りだしちゃうとは。
・・・て、あれ?
ちょっと待って?
私は腕を緩めた。
それから緩めた腕で彼の肩を掴み、グイっと引き離して彼の顔を覗きこんだ。
彼は少し驚いた様に目を見開き、そして同じように私の顔を覗き込み、再び困った様な顔をした。
「あ、ごめん? 怒った?」
それでも私が真剣に視線を合わせ続けるものだから、次に彼は怪訝そうな顔をした。
「・・・どしたの? 俺そんなヤバかった?」
そーゆー事を、そうやって普通に可愛い顔で訊くかな?
という突っ込みは心の中に留めておいて、私は口を開いた。
「・・・本物?」
「・・・え?俺の偽物がいるの?」
浩輔はますます目を丸く見開く。私はそんな彼の瞳を見つめ続け、次に彼のほっぺから唇から首から肩から胸から、手の平でくまなく触りまくった。
リアルだリアルだリアルだ、すっごくリアルだ!!
あまりにもリアルすぎて、かえって実感が無い。状況が呑み込めない。
私は今度こそポカン、として、彼に間抜けに質問をした。
「本物なの?」
「・・・だと思うけど」
「え?何で?どう言う事?」
「え?何?わかんない」
浩輔は困った様に眉毛を八の字に下げて、ああこれは見慣れた表情だ。
「俺、偽物なの?」
・・・それ、私に聞くのっ?
ここで一気に、自分の存在にすら自信を無くして私に聞いてきちゃうあたり、浩輔なんだよなあ。昔からこの子はいつもこんな感じでとても呑気で、その実、肝が太かった。
「・・・浩輔、何でここにいるの?」
「だってデートの約束したじゃん」
彼が少し拗ねた様に口を尖らせて答える。当たり前のように。
私は急に、鼓動が激しく胸を打つのを感じた。
「・・・今日がいつか、分かってる?」
「え?日付?んーと・・6月3日?」
6月3日?!
それって浩輔が刺された日だ!!
そんなわけないでしょ? 今日は7月22日? 23日? それぐらいのハズよ?!
私はガバッと、今度は両手で浩輔の顔を挟んだ。思いっきり、ギューっと。
「あしゃみ・・・」
タコ唇になる浩輔のほっぺはメチャクチャ弾力があって、やっぱり本物に見える!!
そんなバカな!!
私はベッドから飛び出すと浩輔を放って、バタバタと階段を駆け降りた。
「お母さん、お母さんっ!!」
大声を出しながら居間に飛び込む。
お母さんは座って本を読んでいた。私の剣幕にびっくりして呆気に取られていた。
「何、どうしたの? そんなに大騒ぎして?」
「浩輔がいるっ!!」
するとお母さんは、呆気にとられた顔のまま固まった。
ああやっぱりこれはあり得ない非常事態なんだっ!
私は顔から血の気が引いていくのを感じた。
「どうしよう、すっごく弾力があってリアルなの。どうしよう、私があんなにお願いしちゃったから化けて出たのかもっ」
「・・・え?」
私のあまりの台詞に、お母さんは少し顔を突き出した。
「何を言っているの?」
「だってすごく本物っぽいんだものっ。ううん、本物なんだものっ。どうしよう、私の部屋にいるのっ」
「え? 通しちゃいけなかったの?」
「そうじゃないけどっ、・・・・え?」
今度は私が固まった。今、何て言った?
「通しちゃいけなかったの、って・・・お母さんが通したの?」
「そうよ? いつもの事じゃない。それとも何かあったの? 喧嘩でもしたの?」
お母さんは少し難しそうな顔をした。
「だったらそう言ってくれないと。わからないから通すじゃない。浩輔君、いつも通りだったから」
何ですって?!
私は頭が混乱した。その場に立ちつくした。
えっと、えっと、これはつまり、・・・どういう状況何だろう?
「でもあさみ、いつまでそんな恰好でいるの? いくらなんでもマズイんじゃない? 浩輔君だって困るでしょ」
「・・・お母さん、今日、何日・・・?」
「今日?6月3日でしょ?」
「・・・何年の?」
「? 平成? 西暦? 20××年でしょ。どうかしたの?」
信じられない。
昨日までより、時間が一カ月半も戻っている。
嘘でしょ?
私はお母さんを凝視した。この人は、こういう悪い冗談に乗っかる様な人じゃない。
どういうこと??
つまりそれは、つまり、つまり、
つまり私は・・・
「・・・部屋に戻ります・・・」
「浩輔君に出てもらって、ちゃんとした服に着替えなさい。みっともないわよ」
「・・・」
「それから、あんまりいちゃつくんじゃないわよー」
無言で部屋を去る私に、お母さんがからかいの声をかけた。
いつもの私なら真っ赤になるだろうけど、今は完全に、無視。声が出ない。
自分の部屋の前で、急に息苦しくなった。
どうしよう。全てが冗談で、幻だったらどうしよう?
呼吸が、出来ない。
そっと扉を開ける。
浩輔は、私のベッドの上に腰かけて、ボーっと座っていた。
「あ、戻ってきた」
私に気づいて、ふわっと笑る。
「どしたの? 用事終わった?」
いつもの浩輔。いつもの微笑み。私は急に込み上げてくるものがあった。
慌てて時計を見る。午後3時。
あの日、浩輔が刺されて息を引き取ったのは午前11時半過ぎだった。
・・・今までのアレは、全部悪い夢だったんだ。
夢だったんだ!!
「あさみ・・・」
私は泣きだしてしまった。戸口に立ちつくす。涙が後から後から溢れ出て来た。止まんないよぉ。
浩輔が立ちあがって近づいてきた。
私は彼のTシャツを小さく掴んだ。
そうして、もう一度呟くように確かめた。
「本物、だよね?」
「・・・うん」
浩輔は優しく返事をすると、私の頭を柔らかくポンポンと撫でた。
「私ね、夢を見たの。ううん、見ていたの。」
私は俯いて、掠れた声で彼に言った。
「浩輔がコンビニで強盗に刺されちゃうの。それで死んじゃうの。私は悲しくって、ずっと泣いていたの。そしたら、ね。信濃町のホームで、死んじゃった浩輔が電車に乗っているのを見たの。・・・そう、浩輔がホームで見たのは私だった、って言う設定。」
声が震える。喉が詰まる。嗚咽が漏れる。
だって、あの時の状況と感情が一気に蘇ってきたから。
なのにおかしいの。笑っちゃうんだよ。私、笑えているの。
私はまさしく泣き笑いの顔を上げて、浩輔を見た。
「あんまり浩輔が騒ぐから、私、夢に出てきちゃったじゃん」
悲しかったの。悲しかったの。私、すっごく悲しかったの。
思い出しただけで泣けちゃうくらい、すごく悲しくて、長い夢だったの。
ところが途端に、浩輔はとても険しい表情になった。何故だか眉間にしわを寄せて私を見ている。
そしてとても真剣な声色で問いかけてきた。
「あさみ。その時、何かした?」
「え?」
「俺に向かって。何かした?」
何かを求めている様な、射る様な強い眼差し。
私はその瞳の光にドキンとするとともに、その表情に少し恐くなった。
心に緊張が走る。
「何かって・・・泣いた」
「それで?」
「・・・叫んだ」
「それで?」
「・・・もの、投げた」
「もの?」
「・・・うん。鞄。電車にぶつかって、中身がバラバラになっただけだけど」
何となく息を飲みながら私が言うと、浩輔はしばらく私を見つめ続け、それから無言で離れた。
そして床に置いてあった自分の鞄を拾い上げ、中から何かを取りだした。
「これも、投げた?」
それは浩輔の、高校の地理の教科書だった。私は何が何だか分からない。
「あ、え? え? そう、それ、あの時無くして・・・え?」
浩輔がそれを差し出す。私は混乱したまま手に取った。
「そう。これ。裏に・・・え?」
背表紙の裏を開き、私は今度こそ本当に息が詰まった。
「・・・何、これ」
そこに書いてある殴り書きは、私があの時、コンビニの前で綴ったまさしくアレだった。
浩輔の、49日の時に、彼に語りかけたくて書いた言葉。
でも待って? 今日は6月3日で、もう3時で、浩輔は生きているんでしょ?!
ちょっと待ってっ?
これは何??!!