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助けて、助けて。浩輔。
体を折り曲げるようにして泣き続ける私に、駅の人達はかなり驚いていた。不思議そうにしている人や気味が悪そうにしている人、興味津々の人など色々いる事が顔を上げてみなくてもよくわかった。それでも泣く事が止まらない。
やがて電車がやってきた。人が降りてくる。
私は思わず期待を込めて顔を上げた。
そこには浩輔の姿は無かった。
当り前の事なのに、絶望感が体を襲う。浩輔が死んでしまった事を真正面から受け止めようとしてこなかった私は、今になって地面に埋もれてしまいそうなほど打ちのめされている。
電車の中の人達も訝しそうに私を見ている。
降りる人も乗る人も、邪魔な私を必要以上に避けて通る。
それぐらい、駅での私は浮いている。
そして先程まで激しかった動悸は、鼓動を打ち過ぎたせいなのか今度は今にも止まりそう。
苦しくて苦しくて息が出来ない。
助け、て。
自分にも聞こえないぐらいの、小さな小さな声しか出なかった。
電車のドアが閉まるアナウンスが耳を掠める。
このまま心臓が止まってしまったら、浩輔と会えるのかな?
そんな事が一瞬頭をよぎった。
無意識に顔を上げた。
その時
私の胸は大きな衝撃を受けた。
電車の中の浩輔が、驚いた様な顔をしてこちらを凝視していた。
私は息も涙も止まってしまい、目を見開いて彼を見つめた。
浩輔が本当に乗っている??!!
電車のドアがもうすぐ閉まる。
「行かないでっ!!」
私は咄嗟に叫ぶけど、目は浩輔に釘付けで頭は混乱している。
電車の中の浩輔も私を見つめたまま動揺している。
全てがスローモーションのように見える。
私は頭の中で彼の言葉を反芻していた。
今までの状況が、まるでカーレースの様に次々と頭を走りぬけて行った。
浩輔は信濃町の総武線ホームで泣いている私を見たと言っていた。
私は今、まさしくその場所で泣いている。
そしてあろう事か、浩輔の姿を今見ている。
電車の乗客に埋もれる様にして、信じられない顔つきで私を見る浩輔の姿は幻なのだろうか?
私は幻覚を見ているのだろうか?
幻か現実か、私には判断をする時間が無かった。
電車の扉が今にも閉まる。
私は直感した。
今、私の目の前で、過去と現在が繋がっているんだ!!
「浩輔っ!!」
咄嗟に私は駆け出した。でも電車に駆け込むにはあまりに遠い。
すでにドアは半分以上閉まりかかっていた。
止めねば!!彼に知らせねば!!
「行っちゃダメ!!」
間に合わないっ!
そう思った私は無我夢中で、手にしていた鞄をほとんど閉まりかかったドアに向かって投げつけた。
何とかして閉まるドアを止めたかったし、何でもいいから過去の浩輔に働きかけたかったのだ。
鞄は閉まりかけた電車のドアに無残にもぶつかった。
鞄の口から中身が、電車外にも線路の下にもバラバラに散らばった。
電車のドアは非情にも、まるで物をぶつけられた事に気づきもしないかの様に当り前に閉まりきった。
「何をやっているんですかっ?」
若い駅員さんが驚いて駆け寄り、私を羽交い絞めにした。
電車に物を投げつけたのみならず、走り出そうとする電車のドアを私が叩こうとしたからだ。
「バイトに行っちゃダメ!!」
私はまるで悲鳴の様に、声の限りに叫んだ。
電車の中の浩輔は驚いて目を見開き、必死にこちらに来ようとしている。
わずかに耳を傾け「え?」と言っている様だった。
驚いている彼の口が動く。あさみ?
そんな彼を乗せて、電車は加速する。
「浩輔っ!!」
私は電車を追いかけようとしたが「やめなさいっ」と言う駅員さんに掴まれたまま動けず、ひたすら叫び続けた。
「バイトに行っちゃダメ!!浩輔っ!バイトに行っちゃダメ!!」
電車が遠のいていく。狂ったように叫んでいたけど、電車はやっぱり何も聞こえていないかの様。戸惑いすら見せずに走り去って行った。
「浩輔っ!!」
ついに電車は見えなくなった。
そして私は興奮したまま。
電車は行ってしまった。でもひょっとしたら、まだ過去と現在が繋がっているかもしれない。だとすればどうすればいい?どうすれば浩輔と話が出来る?
早くしないと、時間が途切れちゃう!!時間切れになっちゃう!!
そうだ、電話!!
私は駅員さんの腕を振り払い、線路に落ちた鞄の残骸を捜した。
小物が沢山線路に落ちていたが、大きな鞄はドアに跳ね返ったのかホームに落ちていた。
線路に散らばった自分の持ち物の中に携帯電話が無い。急いで鞄を拾い中を確かめると、すぐに携帯が見つかった。
私は浩輔の携帯番号を出した。
祈る気持ちで通話ボタンを押す。
お願い、繋がって。
「お願い、お願い、お願い」
繋がって。繋がって。繋がって。
周りの注目や駅員の不機嫌な声を無視して、ひたすら祈り続ける。
だけど耳に聞こえてきたのは、あまりにも無情な言葉だった。
お客様がおかけになった電話番号は、現在、使われておりません。番号をお確かめになって・・・
「やだっやだっやだっやだっ」
信じる事が出来ない。というか、受け入れる事が出来ない。
再び電話をかける。口はひたすら同じ言葉を吐いている。やだやだやだやだ。
心の中ではひたすら祈っている。お願いお願いお願いお願い。
それでも聞こえてくるのは同じ台詞。
「やだぁ、やだぁ、お願いぃ」
腕の震えが止まらない。
それから私は何度も何度も何度も、彼に電話をかけ続けた。
駅員の説教も無視して、涙をこらえながら何度も電話をかけた。だけど繋がる事は無かった。
考えてみれば電話が繋がった訳ではない。ここで彼を見たんだ。
そう気付いた私は、今度はその場から動く事が出来なくなってしまった。だってもう一度、もしかしたらここで、時間が過去と繋がるかもしれない。
私は立ちすくんだ。
結局私は、夜の10時過ぎまでその場に居続けた。
最後は諦めた駅員に、何故だかすごく同情をされて。
「・・・お嬢さん。もう帰りなさい」
いつのまにか年配の駅員さんが、静かな声で私に言った。
私の鞄を差し出している。私はそれを黙って受け取った。
妙に軽い。中を覗くと浩輔の教科書が無かった。
慌てて周りを見回す。線路を覗き込む。どこにもそれは落ちていない。
「どうしたの?」
「教科書が無いんです」
私は必死の形相でその人に言った。
「彼の形見の、地理の教科書が無いんです」
その時、駅員さんの顔が少し歪んだ。今日一日この駅を騒がせた私の行動の原因を、今初めて少し理解した、という表情だった。憐みと、少しの切なさが見てとれた。
「ここには無いよ。・・・見つかったら、必ず連絡するから」
浩輔、教科書持って行っちゃったのかも。
私は彼の顔を眺めながら上の空で考えた。
だってあれは、あの子のお気に入りだったから。
もう帰らなくちゃいけない。でも帰りたくない。この場から離れたく、ない。
まるで、忠犬ハチ公だな。
そう思った瞬間、ふいに笑いがこみあげてきた。
だって忠犬ハチ公って、ビジュアル的にも性格的にも、雰囲気的にも私より浩輔の方でしょ?
なのに私が犬なんて。健気にご主人の帰りを信じているなんて笑っちゃう、ここ渋谷じゃないし。
それにハチ公って、毎晩諦めて家に帰っていたんだよね? 犬でも諦めるのに、私、こんな時間まで何しているんだろう?
・・・代わりに毎日通っていたんだっけ、あの犬。
・・・じゃあ私は、いつまでここに通い続けるのだろう?
いつか、通う事を諦めて、そして浩輔を諦めるんだろうか?
そう思ったら、また涙が溢れてきた。
浩輔を諦めるなんて、怖い。
でもきっと、私は浩輔と会う事を諦めてしまうのだろう。
せっかく、今日、会えたのに。
彼に、キチンと伝える事が出来なかった。
電車のドアが閉まる前に私が彼に伝えられた言葉は、浩輔、助けて、行かないで。
浩輔があの時言っていた台詞と同じじゃん。
あの後彼は、私と一緒に女の子を捜して、
そして次の日、刺されて死んじゃうんだ。
私がちゃんと伝えられなかったばっかりに!!
そう言えば「好き」も伝えていない。
私はその場にうずくまってしまった。