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私はぼんやりと街を歩いていた。
手には、先ほどお花屋さんで買った程良い量の花束がある。
浩輔の好きな花なんて、知らない。だから私の好きな花にした。
薄い黄色の柔らかな花びらが何重にも、おしべとめしべを愛おしそうに包んでいる、花。
浩輔のお葬式は、大勢の友人が集まった。
こんなに沢山の友達がいたんだ、こんなに多くの人に愛されていたんだ、と私は心の片隅で呑気に感心していた。
いつもおとなしくてニコニコ笑っている彼だったけど、その人柄は誰もが求めたくなるものだった。
彼の側にいると癒される、と皆が言った。
彼の柔らかな雰囲気、とぼけた表情が好きだった、と皆が言った。
号泣して泣き崩れる女の子を見た。その様子を見て自然に考える。多分、彼の歴史のどこかで付き合っていた子なのだろう。
人目も憚らず泣いている彼女とそれを支える女友達。あの子とその友達は体全体で、浩輔のお葬式で泣く権利を主張していた。私達にはその資格が充分にある、と。
私はその光景をボーっと眺めた。
全部知っているようで、やっぱり私は彼の一部しか知らなかったらしい。
あの情熱的なキスも熱い腕の中の温もりも、あの子は知っているのだろうか?
なんで、なんで、なんで。
なんで、彼が。
なんで浩輔が。
どうして私の幼馴染が。
どうして、私の好きな人が。
次の日デートの約束をして、彼と別れた。
翌日彼はバイトに行った。その日に入るハズだった女の子の代わりのシフト。コンビニのバイトだった。
信じらんない。コンビニ強盗なんて本当にあるんだ。
浩輔は恐がりだから、抵抗なんて絶対しなかったに違いない。お金なんて素早く渡してドピュンって隠れるよ。
なのに、事は素直には進まなかった。
強盗はコンビニ内の客が退けるのを待つ間立ち読みをしつつも店内を物色し、本来のお金を取るという目的から少し外れて品物に手を出した。
そこを浩輔が見つけ、声をかけたらしい。
強盗目的で既に緊張状態にあった犯人は、「咄嗟に頭の中が真っ白になって」気付いたら浩輔を刺していた、と言った。
普通に強盗をしてくれていれば。浩輔はお金を渡したのに。刺されなかったのに。
いや、そもそもシフトなんか変わっていなければ。あの場にいなかったのに。
自分勝手な私は、浩輔が変わらなければ同僚の女の子が刺されていたかもしれない事を気にかけたり、出来ない。
「あさみ」
顔を上げたら光がいた。喪服姿もハンサムだ。
そんな彼が可憐の隣で苦痛に顔を歪めている事が、何だか滑稽だった。
何でここにいるの? って聞きたくなった。その言葉を飲み込んだ。
サークルの仲間は皆沈みきった顔をしている。どうしてそんなに暗い顔なの? って聞きたくなった。
私にはそんな顔が出来ない。だって現実を認める事が出来ない。
浩輔が死んだなんて受け入れたくない。
彼ともう会えなくなるなんて考えたくない。
せめて浩輔は今もどこかで、あの少し困った顔で眉を下げながら、のほほんと呑気に笑っているって信じたいから、やっぱり暗い顔をしたくない。
なのに涙が止まらないの。
私の顔は精一杯無表情を保っている筈なのに、涙が止まらないの。
胸が痛くて喉が詰まって、なぜだか小指が痺れているの。
どうしよう、浩輔。どうすればいい?
いつもの様に、あの安心できる優しく低い声で、私に教えてよ。
私はいきなり抱きしめられた。
「?」
胸に強く押し付けられた顔を少し力を込めて離し、見上げてみると大樹だった。
大樹は私と同じように、声を出さずにひたすら涙を流し続けていた。
目を固くギュッと閉じ、唇を震わせ、鼻は赤くなっていた。
私はそんなもう一人の幼馴染の姿を、すごく不思議な気持ちで眺めていた。
色々あったのに、それにこんな場なのに、彼の腕の中はとても心地が良くてそれが今までの付き合いの長さを彷彿とさせた。嫌でも浩輔を連想させられた。
私達の隣に、大樹の彼女の美樹が立った。仲の良い私の友人。そっと自然に身を寄せ、私達を悲しみいっぱいの瞳で眺めている。
でも私は視界の隅で、サークル仲間に埋もれる形で、みのりが小さく肩を震わせている姿を捉えていた。
浩輔が私を抱きしめている時に呟いた言葉を、思い出した。
私は泣いている大樹の耳元に唇を寄せた。
そしてそっと囁いた。
「浩輔、大樹を殴りたいって言ってた」
大樹は一瞬動きが止まり、私を抱きしめたまま至近距離で、怪訝そうに見つめてきた。
愛嬌のある人懐っこい瞳が赤く腫れている。その眼が私と浩輔は大好きだった。
私はその瞳を覗きこんでゆっくりと見つめ、そしてもう一度彼の耳に口元を近づけた。
「みのりと話なさい。さもないと浩輔が許さない」
驚いたように私を凝視する大樹。戸惑いと不安と、焦りの色が見てとれた。
彼の腕をといて、事が分からず少し不思議そうな美樹の目の前で、私は一言付け足した。
「私も」
事を理解した大樹は、とても悲しそうで苦しそうな表情になった。みのりの事を聞いた時の浩輔の心情を想像したに違いない。浩輔はとても気持ちの優しい人だった事を大樹は知っているから、辛くて切なくて申し訳ないんだろう。
浩輔。他にやり残した事って、何かある? 私、何でもやるよ? なのに思いつかないの。
他、なんかあったけ?
会場の片隅で由佳が声を押し殺して泣いているのを、私は当り前の様に一瞥した。
お葬式の事を思い出しながら歩いていたら、いつのまにか目的地に着いた。私は顔を上げる。
そこは浩輔のバイト先のコンビニ。事件以来閉じたまま。きっと潰れるんだろう。
入り口脇にひっそりと花がいくつか添えられていた。だけどどれも、さほど新しくは見えない。
今日が彼の四十九日だなんて、きっと誰も気に留めていない。
持ってきた花束をそっと添えた。
亡くなった人は四十九日までこの世にとどまっていて、その後天国へ行くんだって聞いた事がある。
私は鞄の中に、彼の形見を入れていた。それは高校の時の地理の教科書。
なんでこれが私の手に渡ったのか、未だによくわからない。
実はお葬式の時、浩輔のお母さんが私にくれた物だった。
「あさみちゃん、これ・・・あの子のものなの。貰ってやって・・・」
泣きながら渡されたそれは、その時は自然なものに見えた。
大学の教科書なんて、おばさんには専門的すぎに思えたのだろう。
それに比べて高校の教科書はまだ親しみがあり、私と一緒に彼の思い出を共有できるとでも考えたのかもしれない。
しかも地理は、浩輔が教師として習得しようとしていた学科だった。
小さい頃から地図が大好きだったものね。趣味が高じたね。あ、この場合、夢を実現させた?
させてないじゃん。 ばか。
花を添えた後、私は鞄からその教科書を取りだした。
そうする事で、浩輔と一緒にこの場に立っている様な気がした。
浩輔の笑顔が急に思い浮かんだ。私の隣で笑って、こっちを見ている。
なんか喋らなきゃ。彼と話したい。
だけど、言葉が出てこない。
私は地面の上の花束と手の中の教科書を、交互に見比べた。顔を上げてもう一度隣を見た。
結局浩輔は今どこにいるんだろう?私の隣?それともこの教科書の中?それとも家族が今日行っている四十九日の会場?
パラパラとページをめくってみた。3年前、4年前の浩輔が書きこんだ字やマーカーが各ページから見えてくる。
それが彼から語りかけられているようで、私は切なくなってきた。
「・・・・・。」
背表紙の裏。薄汚れたそこには、何かの暗号の様な数字が数個、殴り書きの様に並んでいる。
目を凝らして見て、考えて、頭を捻り、そして思いついた。
涙腺が、決壊した。
不意打ちだ。ひどい。
泣けてきた。
この数字は、高3の時の学祭の打ち合わせ時間の羅列だ。
あの子、メモ帳とか一切持っていなかったから。よく使う地理の教科書裏に書いていたわ。
私と浩輔は同じクラスで同じ委員だったから、私が代わりにメモっても良かったのにいつも浩輔に任せていたんだ。いつも私があんたの世話をしているんだからたまにはこれくらいやりなさいよ、って言って。
それで二人で、次の委員会はいつだ、前は遅れただ、と騒いでいたんだ。
浩輔の明るい、全開の笑顔が頭の中に広がった。
バカ、バカ、バカ。あいつはバカだっ。
私はペンを取りだした。
そして教科書裏、その数字の下に夢中で書きこんだ。
『バカバカバカ。デートの約束破るなんて史上最低最悪野郎。あんなキスで抱き締めて、その後放っていくなんて、バカすぎる。コンビニなんかで刺されないでよ。ばか。あんたなんか大っ嫌い。 一生隣にいたかった。 一生側にいたかった。 6月3日は必ず会いに来て。夢でも何でもいい。 待っているから。 絶対待っているから。 来なかったら、ぶっ殺す。』
言葉に出すより、教科書に書いた方が会話が出来る気がした。
書き終わって、花の隣に教科書を置いた。
改めてみるとあまりにも不自然な光景だった。
ますます胸が痛くなり、私はその場から動けなくなってしまった。
どのくらいそうしていたのだろう。
蒸し暑い中にも気温が下がって行くのを感じた。空気が変わっている。空を見上げた。雨でも降るのかな?
再び足元に置いた教科書を見た。雨が降ったら、やっぱり濡れるんだろうな。
「読んだよね?」
今度はやっと口に出せた。もちろん、浩輔に。
「しっかり読んだよね?・・・・約束、絶対守ってね?」
一呼吸、間を置いた。
「じゃ、持って帰るから。お花はあげる。きれいでしょ」
言いながら教科書を拾い上げ、鞄の中にしまった。
そして私は歩きだした。
駅にいる人達は多くもなく、少なくもなく、だった。もうすぐ帰宅の人達が増えてくる。時計を見たら3時半過ぎだった。
浩輔が世の中から消えても、それでも世界は周っている。
人は生活しているし、電車は動いているし、テレビもいつも通りだった。なんでだろう?
駅のアナウンスが、もうすぐ電車がやってくる事を告げる。総武線下り電車。
その時、急に私の心臓が大きく跳ね上がった。それはまるで肋骨を叩くかの様な動悸だった。
顔が痺れていくのを感じながら、私は上を見上げた。駅名を確認する。
『信濃町』
息が止まった。
顔の痺れに加え、耳鳴りまでしてきた気がした。心臓は激しすぎて肋骨を壊しそうだ。
-信濃町の、総武線のホームにいたでしょ?-
-駅であさみが泣いているのを見たんだよ。だからビックリして来たんじゃないか-
私は体を折り曲げた。人目を憚らず声を上げて泣いてしまった。今度は先ほどと打って変わって、声を出す事が止まらない。
そうだよ、浩輔。私はここにいるよ? ここで本当に泣いているよ? みんなの注目、浴びてるよ?
あなたの言った事は本当だった。見間違いでも何でも無かった。ただちょっと、時間がずれていただけ。
あなたの目は確かだった。泣いているのは私だった。
だから来て。ここに来て。
お願いだから、私の事を、
「・・・助けてっ・・・」
私の口から出た言葉は、激しい嗚咽に混じって情けない響きを持っているだけだった。