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「人の気持ちですら、先の事ってわかんないんだな。・・・誰かと気持ちが重なるだけでも、それって、多分・・・奇跡、なんだよな」
私と手を繋いで歩きながら、前を向いて、浩輔は穏やかに言った。
「それでも、先の事はわからない」
彼に手を引かれてその心地よさに揺れながら、でも私はその言葉を噛み締める事が出来ていた。
そう。先の事って、どんな事でも、結局わからない。
まさか可憐やみのりがこんな事になるなんて。昨日までは想像もしていなかった。
全然、わからないね・・・。
浩輔が、ふいにこちらを向いた。
「俺さ、もう、あさみに何十回も惚れてる」
「・・・え?」
突然の台詞を理解するのに時間がかかり、一瞬の間をおいて、私は驚いて彼の顔を見た。
彼は穏やかに私を見ているのだけれど、目が含み笑いをしていた。
「ずっと前から。知らなかったの?」
「・・・・浩輔・・・」
一気に動機が激しくなる。顔が赤くなるのが自分でもわかった。
彼は綺麗な瞳でそれを面白そうに眺めた後、言葉を続けた。
「そんで、今」
そう言って、急に立ち止まる。
つられて私も止まった。
「あさみ、俺に惚れてる最中でしょ?」
「えっ・・・・」
これまた理解をするのに若干の時間を要し、再び真っ赤になってしまった。
そんな様子を浩輔は間近で、唇をキュッと結んで真剣に見ているんだけれど、
目が、目が思いっきり笑っている。
というか、目が笑いたいのを堪えている。
「・・・・なんという事を・・・」
私はうろたえて狼狽し後ずさったんだけれど、そういえば彼と手を繋いでいたものだから2歩も離れる事が出来なかった。
「うふふ。やっぱり?」
ついに彼の口角が上がる。嬉しそうに、ちょっぴり得意そうに、ふわっと笑った。
「ずっと見てきたもんなぁ。わかるだろ」
そう言うと繋いでいる手をグッと引き寄せる。
抵抗する間もなくそのまま引き寄せられたら、
ちゅっ。
と軽く唇にキスをされた。
一瞬の出来事であまりに急で、まさしく度肝を抜かれてしまった。絶対私今、「皿の様な目」をしているわ。
そんな私を見て、満足そうなあなた。
「先の事なんてわからないのにさ」
そう言って彼は少し悪戯っぽく微笑んだ。
「今を怖がっていたら、もったいないよね?」
「浩輔・・・?」
「でも俺、あさみとなら、どんな方向に転んでも受け入れられる気がする」
その時の彼の表情は、いつもの下がり眉で困った様に私を見る、潤んだ瞳とは全然違っていた。
真っ直ぐで強い視線。私を捕らえて離さない、力強い何かがある。
「男」を感じさせて、ドキッとした。
「俺、今日一日色々あって、色々考えた。今を大切にしたい。遠慮するの、やめた」
そして至近距離から私をジッと見つめてきた。
強い光の中に慈しむような色を滲ませて私を見るその瞳は、14年間一緒に居て、時々私に見せてくれていたもの。
そして、私が手に入れたかったもの。
「・・・今日の浩輔、いっぱい喋るね?」
ドキドキしながら、彼から視線を外せず、口調だけでも少し茶化して見せた。
彼も私から視線を反らさず、口の端を少し上げてニヤッと笑い応える。
「そう思う? 俺も。なんか一生分喋りつくした感じ」
「・・・それじゃ、教壇に立てないよ?」
「だなー」
一瞬脇を向き肩をすくめてクスッと笑うので少しホッとしたら、次の瞬間、息を飲む様な煌めく瞳で、私を捕らえた。
「でも、足りない」
熱い光が私を射抜く。身動きが、取れない。
「言葉が、足りないよ。それぐらい・・・」
呼吸が、止まった。彼から視線が反らせない。台詞の先を待ってしまう。それぐらい、何?
鼻先が触れるくらいの距離まで、彼が近づいてきた。
私の瞳を覗きこんで、囁く様に言う。
「・・・抱きしめて、いい?」
「・・・嫌って言ったら?」
「・・・言わないよ」
クスリと笑ったその瞬間、ふわっと彼の腕に包まれた。
そしてその空間がゆっくりと、徐々に、狭まっていく。彼の香りに包まれていく。
それがドキドキするのに物凄く心地よくて、しかも馴染みのある落ち着く空間である事に気がついた。
すごくしっくりくる。私の居場所って、ここだったんだー・・・。
なんて幸せなんだろ。
ここは自宅から少し離れた、でも見知った公園前。住宅地の夜なので、人はいない。
浩輔、計算してココで仕掛けたのかなー?だとしたら、やっぱ男の子だなー。
なんて呑気な事を考えながら心地の良い彼の腕の中に収まって、彼の肩に額を押し付け、彼の服の裾をギュッと掴んだ。
なんかね、抱き返すよりももっと、甘えたい気分になって、ね。
どうしよう。大好きすぎて、切なくなってきた。
抱きしめられているのに、なんでだろう。
私は彼の腕の中で呟いた。
「・・・みのり、どうするのかな?」
「・・・わかんない。・・・でもとりあえず、俺・・・」
浩輔は私の背中にまわしていた手を頭に移動させ、少し強めにグッと抱きしめてきた。
「大樹、ぶん殴りたい」
「・・・そだね。私も」
大樹は私達二人の親友。それだけに、言いたい事も聞きたい事もいっぱいある。
二人で、しばらく無言になった。
でも無言が全然苦痛でもない。
私は自然に顔を上げて、触れそうなくらいの近くにいる浩輔を見た。彼は目を細めて私を見つめた。
甘やかに、笑う。
「ここで、顔、あげるんだ?」
声も、すごく甘い。
私はドキドキしながらも、かなりくすぐったくなってしまった。やっぱりさ、ちょっと笑っちゃうよ。
「・・・なんか照れるね」
「そう?」
「・・・私達が、今更って感じがして・・・」
ね?ね?だよね?笑っちゃうよね?可笑しいよね?
「じゃさ」
急に、彼の瞳が甘いだけではなくなった。
挑戦的な、それでいて艶っぽい色を見せる。
一気に笑いが引っ込んだ。それどころか、息まで呑み込んでしまった。
心臓が大きく飛び跳ね、再び身動きが取れなくなった。
浩輔は、低い声で、誘う様に囁いた。
「あさみの好きなやり方で、キスして」
「え?」
「ね?ほら」
妖しく揺れる唇が、私の唇を掠めながら囁く。彼の香りが私を惑わす。
私は頭の芯が痺れてきた。
そして誘われるまま、そっと、自分から、彼に唇を重ねた。
しっとりと、くちづける。
彼はされるがままにしている。
私は自分で仕掛けながら、あまりの甘さに頭がクラクラしてきた。
しばらくして、始めた時と同じように、私はそっと唇を離した。
掠れる声で尋ねる。
「・・・ど、だった?」
「サイコー」
あなたの笑顔も、今までの爽やかで可愛らしくて男らしい笑顔に加えて、今まで見た事のない色っぽさと自信が瞳にあって、
やっぱり最高。
その瞳が、今度は妖しく煌めいた。
「でもやっぱ、全然足んねえ」
次の瞬間、彼から口づけをされた。
それは私がしたものとは全然違い、もっと欲に満ちていて、激しくて、熱くて、とろけて、目眩がするものだった。
馴染みのある落ち着く彼の腕の中が、一気に見知らぬ、動悸を激しくさせる、痺れる空間へと変わる。
口内を激しく優しく、時にはなぞる様に絡める様に掻き回される。
私は立っていられなくなって、腰が砕けそうになった。
浩輔がこんなキスをしてくるなんて・・・。
飽きる事の無い、キス。
お互いがこんなに欲望を抱えていたなんて、知らなかった。
「どうしよう。俺、なんかスッゲー焦ってる」
やっと唇が離れた時、彼の声は少しかすれていた。
「ずっと一緒に居たあさみなのに、なんか俺、今日一日焦ってんだよな。」
間近から私を覗きこむ彼の瞳が、どこか切なく潤んでいる。
「多分、駅であんなの見ちゃったから」
そんな彼の表情を見ていたら、私まですごく切なくなってきた。
多分それは、あなたの愛情が私の胸に突き刺さっているからだよね。だって何でか胸が痛い。
「浩輔・・・」
「今となっちゃ、あれがあさみじゃなくて良かったよ」
私の額に自分のおでこをくっつけ、肩をすくめて苦笑する。
私もつられて、少し笑った。
「・・・誰だか、気になる所だけどね」
「・・・うん」
一瞬、考える様に彼は視線を地面に移した。
男の子にしては長めの睫毛が、綺麗な影を落とす。
そして次には、いつもの素直な、人を安心させる様な柔らかで優しい笑顔を見せた。
「でも俺、あさみがいればいいや」
「ずっといたじゃん」
「・・・だな」
またどこか切ない顔を見せるあなた。どうしたの?なにか不安なの?こっちまで不安になるよ。
私をしばらく見つめた後、彼は私の頭を抱き寄せた。その上からギュッと自分の頬を寄せてくる。
私を抱きしめる腕がきつくなる。
それが彼特有の甘え方の様に感じて、私はじっとしていた。
やがてゆっくりと彼の背中に腕をまわして、同じようにギュッと抱きしめてあげた。あ、やっぱり華奢だ。
彼の囁きと溜息が上から降ってきた。
「今日はマズイよな。送って行くよ」
浩輔の心は、一体何に揺れているんだろう?どうしてそんなに切なそうなんだろう。
今日一日色々な女の子を慰めて励ました彼だけど、心の中はやっぱり傷ついていたのだろうか?
そんなにヤワな神経をしているとは思えないんだけれど。
「・・・あ、うん」
「何?帰りたくない?」
「・・・あ、うん」
「え?」
「え?」
考えながら返事をしていたものだから、ちょっとおかしな事になったらしい。
浩輔は腕を緩めて、目を丸くして私を覗きこんだ。
え?帰りたくない?あ、言っちゃった?そうじゃなくって、え、そうでもいいんだけどね、あ、ダメ、私なんの準備もしていないってそうでもなくってってそうじゃなくって。
「あ、今日はマズイね、うん。確かに。色々とね。なんかね。・・・お母さんにもバレてるし」
な、何を言っているのだろう。誘っているの、私?
浩輔はそんな私を少しビックリした様に眺め、次にクスッと笑った。
「明日さ」
そう言って可愛い顔を少し傾けるあなた。
「バイト終わったら、デートしようぜ」
「・・・デート・・・」
「そ。飯食って、どっか遊びに行こう。あ、俺、上野の博物館行きたい。今見たいのやってんだ」
「・・・その後、秋葉原?」
「おう、そうだそうだ。いいね」
「それって、今までのと変わんないじゃん」
私が時々、付き合わされてきたものと。
少し上目遣いで彼を睨んで見せると、彼はさも愉快そうに肩を震わせて俯き、声も無く笑った。
「・・・ごめん。あさみが行きたいとこ、どこでも連れてく。どこがいい?」
って笑い過ぎて君の瞳、弱冠涙目だし。
だから私は、あなたが期待している答えを返してあげるの。
「・・・じゃあ、明日はアキバの代わりに池袋あたりで、お洋服買うのを付き合ってもらおうかなぁ」
「それもいつもと同じだー」
「ホントだー」
そして二人で、笑いあった。おでこをくっつけあって、いつまでも笑いが止まんない。
私達ってホント今まで、何をやっていたんだろうね?
私達ってこれからも、多分こんな感じなんだろうね?
「違うよ」
まるで私の声が聞こえたかの様に、急に浩輔が言った。
見事なタイミングに驚いて彼を見たら、その瞳は再び甘ったるい色っぽさで私を見つめていた。
「手、ずっと繋ぐし、キスもするだろ?」
それだけで胸が高鳴る。体が熱くなる。
彼がそっと私を抱きしめる。
すごい。あなたの腕の中って最高に落ち着ける場所で、最高に痺れてとろける空間だ。
彼は私に、再びキスを落としてきた。
優しく口づけ、軽く舐めあげながら、何度も何度も私の唇をついばむ。
その度に、囁きかける。
「明日、な。電話すっから」
「うん」
「絶対だぞ?」
「うん」
「絶対だかんな?」
「うん」
「・・・好きだよ」
「・・・私も」
確認するように、何度も落とされるキス。
彼は結構な甘えん坊なんだなあ、と思った。普段はのんびり屋で割とボーっとしている所があるから、どちらかと言うと恋愛には淡白な方かと思っていた。
でも今の彼はまるで心の不安を解消したいかのように、何度も私を確認してくる。
それが愛しくもあり、私をやっぱり切なくもさせた。
浩輔は家の前まで私を送ってくれると、流石に門の前じゃ恥ずかしくなったのか(だって私達の生活空間、みたいなものだものね。照れるよね)片手を上げて軽く手を振り、ポッケに手を突っ込み帰って行った。
見慣れた、だけどいつもと違う思いを込めて、彼の背中を見送る。
また明日、ね。
華奢な背中。
でも男らしい背中。
すごく頼もしい背中である事を、私は知っている。
知っていた。
そしてそれが、浩輔と話した最後となった。