3
チュニックにジーパン、という普段着に着替えて、それでも鏡の前で髪を整えて、
一瞬、肩まで伸ばした髪をどうアレンジしようか迷ってしまう。
もう、寝起きのスッピン、どころか寝顔さえ見られている事に気がついて、気分が萎えてしまった。
それでも、ムースを付けてバレッタで止めて。リップの上からグロスを塗って。
長年の幼馴染というポジションでも、せめて彼の自慢の幼馴染になれる様に。
外に出ると、彼は家の前に止めてあった自転車に跨っていた。
もう3年は乗っている愛車だけど、黒いだけのタダのママチャリ。
毎日家から駅までの往復にしか使用していない。
あ、それと私の家に来る時。
つまり、その後ろの荷台は・・・
「ほら。乗ってよ。」
私しか、乗せていない・・・ハズ。
元カノ達を、駅から家まで乗せた事があるなら、話は別だけど。
「・・・そろそろ、もう少し乗り心地の良いものに買い替えて欲しいなあ、なんて・・・」
「おう。検討するぜ」
「言葉ばっかり」
カッコつけてニヤッと口角をあげて微笑む浩輔に、私は呆れてみせて、馴れた手つきで後ろに乗った。
彼は勢いよく、自転車をこぎ始める。
私は彼のサドルをギュッと掴む。
何度も何度も乗っているのに、私が手を伸ばせるのは、いつもここまで。
そして浩輔は、いつも楽しそうに自転車をこぐだけ。
可憐の家は、正確には一人暮らしの部屋なのだけれど、自転車で5分ちょっとで着いた。
二人して少し緊張して、ドアベルを押した。すぐに扉が開く。
「可憐」
可憐は今朝別れた時と違って、随分疲れて見えた。
よく見るとアイメイクが全部落ちている。そのせいか、まぶたがひどく腫れぼったい。
「あさみ・・・え?浩輔も?」
彼女は私の後ろにいる浩輔を見て、驚いたように目を見開いた。
すると彼は申し訳なさそうにボソボソっと言った。
「ごめん。俺、・・・すぐ帰るから」
え?ちょっと、あなたのおかげで私達、ここに来ているんでしょ?当事者が逃げてどうするのよ??
ビックリして振り返ると、浩輔の瞳がうろたえていた。
無言で訴えかけてくる。俺、女の子の修羅場って、苦手。
だから私も無言で彼に訴える。当り前。でも逃げるのは許されないわよ?
「あ・・・とりあえず、どうぞ」
そんな私達の無言のやり取りを眺めて、可憐は少し戸惑った様に玄関に入れてくれた。
私の後ろから、浩輔がしぶしぶ入ってくる。どこまでヘタレなのかしら。
「・・・どうしたの?」
1LDk。玄関を入るとすぐキッチン。奥にはベッド。中央に小さな丸テーブルとビーンズクッション。
可愛らしくデコレーションされた部屋に私は正座をして、可憐に話しかけた。
浩輔は、なるべく隅に隅にと隠れて(?)行き、ほぼキッチンの下に座っている。怯えているリスかネズミみたい。
「うん。・・・あたし」
口を開きかけた可憐は、突然言葉に詰まった。
次の瞬間、両手に顔をうずめて泣きなきだした。
「別れようって言われた・・・っ」
私と浩輔は、予期せぬ台詞に固まった。
「え?光に??」
「・・・うそ。何で?」
キッチンの隅っこから浩輔の問い掛けが聞こえてくる。遠すぎます。こっちにくれば?
可憐が肩を震わせながら答えた。
「他に好きな子がいるって・・・あたし、二股かけられていたの」
「えーっ!!」
「いつから??!!」
後ろから浩輔が身を乗り出して聞いてくる。だから遠すぎます。そんなに聞くならこっちにくれば?
可憐は両手を顔から離し、しばらく俯いていた後、声を絞り出すように話し始めた。
「・・・わかんない。・・・多分、去年の秋くらいから・・・」
私も浩輔も呆然となって彼女の台詞を聞いていた。
だって、信じられない。可憐と光は見た目が良いだけではなく本当に仲が良くて、お互いのノリとツッコミも絶妙で、理想のカップルだったのだ。
3年以上に及ぶ長い付き合いによる信頼感、というものが、二人の間には滲み出ていた。
お互いを尊重し合っていて大切にし合うその姿に、多分誰もが、この二人はいつか結婚をするのだろう、と思っていたのに。
まさか、光が浮気?!そして二股?!
俯いた可憐は、涙を堪えながら話を続ける。
「あたし・・・なんとなく気付いていたんだけど・・・。今日、光の携帯を見たの。そしたらね、女の子から変なメールが入ってて、それで・・・問い詰めたら・・・」
「・・・変なメールって?」
「おい、あさみ。」
私の質問に、浩輔が後ろから止めに入った。見ると眉根を寄せている。
突っ込みすぎ?デリカシー無さ過ぎた?
浩輔は時々、こうやって私を諭してくる。
可憐はそんな私達に特に注意を払う事なく、消え入るような声で言葉を続けた。
「あいつ・・・この間の旅行、由樹達と行くっていってたのに本当は、その彼女と二人で行ってたのよ・・・」
「えーっ!!何それっ?」
私は思わず大声をあげてしまった。由樹とは同じサークルの同じ学年の仲間。いわば飲み友達の一人。
光が可憐を騙してまで別の女の子と旅行に行っていたなんて、あまりの出来事に私は大ショックを受けた。
しかも由樹の名前を使うなんて、それってつまり彼も共犯って事?
いつのまにかキッチンから弱冠こっちに移動してきた浩輔も、つぶらな瞳を見開いて、口は驚きを表している。
「それ、初めてなの?」
息を飲んで私が尋ねると、可憐は相変わらず俯いて答えた。
「わかんない。こうなるともう、彼の何を信じていいのかわからない。由樹達もこれを知っていたのかと思うともう・・・サークルにも、行けない・・・」
「・・・・」
再び涙をポロポロ流す彼女。私はあまりのショックに言葉が出なかった。
自分の理想が、崩れていく感じ。そりゃ、勝手に理想にしていただけなんだけど。
「あっちの女の子の方が実は好きなんだって。もう、あたしよりあっちに気持ちが向いているんだって。」
「・・・・」
・・・そんな。
いつかの、可憐の笑顔を思い出した。
隣で、愛しむように微笑む、ハンサムな光の顔も思い出した。
何が悪かったって言うんだろう?
こんな裏切られ方。酷いよ。
神様。可憐はすごくいい子なんだよ?
神様。実は光は最低な奴だった、なんてあんまりじゃない?
「あたし、悔しくって、悲しくって、それで・・・悔しくって・・・っ!」
「ひどい。なんて事。許せないよっ。」
私は我慢出来なくなって、思わず可憐の台詞を奪ってしまった。
興奮して、熱くなってしまう。ちょっぴり目が潤んできた。
「光も由樹もひどすぎるよ。可憐の気持ちを踏みにじってる。こんな人達だと思わなかった。信じられないっ」
「あさみ。由樹が関わっているとは限らないだろ」
浩輔が後ろから、私をたしなめるような口調で言ってきた。
私は勢いよく振り返り、ムキになって反論した。
「口裏合わせているよ、きっとっ。でないと、名前を出さないじゃん」
「でも、口裏合わせていても、光が他の女の子と旅行に行った事までは」
「浩輔!」
「あ、ごめん・・・」
今度は浩輔の失言。打ちひしがれている可憐の前で、そんな事を再確認させてはいけないでしょ?
浩輔は小さくなって引っ込んだのだけれど、目が、何だかまだ納得いかない、って言っている。
少し気ぜわしげに、私と可憐を交互に見ている。
「もう、信じられない。騙された・・・。悔しい。こんな奴と付き合っていたなんて、自分が情けない」
「本当だよ、可憐の言う通りだよ。光は酷過ぎるよ。私も、光がそんな男だったとはビックリした。可憐は悪くない」
私は彼女の両腕にそっと手を置き、彼女の瞳を覗きこんだ。
力強く、でも落ち着いて、彼女の心を少しでも慰めようと試みた。
「そんな奴、別れて正解よ。すこし落ち着いて、ね?光の事なんて忘れて・・・といっても無理だろうけど。でも、悪いのは光だから」
「そうよね・・・3年も付き合っていたのにこんな騙し方をするなんて。しかも二股だなんて、酷いよね。あんまりだよね?」
「そうだよ。可憐は被害者だよ」
「・・・そうかな?」
私が力強く頷いた時の、後ろからの反論。
思いがけない言葉に私は驚愕した。
「え?」
信じられない思いで振り返ると、浩輔は正座をしたまま、何故だか眉間にしわを寄せていて下唇を突き出していた。
「いや・・・さっきから光ばっか悪くいうけどさ・・・本当に、そうなのかな?」
「何よ? それって、浩輔は可憐も悪かったっていうの?」
「うん」
ええ?
耳を疑う。
「な、何言ってるのよ?」
相変わらず浩輔は難しい顔をして座っている。
私は蒼白な顔をして呆然と座り込んでいる可憐の顔色をうかがいながら、慌ててしまった。
「どう考えても光が悪いでしょ?騙してたんだよ?内緒で他の女の子と旅行に行ってたんだよ?二股かけていたんだよ?なんでそれで可憐が悪いのよっ?」
「可憐悪いって言うか・・・・。」
浩輔は俯き、ぽりぽりと頬を掻きながら、自信がなさそうに呟く。
ちょ、ちょっと、そんなに自信が無いなら妙な事を言わないでよっ。今、ここでっ。
「可憐は悪くないよ?でも・・・それなら光も悪くないんじゃない?もし光が悪いんなら、多分、可憐も悪くなるよ」
「え?意味が分からない。」
「うーん・・・なんて言えばいいのかな・・・?」
相変わらずキッチンの床に正座している彼は、腕を組み首を捻りだした。
「恋愛って、対等でしょ?」
眉間にしわを寄せ、何を言おうか一生懸命考えている。
口下手な彼にしてみれば、相当な事。
私はまたまた、心底驚いてしまった。
「お互い大人で、自己責任を持ちあうからの恋愛でしょ?友達だってそうじゃん。自分が相手を選んで、相手に選んでもらって、恋愛をやったり友達をやったりするんだろ?それってお互いの責任じゃん」
「・・・浩輔・・・。」
「それに、光と可憐は3年以上付き合っていたんだろ?そうしたら、上手く言えないけど、もうどっちが悪いとか被害者なんて言えないと思うよ?」
一言一言、考えながら、噛み締めながら続ける。
「もちろん、浮気をしたのは光だよ。でも・・・そういう光と可憐の関係を作り上げたのはお互いの責任だって事で・・・」
そう言って彼は、小さな丸っこい目を真っ直ぐに可憐に向けた。
すごく真摯な眼差し。ドキッとした。
「自分を責めろ、って言ってるわけではないよ。でもね、可憐。相手ばっかり責めて否定していたら、それこそ自分が可哀そうだよ。可憐はこの3年間、一生懸命恋愛をしていたんでしょ?楽しかったし、色々・・・学んだんでしょ?」
そして次の瞬間、彼はふわ・・・っと笑った。
男の子の微笑みなのに、ふわ・・・と。
それは多分、彼の周りの空気を、その場にいる全ての人の空気を、優しく変える微笑み。
「光と可憐は対等なんだから。それは、可憐は被害者ではないし悪くもないし、負けてもいない。そういう関係に育ったって事だよ。二人の共同責任なんだ」
柔らかい微笑み。
なのに、瞳の奥には強い光。
「だから、そんなに落ち込まないで?」
どうしよう。
私はこの幼馴染に、今度こそどうしようもなく惚れてしまった。どうしよう。
この微笑みに、眼差しに、その言葉に。
浩輔・・・いつのまに大人になっていたんだろう?私なんか、とっくに抜かされている。
「・・・そうか・・・」
可憐が私の隣で小さく呟いた。
「悔しいならさ。納得がいかないなら、もう一度光と話してごらんよ?きっと今より、自分の中で納得がいく答えが見つかるよ」
柔らかい微笑みで、心に染みいる声で浩輔は語りかける。
可憐はそれに促されるかの様に、先程までのとげとげしさが嘘の様に、掠れた声で呟く。
「・・・でも・・・しつこい、とかウザい女だと思われたらどうしよう・・・」
「安心しろよ」
ここで初めて、浩輔は立ち上がって可憐の側に来た。
片膝をついて座ると可憐の顔を覗きこみ、女の子みたいににこっと笑った。
「可憐は、すごく可愛い女の子だと俺は思うよ?性格だって可愛いし、とてもいい子だよ。だから大丈夫。ちょっとくらい相手が困っても、きっとそれも恋愛だよ」
「・・・こうすけぇ・・・」
可憐が再び涙を浮かべる。でもその涙は、私に見せていたものとは質が違う。
「うわーん、ありがとう・・・」
「よしよし。可憐はいい女だ」
浩輔の首に抱きつく可憐を、彼はニコニコと明るく受け止めた。背中を軽く、ポンポン、と叩く。
そして彼女に優しく囁いた。
「泣いてばっかじゃ、もったいないよ?」
私はそんな彼に見とれていた。
小さい頃はただひたすら、気が弱くて無口な男の子だったのに。
私の言う事を何でも聞いて受け入れて、いつもニコニコ笑っているだけの困った男の子だったのに。
いつのまにか私より足が速くなって。
いつのまにか私より背が高くなって。
いつのまにか私より声が低くなって。
いつのまにか、他の誰よりも優しく人を包み込める包容力を持っている。
頼もしくて、力強くて、なのに見ていてどこか切ない。
どうしよう。この人が、好きだ。
どうしようもなく、好きだ。