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「おい、あさみ。・・・あさみっ。あさみっ。」
その日は大学の講義も無いので、普通に寝ていた。夕方からのテニスサークルには顔を出そうと思っていた。
大学3年ともなれば授業のコマ数も減るし、週3日に講義を集中させて週休4日のスタイル。
昨日は夜遅くまで友達とバカ騒ぎをしていたから。
「あさみっ。起きろってばっ。おいっ。」
ぐらんぐらんと揺すぶられる。弱冠の頭痛を感じた。二日酔いだ。
「んー・・・あ・・・え・・・浩輔??」
ぼんやりと目を覚ますと、目の前に眉毛を八の字に下げた浩輔がいた。
見慣れた、柔らかいカーブを描く顎。小さめの瞳。華奢な体。
およそ男らしい体格とは言えないこの幼馴染は、小さい頃からとにかくマイペースでいつも笑っているか、眠そうか、という表情をしていた。
それが、今は相当困っている、顔。
どちらかというと女顔のせいか、おかげで余計に頼りなく見える。
「・・・何?どうしたの・・・?」
私は思わずため息をついてしまった。
小さい頃からよく、私は彼の面倒を見てきている。だからつい、上から目線で話をしてしまう癖がある。
だけど浩輔はいつもニコニコ、私に近寄ってきていた。
高校生ぐらいになると私も、彼は一見頼りないように見えて、その実本当に頼りないのだけれど、本人はそれを良しとしていて案外肝が据わっており、なにより万人に分け隔てなく優しい、滅多にいない最高の男だ、と気付くようになっていた。
その最高の男が今、私を上から覗きこんで困り果てている。・・・少し焦っている?
「・・・あれ?何で浩輔、ここにいるの?」
段々私は覚醒してきた。
「ここ、私の部屋じゃん。」
「おばさんがいれてくれた。」
「えー??何でー?」
「あさみがいつまでも寝てるから、俺が起こしにいって、少しは恥をかけばいいのよ、とか言って。・・・っていうかあさみ、本当に今まで寝ていたの?」
困り果てた顔の中に、信じられないって表情がありありと見える。
私は少し、いやかなり恥ずかしくなってしまった。
時計を見ると、もう4時。あいたた、これは母親が怒るはずだわ。
「だって・・・昨日は夜中の2時まで可憐達と遊んでて・・・。」
「そうなの?それは良かったね。・・・でも、本当に寝てたの?ここで?」
「すみません。たまにはいいでしょ。眠かったんだもん。て何で浩輔にこんな言い訳しなくちゃいけないのよ。」
私は彼を見上げた。
今更スッピンを隠す仲でもないけど、21歳のうら若き乙女の部屋に当然の様に入りこむ神経ってどうよ?
幼馴染といっても男と女、一線を画すべきじゃないかしら?
という言葉はすぐに消えた。
小学校から大学まで同じ、所属するテニスサークルまで同じ、友達の部屋で飲む時は男女の隔たりなく何人も集まり、朝まで飲み明かす中。
そのままみんなでごろ寝、なんて事も両手では足りないくらいの回数を重ねている。
もちろん、グループ内で間違いが起こった事は一度も、ない。
特に私達二人の間柄は皆が知る所。ぼんやりとした浩輔と、それの世話をする羽目になる私。
お互いカレカノがいた時期もあったけど、この関係が崩れる事は無かった。
「本当に一日中ここにいた?」
「いたよー。どうしたの?何を確認したいの?私があまりにも怠惰な生活を送っている事に、苦情を言いに来たの?わざわざ?」
「そうじゃねえよ。」
彼は頭をガシガシと掻くと、ほとほと困り果てた様な顔をして、床に胡坐をかいて座り込んだ。
そして頭を抱えて俯いている。
「・・・どうしたの?」
「・・・本当はあさみ、信濃町にいたでしょ?」
「・・・はあ??」
「信濃町の、総武線のホームにいたでしょ?」
「私が??・・・いいえ?今日?まさか。」
私はTシャツ姿に下はスウェット、で浩輔と同じように胡坐をかいた。ただし、ベッドの上で。
(もちろんノーブラだけど、あまりの驚きにそのまま起き上がってしまった。)
「私の記憶が正しければ、わたくし、ずっとこのベッドにおりました。」
「嘘だよ。」
間髪いれずに浩輔が言う。
顔をあげて、珍しく私を鋭い目で見た。
「絶対嘘だよ。いたよ、信濃町に。なんで隠すんだよ。」
「え?いないよ、マジで。ホントに。いるわけないじゃん。何、どうしたの?何かあったの?」
「それを確認しにきたんだよ。」
困ったように、怒ったように、拗ねたように、信じられない様に、私の目を見る。
「駅であさみが泣いているのを見たんだよ。だからビックリして来たんじゃないか。」
「・・・ええー??嘘でしょ?私、そんな事してないよ!」
「あれはぜったいあさみだった!!」
更に珍しく私に大声を出すものだから、私は心の底から驚いてしまった。
この人、何かに怒っている?というか、私に怒っている?え?何で?
私、怒られる様な事をした?
「あさみが、俺に向かって泣きながら叫んでいたんだ!俺、見間違ってなんかない!あれはあさみだった!」
「・・・ええぇ??泣き叫んでいたぁ??私が?駅で?」
「そうだよ!俺、ちゃんと見たんだかんな!」
開いた口が塞がらない、とはまさにこの事。
私は頭の中が真っ白になってしまった。
私が?寝ている間に?駅に行って?泣き叫んだ?浩輔に??
「俺が電車に乗ってドアが閉まる時、ホームにいるあさみが泣いているのを見たんだ。声はよく聞こえなかったけど、あれは叫んでいた。」
浩輔は断言した。
私は未だについていけず、浩輔を疑うか、浩輔の頭を疑うか、で迷っていた。
これは仲間内の、新手のゲームなのかしら?
それにしては彼の瞳が少し潤んで見えない事も無く、無駄に演技が上手すぎない??
「・・・えっと、それ、・・・人違いじゃない?」
「だから違うって言ってんじゃん。長い付き合いのあさみを間違えないだろ。」
ぼそぼそとしたいつもの口調に戻り、見慣れた八の字眉で私を見るけど、彼が自分の発言を撤回する意思が無い事はハッキリと見てとれた。
私を見間違える訳が無い、と断言をしてくれる事は、心のどこかが少し熱くなるくらい嬉しい事なのだけれど。
いやだって私、ここで本気で寝ていたし。
「・・・じゃあ、ドッペンゲルガー?」
「そんなのいるのかよ。」
「だって見たんでしょ?でも私ここで寝ていたもん。じゃあ、私の生霊。」
「・・・あさみ、本気で考えていないでしょ。」
「・・・・。」
「そして信じてないでしょ、俺の事。」
「・・・だってぇぇ・・・。」
今度は私が、浩輔に負けないくらい眉毛が下がってしまった。
どうすればいいのよ、これって。わーい、騙されたーっ、ってバカにされるのを覚悟で信じるフリをすればいいの?それとも、性に合わない事をしないの、って叱り飛ばせばいいの?
それとも、この人の頭の中身を本気で心配すればいいの?
「・・・助けて、って言ってたんだ。」
浩輔が下を向いて、ボソッと言った。
「行かないで、とも言っているように聞こえた。俺の名前を呼んでいた。・・・なのに電車のドアが閉まっちゃって・・・俺、泣いているあさみをホームに置いていっちゃったんだ。」
純粋で優しい幼馴染は、小学生の頃と変わらない雰囲気と口調で話す。丸まった背中。可愛い顔での困った表情。
華奢な体はとても21歳の男には見えないけど、これが意外、テニスはサークルで一番の腕前だ。
敏捷な動きと的確なサーブ。テニスをする時の彼は、本当に別人。輝いて見える。
ま、スポーツ全般、何でもできるオールマイティなのだけれどね。
「・・・それで、わざわざ来てくれたの?」
「何度も電話しても出ないし、マジでどんなトラブルに巻き込まれたのかと思って、スゲー心配したんだぞ。」
そう言って、顔をあげた。
「ホント、焦った。」
「・・・。」
ドキッとして、顔が赤くなりそうなのを慌てて隠すべく、目を反らす。
確かに携帯の電源を切っていた。それも確信犯的に。だって誰にも睡眠の邪魔をされたくなかったんだもの。
それがこういう結果を生むとは。なんだか申し訳ない気分になってきた。
でも、よくよく考えてみれば、悪いのは私ではなくてその謎の女の子。
泣き叫ぶ?信濃町のホームで?あり得なくない?
「・・・浩輔さあ。悪いけど、人違いだから。」
「だって俺の名前を呼んでいたんだよ?人違いつっても、そうそういないだろ、そんなコ。」
浩輔が唇を尖らせて私を見た。
「どういう事?」
「私に聞かれても・・・。」
二人で途方に暮れてしまった。
「・・・でもそれって、私でないからつまり、浩輔の知り合いの誰かが、あなたに助けを求めていたってこと?」
眉根を寄せて私が言うと、今度は浩輔がポカン、とした。
「え?そんな事あるの?」
「て、自分が持ち込んだネタでしょう?疑ってどうするの?」
「だって俺はあさみだと思ったから。」
「だから私は一日中ここで寝てたんだってば。ドッペンゲルガーと生霊説を否定されたら、あとは別人説か、浩輔頭にキちゃった説を唱えるしかないでしょ。」
そういって私は彼を軽く睨んだ。
「まさかと思うけど、信じているけど、寝ている私を叩き起こしに来た単なるゲームのパシリだった、とかだったら、本気で怒るからね。絶交だかんね。」
「ナイナイそれはナイ、マジでないっ。」
彼は焦って、右手を顔の前でぶんぶん振った。ふーん、ならいいけど?
「じゃ、私に似た誰か?それで浩輔の知り合い。浩輔って呼んだの?だったら親しい人よね。」
「お前を間違えねーと思うんだけどなあ・・・。」
「諦めてよ、それは。それとも私の生霊がいた方が嬉しいの?」
「え?嬉しいって・・・。」
浩輔は驚いたように言葉に詰まった。それを見て、私は少し溜息をついてしまう。この子は時々素直すぎる所があって、年甲斐もない(?)その純粋さに最近は呆れているから。
「そこでイチイチ詰まらないの。誰か心当たりいない?」
「いないよ、そんなの。」
そういって眉間にしわを寄せる。
私も彼と一緒に、眉間にしわを寄せて考えた。
「元カノとか。」
「あり得ない。絶対違う。」
即、否定をしてきた。断定だ。
「一応、電話してみなよ。」
「えー・・・。」
心底嫌そうに、まるで小学生がするように再び唇を突き出して私を見上げてきた。
本当に子供みたい。こんな人が小学校の教員免許を取ろうとしているんだから、合っているのか不安を覚えてしまう。
「そんなに切羽詰まって私の部屋に押し掛けるくらいなんだからさ、何か大変そうだったんでしょ?その彼女に電話してご覧よ。」
普通ね、女の子が助けを求める相手って、それが男なら、彼氏とかだもんね?
私はベッドから彼を見下ろした。
浩輔はしばらく考えたのち、がくっと肩を落とし、より一層小さくなった背中でボソボソと呟いた。
「・・・やだなー・・・。怒られそう・・・。」
「相変わらずのヘタレッぷりね。」
頼りない所に母性本能をくすぐられるのか、スポーツ万能のギャップに惹かれるのか、幼い女顔に惹かれるのか、浩輔は過去にも何人か彼女がいた。ただし、一年持ったためしがない。
告られて、振られ、告られて、振られ、の繰り返し。まさに来るもの拒まず去る者追わず、なのだ。
そして、どの彼女も例外なく、気が強くて浩輔を尻に敷く。いや、敷いていた。
浩輔はしぶしぶ携帯電話を取り出すと、目で私に確認し、目で私に催促され、嫌々ながら電話をかけた。
その後ろ姿、ちょっとウケる。
なんて思う私は、最近彼にヤラれている自覚が、ある。
つまり、好きになりかかっているって事。
10年以上も友達をやっていて。今更ながら。
どうしてなのか、自分でもわからない。なのに、彼に触れたくなる。
可能性なんて低いし、長く続いたこのぬるま湯の様な関係を壊したくないのに、
キスを、したくなっている。