崩落の責任だけを負わせるため責任者札を掛けられましたが、三度目の退避命令で親方と伴侶に選ばれます
「次に死人が出たら、あなたの責任ですから」
人が死ぬ予定だけ先に決まっているとは、たいへん段取りのよい現場である。
初夏、洗い場用の浅井戸を囲んだ村人たちの前で、ピルレット夫人は私の首へ木札を掛けた。
「現場責任者はレーネです」
拍手まで起きた。たぶん善政への拍手であり、私の絞首刑の予行演習ではない。
札の表には私の名。裏には、責任者とは工法を決定し、作業の停止、全員の退避、再開の判断を命じる者である、と焼きごてで刻んである。
責任を押しつけるために、指揮権まで丁寧に添えてくれたらしい。夫人は贈り物が上手だ。
私は札を腰へ結び直し、木製の井筒枠へ下げ振りを当てた。
重りの先が、枠の中心から指一本ぶん外れている。
「据え付けを止めます。東側を上げて、根石を詰め直してください」
「これくらいなら水は汲めるぞ」
掘り手が頬を掻く。
「汲めます。枠が傾き、滑車台がずれ、満水の桶が人の頭へ落ちるまでは」
「縁起でもない!」
「死に方の候補、一つ目です」
「数えるな!」
職人たちは文句を言いながら、てこ棒を差し込んだ。根石を二枚入れ替え、四方から下げ振りを当て直す。重りが中心で静止してから枠を下ろした。
完成後、桶は井筒の内側へ一度も擦らなかった。
夫人は村人へ微笑んだ。
「若い職人ですから、慎重すぎるところもございますの。臆病で工期を遅らせましたけれど、皆さまのために働いたことは褒めてあげてくださいませ」
私の一日分の手間は夫人の寛大さへ変換された。水より早い。ぜひこの技術で井戸も掘っていただきたい。
* * *
盛夏、街道脇の二基目は七尋まで掘ったところで、土止め板の隙間から濡れた砂が細く流れた。
細いから安全、とはならない。毒蛇も最初は細い。
「現場責任者はレーネです」
夫人が旅人たちへ宣言し、同じ札を私へ掛けた。
私は砂を指で潰した。水気が掌へ残る。上から落ちた砂ではない。板の向こうで、水を含んだ層がこちらへ圧を掛けている。
「全員、退避。巻き上げを止めて、坑内の二人を上げてください」
「またか、臆病者」
「板が抜ければ、砂に脚を取られます。二人が折り重なり、上から桶枠が落ちます。死に方の候補、二つ目です」
「縁起でもない!」
坑内の掘り手が先に叫んだ。元気でよろしい。その声を生きたまま地上で聞きたい。
一人目を上げ、二人目の肩が坑口を越えた直後、土止め板の端が外れた。支えを失った枠材が穴の底へ落ち、湿った砂へ半分まで刺さる。
掘り手たちは揃って私を見た。
「ほらね」と言えば可愛げがない。
「候補は外れました。枠材で頭を割る方でした」
「増やすな!」
補強を入れて再開し、井戸は予定より二日遅れで完成した。
夫人の発表では、私はまた臆病で工期を遅らせた。落ちた枠材はなかったことになった。死人が出なければ危険も存在しなかったことになるらしい。なんと明るい世界観だろう。私は住みたくない。
* * *
乾季の終わり、三基目の井戸は渇水の村で十五尋まで掘り下げる予定だった。
今度の私は、深さごとに地層を一冊の台帳へ記した。
九尋で青粘土。十二尋半から水を含む砂が混じり、十三尋で坑底へ湧水がにじんだ。作業を止めて翌朝に測ると、静水位は七尋。日付、天候、掘り手、土止めの増設位置。書き損じた頁は横線で潰し、隣へ書き直す。破って捨てれば台帳が美しくなるが、現場は美しさより、どこで間違えたかの方を好む。
井筒枠には下げ振りを四方から当てた。土止め板は一枚ずつ揺すり、指の入る隙間がないか確かめる。
「北側、もう一度」
「昨日も見たぞ」
「昨日の土と今日の土は別人です。昨夜、雨が降りました」
「土に人格を与えるな」
「信用できない相手を見分けるには便利です」
横で台帳を読んでいた男が、ほんの少し口元を動かした。
領内を巡回する工事監督官、アラン。泥を避ける貴族靴ではなく、底に鋲を打った作業靴を履き、私が九尋の欄につけた青い指跡まで眺める人だった。
「この書き直しは?」
「十二尋で砂層と記しましたが、採った土を乾かしたら粘土が多かったので訂正しました」
「頁を差し替えなかったのか」
「最初の見立てを隠すと、次も同じ間違いをします」
アラン監督官は頷き、私の腰の札を裏返した。
「読んだか」
「四度。押しつけられた罪状は、よく読む主義です」
「罪状ではない。工法を決め、停止、退避、再開判断を命じる権限の証明だ。危険を認めた時点で使える」
「施主が続行を命じた場合は?」
「施主を含む全員へ命じろ」
近くで縄を巻いていたマールヤの手が止まった。すぐにまた動いたけれど、縄の同じ場所を二度巻いた。
私は見た。アラン監督官も見た。
だが彼は問い詰めず、人数札の束を指した。
「坑内へ下りた者と、戻った者は?」
「マールヤが一枚ずつ裏返します。今は五人です」
「よし」
役職ではなく、手順を確かめている。
少々困る。そういう人に仕事を見られると、札が首輪ではなく、本当に責任者の札に見えてしまう。
* * *
三日後、祝水式の旗が坑口のすぐ脇へ立てられた。
まだ井筒枠の補強は終わっていない。なのに村人が集められ、楽師が笛を構え、桶には白い布まで結ばれている。白布は土砂に埋まると捜しやすそうだ。祭具としては知らないが、事故現場の目印としては優秀である。
ピルレット夫人は壇の上から両腕を広げた。
「現場責任者はレーネです」
三度目だった。
拍手の向こうで、坑口の下から、ぎ、と音がした。
木が荷重に耐える音ではない。耐えるのをやめる相談を始めた音だ。
「式を始めます。最初の水をお上げなさい」
夫人が命じる。
巻き上げ機の取っ手へ手を掛けたマールヤの顔から、色が抜けた。
穴の中では五人が補強材を組んでいる。私は坑口へ腹ばいになり、下を覗いた。十三尋の横板から砂が吹いている。細い筋ではない。濡れた砂が脈打ち、板の隙間を押し広げていた。
傍らの下げ振りを見る。
風はない。
重りだけが、坑口の中心をまたいで揺れている。
地面まで鳴った。踵の下を、太い綱で一度こすられたような震えが走る。
「マールヤ。取っ手から手を離して」
彼女は離した。両手を胸元で握り、早口に言った。
「一昨日から、夜の片づけのときだけ軋んでいました。夫人の従者に、式を遅らせたら次の雇いはないと言われて、土が締まる音だと報告しました。昨日は二度。今朝は三度、聞きました。私、知っていて、小さく書きました」
夫人の従者が目を伏せ、夫人は彼を見なかった。都合の悪い共犯者は、視界から消せば一人で罪を負ってくれるらしい。
「その話は後です」
私は人数札の束をマールヤの手へ押し込んだ。
「あなたは地上の点呼。上がった人の札を一枚ずつ裏返す。名前を声に出して。聞こえなければ腕を掴んで確認。できますか」
「できます」
「隠した分は、数え間違えず返してください」
「はい!」
彼女は坑口から三歩下がり、札を地面へ一列に並べた。
私は腰の責任者札を正面へ出した。
「巻き上げ停止。桶を地上へ戻して、固定鉤を掛けてください。綱は坑口の西側へ寄せる。坑内の全員を下段から順に上げます」
「待ちなさい」
夫人の声だけが華やかなままだった。
「村人がこれほど集まっていますのよ。水が出るところだけ見せればよいのです。作業は続けなさい」
「見物人を井戸二基分、離してください。荷車も退避。旗は抜かなくていい。旗一本のために人を戻しません」
「レーネ!」
「全員、坑口から離れてください。規程の『全員』には、施主も含まれます」
夫人の扇が閉じた。
「責任者とは責任を取る者でしょう。命令する者ではありません!」
私は札の裏を向けた。
「工法決定、停止、退避、再開判断。たいへん欲張りな札です」
「それは形式でしょう!」
「札を掛けたのはあなたです。飾りだった、は通りません」
アラン監督官が夫人と坑口の間へ入った。
声は低い。だが村人のざわめきが薄くなる。
「巡回監督官として、責任者の退避命令を有効と認定する。これ以降、ピルレット夫人の口頭命令はこの現場では無効です。夫人も下がってください」
「私の井戸です!」
「では井戸二基分、胸を張ってお下がりください」
夫人の顎が、扇の向こうで引けた。
夫人が動かない。
それまで私を臆病者と呼んだ掘り手が、村人へ怒鳴った。
「退避! 井戸二基分だ!」
「子どもを先へ!」
「荷車は道の向こう!」
短い声が次々に重なり、人の輪が広がっていく。夫人の従者たちまで壇を置き去りにして下がったので、夫人も裾を掴み、ようやく歩いた。善政より先に逃げ足を披露なさるとは、実演を重んじる施主である。
「一人目、上がるぞ!」
坑内から声が来た。
梯子の最下段には最も深い位置にいた掘り手。上の者が先に乗れば、下の者の逃げ道を塞ぐ。私は綱を坑口の西へ回し、安全綱の結び目を引いた。
「結び目、よし。上げて!」
二人が巻き上げ補助の綱を引く。
泥まみれの頭が見えた。肩。腰。地上へ転がり出る。
「バルト、地上!」
マールヤが名を呼び、人数札を裏返した。
「二人目!」
また地面が鳴った。
坑口の東側で、小石が一つ落ちる。砂が縁からさらさらと穴へ吸われた。
死に方の候補。東の縁が割れる。梯子が横倒しになる。綱が井筒枠へ噛む。上の人間が下の人間を巻き込む。
候補は数える。怖さを消すためではない。手順へ変えるためだ。
「梯子を西壁へ押さえて! 上の者は動かない! 二人目だけ上がって!」
「二人目、地上! エッボ!」
札が返る。
「三人目、来い!」
白い式典布のついた桶が固定鉤の下で跳ねた。私は布を引きちぎり、綱の噛みそうな場所へ巻く。
「そこ、切れるのか」
掘り手が叫ぶ。
「布が裂ければ、綱が枠へ当たっています。目で見るより早い!」
ご立派な式典布が、ついに人命へ役立った。夫人の善政、本日初の成果である。
三人目の腰が坑口へ届いたとき、白布が裂けた。
「巻くな! 綱を半尺戻して、外側へ!」
取っ手が止まる。綱をずらす。再び引く。
「三人目、地上! ダニル!」
「四人目!」
坑内から咳が聞こえた。砂が増えている。
私は梯子へ足を掛けた。
「何をしている!」
アラン監督官が私の腕を掴む。
「最後の二人が、土止めの横木に補助綱を絡めました。外さないと一人ずつ上がれません」
「別の者を行かせろ」
「結び方を指示したのは私です。外す位置が分かります」
怖い。もちろん怖い。土は身分を選ばないし、私が責任者だから避けてもくれない。たいへん公平で腹が立つ。
私は彼の手を外した。
「地上の指揮をお願いします。命令は変えません。救助要員以外は、さらに三歩下がって」
アラン監督官は一拍だけ私を見た。
それから先に下がり、声を張った。
「救助要員以外、三歩下がれ! 責任者の命令だ!」
肩書より先に、私の命令へ従った。
私は梯子を下りた。
濡れた砂が袖へ飛ぶ。四人目の掘り手は横木へ背を押しつけ、最後の一人の安全綱を解こうとしていた。
「順が逆! あなたが先!」
「お前を置いて行けるか!」
「責任者の命令です。先に上がって!」
「じゃあ臆病者を置いて行けるか!」
「それは置いて行ってください!」
補助綱を横木から抜き、四人目の腰へ掛け直す。結び目を締め、二度引く。
「上げて!」
四人目が上がる。
残った掘り手を梯子へ乗せた。安全綱を背から回し、胸の前で結ぶ。下から靴底を押す。
「登って。止まらない!」
「お前は?」
「すぐ後ろです!」
砂が足首を覆った。坑底の水が濁って盛り上がる。
彼の踵が梯子を一段ずつ蹴る。私は下から追った。上へ行くほど梯子が揺れ、壁の青粘土が肩へ剥がれ落ちる。
「四人目、地上! フィン!」
遠くでマールヤの声。
私の前の掘り手が坑口から引き上げられた。
「五人目、地上! ヨルク! 坑内、残り一人、レーネ!」
最後の人数札まで、彼女は握ったままだ。
地上から腕が伸びた。アラン監督官だ。
私は自分で最後の二段を蹴り、右手で坑口の西側を掴み、左手を伸ばした。手首を取られる。土が崩れ、右足の足場が消えた。
身体が振られた。
脇腹が井筒枠へ当たる。息が潰れる。
掘り手二人がアラン監督官の腰を掴み、三人が私の腕と上着を掴んだ。泥の上を引きずられ、背中から地上へ落ちる。
「レーネ、地上! 全員退避、六人確認!」
マールヤが最後の札を裏返した。
「離れろ!」
誰かが叫ぶ。
私は起き上がった。自分の足で走った。脇腹が痛い。痛いなら入っているものはまだたぶん臓物だ。確認は後!
全員が広げた輪の外へ出た瞬間、坑口の東側が沈んだ。
まず旗が傾く。
次に壇の脚が浮く。
地面が口を開け、土止め板を内側へ折り、井筒枠の半分を呑み込んだ。低い音が腹を抜け、砂と泥水が噴き上がる。式典用の白布が穴の中へ消えた。
誰も声を出さなかった。
さっきまで五人がいた場所へ、壇と旗と土砂が落ちている。
空振りではなかった。臆病者の心配でもない。
私は腰の札を握った。角が掌へ食い込んだ。
「坑口へ近づかないでください。二次崩落の恐れがあります。縄を張って、見張りを二人。負傷者の確認後、私は事故報告を書きます。再開は地層を調べ直してから判断します」
「まだ責任を取るつもりなの?」
離れた場所から夫人が言った。さきほどまでの命令形が、ずいぶん痩せている。
「責任者でしょう、私は」
「なら、この失敗はあなたの——」
「失敗ではない」
アラン監督官が私の台帳を開いた。
十三尋の頁。青粘土の下、水を含む砂層。湧水開始の記録。欄外へ押した私の泥の指跡。
崩れた穴には、記録どおりの青い粘土と濡れた砂が露出していた。
「台帳と崩落位置が一致している。責任者は危険を認め、権限を行使し、全員を退避させた。五人の坑内作業員と見物人を救った判断だ」
彼は頁を村人たちへ向けた。
「事故後だけ札を示し、事故前の命令権を認めないことはできない。ピルレット夫人を施主代理から外す。再開判断はレーネと、領の工事所が共同で行う」
「私を外すですって?」
「はい。今、この場で」
アラン監督官は書類を一枚取り出し、夫人の従者へ差し出した。従者は夫人を見た。夫人も従者を見た。
誰も助け舟を出さない。
従者は受領欄へ署名し、印を押した。
夫人の手から式次第が取り上げられる。指示用の鐘も工事所の職員へ渡された。自分の名で人を集め、自分の命令で掘らせる権限を、夫人は村人の前で失った。
私はそれを見届けてから、マールヤへ向き直った。
「軋みを隠した報告は、事故記録へ書きます」
「はい」
「今後、異常は大小をつけずに申告してください」
「はい」
「今日の点呼も書きます。六人全員を確認したことも」
マールヤは人数札を胸へ抱き、何度も頷いた。
恐れて間違えた者には、間違いを返す仕事がある。
危険を知りながら他人へ押しつけた者には、もう現場は渡さない。
「補強は全部組み直しだな」
掘り手の一人が崩れた井戸を睨んだ。
「東を広く掘り直す。砂層へ横板を二重に入れるぞ」
「再開は私が決めます」
「分かってるよ、親方」
私は振り返った。
別の掘り手が鼻の頭の泥を拭う。
「次はどう組む、親方」
「下げ振りは四方だな、親方」
「死に方も数えるんだろ、親方」
「それは数えます」
「そこはやめないのか!」
笑い声が広がった。
臆病者と呼ばれた同じ口から、親方、と返ってくる。
私は責任者札の紐をほどき、泥を親指で拭った。
捨てずに、腰へきつく結び直した。
* * *
「レーネ」
アラン監督官が私を呼んだ。
夫人の退場も、見張りの配置も済んでいない。村人も職人も、まだ全員そこにいる。
「事故報告なら、今から——」
「先に職務上の話をする」
彼は台帳を閉じ、両手で私へ返した。
「君の停止命令、退避手順、点呼の割り振り、坑内での救助、すべて適切だった。再開判断を共同で行うのは、君を監視するためではない。領の権限を君の判断へつけるためだ」
「承知しました」
「ここまでが職務上の承認だ」
彼は言葉を切った。
村人たちは帰らない。
さっきまで楽師だった人まで笛を下ろし、こちらを見ている。井戸より静かだ。井戸は先ほど盛大に崩れたので、比較対象として正しいかは怪しい。
「ここからは別件だ」
アラン監督官は泥の上へ片膝をついた。
私は台帳を落としかけた。
「君に求婚したい」
落とさなかった。職人としての意地である。恋愛に職能が役立った唯一の瞬間かもしれない。
「なぜですか」
声が細くなった。
彼は私の顔から目をそらさない。
「仕事ができるから、だけではない。君は台帳を書き損じると、紙が薄くなるまで横線を引く。危険を数える趣味は悪い。土の機嫌を人より信用し、怒ると敬語が刃物になる。自分の脇腹が痛んでも、先に他人の人数札を見る。今日も私の制止を聞かなかった」
「欠点の報告書でしょうか」
「求婚理由だ」
誰も笑わなかった。
「それらを直した君を望んでいるのではない。今の君を、私の都合のよい場所へ置きたいのでもない」
彼の手が、泥の上で固く握られる。
「君の判断を、私の隣で預け合いたい。仕事では唯一、命を預けたい親方として。暮らしでは唯一、私が伴侶と呼ぶ人として。隣に置くのではなく、君の隣に立ちたい」
喉の奥が塞がった。
私はずっと、便利だから責任を載せられる女だった。
井戸を掘れる。字が書ける。人前で強く言い返さない。事故が起きれば、若くて身分のない私の名が札に残る。完成すれば夫人の善政、崩れれば私の仕事。
「私が便利だからでは、ないのですか」
「違う」
「止めろと言われれば止めて、危険なら下へ行って、報告書も書くから」
「違う」
「あなたの仕事に役立つから」
「役に立つことは尊敬している。だが、それで求婚はしない」
アラン監督官は立ち上がった。
私の泥だらけの手を取る。逃がさない強さではなく、こちらが引けば離せる強さだった。
「誰も止められない場で、君だけが止めた。恐ろしくても下り、自分で戻り、戻ってすぐ次の責任を引き受けた。私はその本人を選んでいる。役目を外しても、成果を数え終えても、君でなければ嫌だ」
視界が歪んだ。
堪えようとして息を吸うと、胸の奥が引きつった。頬を伝ったものが顎から落ち、彼の手の甲の泥へ小さな筋を作った。
アラン監督官の指が震えた。
「触れてもいいか」
私は頷いた。
泥のついた腕が、背中へ回る。
作業着も髪も顔も泥だらけだった。脇腹も痛む。抱かれるには、あまりに出来の悪い状態だ。
それでも彼は腕を緩めなかった。
額を肩へ押しつけると、また喉が震えた。息を整えようとするたび、胸が細かく跳ねる。彼は急かさず、背中に置いた手も動かさず、ただ私の重さを受けていた。
仕事の評価ではない。
責任を載せる札でもない。
この人が、自分の暮らしへ入れるただ一人として、私を名指している。
私は彼の上着を掴んだ。泥の指跡が増えた。
「アラン」
初めて、役職を外して呼んだ。
「はい」
「私は現場を捨てません」
「捨てさせない」
「雨上がりの土を信用しません」
「知っている」
「危険候補を数えます」
「減らす交渉はする」
「たぶん、負けますよ」
「それも知っている」
私は顔を上げた。
「それでもいいなら、私も、あなたの隣に立ちたいです。伴侶になります」
井戸より静かだった村人たちが、一斉に息を吐いた。
誰かが笛を鳴らしかけ、別の誰かに止められた。今だけは、それでいい。
アランは私の頬へ触れ、もう一度、泥のついた腕ごと抱きしめた。
ピルレット夫人はその日のうちに工事から外され、以後、私たちの現場へ入ることはなかった。マールヤは異常報告と点呼の担当を続け、どんな小さな軋みも小さく書かなくなった。
井戸は砂層へ二重の土止めを入れて掘り直し、十六日後に完成した。最初の水を汲み上げたのは夫人ではなく、村でいちばん年下の子どもだった。
そして次の現場。
私は新しい責任者札を腰へ結び、切り立った法面を見上げた。
「危険候補、一つ目。雨で上の石が滑り、頭蓋を——」
「レーネ」
「二つ目。荷車の輪留めが外れ、坂を下って——」
「親方」
「三つ目。アランが数え上げを止めようとして、注意をそらした結果——」
「私の死に方まで候補へ入れるな」
「では、伴侶の権限で止めますか」
「その権限は札の裏にない」
確認すると、本当になかった。
仕方がないので私は札を裏返し、工法決定、停止、退避、再開判断の文字を指でなぞった。
「では親方として続けます。四つ目——」
アランは額を押さえた。
誰も私を臆病者とは呼ばなかった。




