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 このところ、悪夢しか見ていない。

 例えば知らない誰かが死ぬ、という夢ならまだいいほうで、脳みそが、とか内臓が、とかそういった夢が多い。それらが誰のものかというと、私のものの時もある。

 目が覚めた時に私の目線の先にはクローゼットの扉があって、窓から差し込む日光によって白々しく見えた。変に現実的で、現実的すぎるからこそ夢との境目が曖昧に感じられる。

「起きた?」

 寝返りを打って反対側を向くと、彼がベッドの上でタバコをふかしていた。普段彼よりも先に起きているのに、ここ最近の悪夢のせいで目覚めが悪く、彼から起こされる日もある。今日もまさにそれだったらしい。

「いやな夢を見た」

「ふうん」

 興味なさげに煙と一緒に短い言葉を発すると、緩やかな手つきで灰皿に煙草を押し付けた。ベッドで吸わないで、といつも言っているはずなのに。最終的に掃除をするのは多少潔癖の彼になるから、別に問題ないといえば問題ないのだけれど。

「汗かいてる」

 ゆったりとした動きで筋張った指が近づいてくる。そのまま私の前髪に触れて、額に張り付いた毛を払いのけた。現実的すぎる現実なのに、空想の世界の行動のようで不思議な心持ちだった。

「朝飯、おにぎりでいい?」

「……あんまり食欲ないかも」

「わかった」

 そう眉を下げて笑い、するりと彼はベッドから抜け出て、現実世界に溶け込んでいく。器用だな、と思った。現実と空想を行き来する生き物、人間離れ、とまではいかなくても、現実的ではない人だな、とも。

 薄手のシャツに遮られて今は見えない、背中の藍色のことを考えた。こちらに背を向けた時に彼とは反対にこちらを睨んでくる、美しい色合いの入れ墨だ。朝が似合わない人だとつくづく思う。それなのに、よく笑う彼が陽の光の下にいるのもとても様になるのだ。

 上体を起こして、ベッドから一歩足を踏み出した。昨夜スリッパを放り投げてベッドに入ったようで、素足でフローリングの上を歩くしかない。地面に足が着くことになんとなく安心感があった。これは現実だ。現実的すぎることもない、ただの現実だ。

 寝間着を脱いで下着を取り換えた。九月ももうすぐ終わる。日中はまだまだ暑いほどだというのに、朝晩は過ごしやすい気温になる。今肌寒く感じられるのは、寝汗で体が冷えてしまったからだろう。


 顔を洗おうと洗面所に向かうと、彼に話しかけられた。

「鮭と昆布、どっち?」

 一瞬何の話かわからなかったが、瓶詰の鮭が手に握られており、あ、となった。後ろでは炊飯器が湯気を立てている。

「どっちも」

 食欲がないはずなのに、ご飯の炊かれていく匂いを嗅いだらお腹が鳴った。

「言うと思った」

 彼はまた笑った。少し垂れた目が細くなって、無邪気な子供のように見える。

 支度を終えてダイニングテーブルのいつもの席に座る。ここからはオープンキッチンに立つ彼の姿もよく見える。安心感のほかに、昨夜の夢に影響された焦燥感もある。

「ごめん、味噌汁インスタントでいい?」

「全然いいよ」

 普段通りの会話をしているだけなのに、胸の奥に刺さった棘が気分を悪くさせる。不機嫌をまき散らすようなことはしたくないが、気分が晴れないのも事実だ。

「……顔色悪いね、そんなに眠れてない?」

「え、そうかな、そうなんだ」

 たった今自分の顔を鏡で見たばかりだというのに、顔色が悪いことに気づかなかった。もしかしたら目の下にくまができているのかもしれない。それでも私には普段の私の顔に見えた。何の違和感も持たない自分が怖くなった。

「おにぎり、小さめにしてたくさん握ったから、食えるだけ食って」

 小皿の上にラップに包まれたおにぎりが二個並んでいる。潔癖と関係あるのかないのか、彼らしくきちんと三角形のおにぎりだ。私が握ると丸いおにぎりになってしまうからうらやましい才能だ。その隣にはお湯の注がれたお椀が用意されている。戻り切っていないわかめが今の私の心のように、くしゃくしゃになっている。

「ありがとう」

 私の向かい側に座った彼の前にも、同じように三角形のおにぎりが二個置かれている。それで足りるのかな、と思ったけれど、食い意地を張っているような言い方になる気がしたので言わなかった。

「いただきます」

 手を合わせてから、お椀に口をつける。思ったよりも熱くて、舌先をやけどした。じんじん痛む箇所を意識すると、舌も身体の一部なんだと実感する。きっと私は自分の身体のことを他人事のように思ってしまっているのかもしれない。

「明日は朝飯、頼める?」

 ピリ、とシャリ、の間の音を立てながら、彼がラップを剥いでいく。そのきれいな指先に目を奪われていると不意に尋ねられてびっくりした。

「明日、少し厄介なことがあってね」

 この人の言う”厄介なこと”は、たぶん少しとかすごくとか、そういう次元ではない。目に少しかかるぐらいの前髪が、その目の奥の真意を隠しているようだ。

「最近ずっと任せっきりだったもんね、ごめん」感情のこもっていないごめんが出た。

「あー、いや、迷惑とかじゃないからいいんだけど、……自分の味ばっかりだと飽きるからね、お前の朝飯もうまいし」

 眉を下げた苦笑に、私もつられて笑った。料理だって私のほうがへたくそなはずなのに、彼が言うには「ほかの人が作ってくれたもののほうがうまい」らしい。

 彼は私のことを「お前」と呼ぶ。かと思えば名前に「ちゃん」などという愛称をつけて呼んできたり、ちぐはぐな人だ。穏やかに喋るしよく笑うのに、言わば夜の世界に生きているのも、アンバランスなのだ。

「そういえば」

 彼がおにぎりを咀嚼し、飲み込んでから話し始めた。

「最近ここら辺でもストーカー犯がうろついてるらしいから、気をつけて」

「それ、昨日ニュースで見たよ。まだ捕まってないんだよね」

 昨日リビングで夜のニュースを見ていたら、番組中盤のトピックの一つがストーカー事件についてだった。若い女性が後をつけられた話。腕を掴まれた話。犯人がナイフのようなものを持ち歩いていたという話。どれもこのマンションから歩いて行ける距離での出来事だった。

「早く捕まるといいね」

「しょうもない人間だな」

 目の前の彼はひどく冷たい目をしてそうつぶやいた後、いつもの表情に戻ってお味噌汁をすすった。私に向かって言ったのかと思ったら、どうやら違うらしい。

「まあ、警察の仕事だからさ。彩香ちゃんも何かあったらすぐ通報しなよ」

 捕まるとか捕まってないとか、彼の前で言うべきことでもなかったと思った。それすらも恐れているのに、私の中には”普通の市民である私”というものが色濃く存在していて、どうしてこの人と長年一緒に暮らしているのだろう、と、疑問にもならない、自分に対する情けなさのような感覚がわいた。


 高級そうなスーツを着た彼を見送ったあと、洗濯機を回した。彼はよく靴下を裏返したまま洗濯槽に入れるので、それを拾ってひっくり返して、それからである。一度「裏返しに洗ったほうが効率がいいと思う」と言われたことがあるけれど、一体何の効率がいいのかわからなくて、毎回私がひっくり返す羽目となっている。

 ドラム式洗濯機の中で、私の汚れも彼の汚れも全部ないものになる。私の悪夢もないものになればいいのに。洗濯機のぐるぐるを見ていると、思考もこの渦の底にたどり着きそうになる。そもそも、悪夢の原因は何なのだろう。極道の人間といっしょにいるという社会に対する申し訳なさなのだろうか。それとも、彼が明日にでも死んでしまう、という潜在的な恐怖なのだろうか。

 彼が握ってくれたおにぎりはすべて冷凍してしまった。それなのになんだか物足りなくてヨーグルトを食べた。私は一体何を求めているのか。一緒にいて安心できる人なのに、これ以上何を求めているのか。私が殺される夢を、もしくは彼が殺される夢を、どうして見なければいけないのか。

 急激に不安が襲ってきて、甘みの強いフルーツヨーグルトに砂糖をかけた。さらに強い甘味成分はじゃりじゃりと溶けることもなく、私の舌を刺激した。過剰な現実逃避だ、と思った。自分に呆れて、もう一度歯磨きをした。

 空腹は満たされたのに、心がカラカラに乾いた状態のまま、何にも満たされていなかった。

 極道の世界に生きる人間と出会ったのは、彼が初めてなのだ。知らない世界、知らなくてもよい世界のことを、過去の若い私が考えるわけもなく、出会った瞬間からよく言えば「世界が変わった」。

 付き合いを始めた当初はまだ何も知らない若者だったからよかったのかもしれない。今ではもう人生設計とか、親族からの目線とか、そんなややこしいものも含めての自分の人生なのだと自覚してしまっている。

 そういった、“別の世界に行き切れない自分”がこんな夢を見させているのではないか。

 もしくはもっと単純に、彼に傷つけられた人間の怨念、とか。

 血まみれになった彼が私を抱きしめたとき、それが夢だとは思えなかった。はっとして目を開けると、穏やかな寝顔が目の前にあった。彼は死んでいるのではないか、これは私の脳内が作り出した幻覚ではないか、そう思った。私の脳内が作り出したのは血まみれの彼の方だったというのに。


 十八時の、地区のチャイムが遠くで鳴っている。お昼ご飯をはさんで家事を終わらせてから、この時間まで眠ってしまったらしい。この時期では夕方とも呼べる時間にはもう日が暮れていて、部屋の中は私と空間の境目がなくなったような、まどろみが一生続いていくような錯覚を覚えた。

 相変わらず夢見は悪い。どんな夢かまでははっきりと思い出せないけれど、目が覚めた時のどろどろした気持ちにはよくない意味で馴染みがある。

 多少だるさの残る身体を伸ばして、水を二杯飲んだ。あまり美味しくないはずの水道水が美味しく感じられた。

 午後からスーパーに行く予定だったのを完全に失念していた。ありもので済ませるとしても、焼きそばとちくわを使った副菜という茶色い食卓になりそうだ。

 彼は毎日何時に家を出て何時に家に帰ってくるのか、決まっていない。だからどんな時でも二人分の料理を作らないといけない。それが食べられる日もあれば食べられない日もあるのだけれど、今さらそれについてどうこう思うこともない。付き合いが長くなりすぎた。

 賞味期限当日の焼きそばを炒めているときの、この気持ちの悪さは何だろう。見たくないものを見た気持ちになった。ソースの色がつく前の、細い線が集まった集合体。この塊に不気味な既視感を覚えた。

「ただいま」

 顔を上げると、廊下に彼が立っていた。朝見送った高級そうなスーツの上着を脱いで、ワイシャツ姿で立っていた。どうやらこの不安定な気持ちになる塊を凝視しすぎたせいで、玄関を開ける音にすら気づかなかったらしい。

「あっ……、気づかなかった」

「疲れてるね、だいぶ」

 ははっ、と笑い声を上げて、そのまま洗面所に消えていった。ドアの向こうへお風呂まだできてないよ、と普段よりも大きな声で伝えると、シャワーで済ませる、とこれまた大きな声で返ってきた。

 彼が戻ってくるのを待っている間に料理は完成してしまったので、作っておいた麦茶を飲んだ。コンロの熱がキッチン中に充満していて、灼熱地獄、という言葉が頭に浮かんでしまった。地獄はわりとすぐそばにあるのかもしれない。夢の中ですらも。

 フライパンの上で放置されている焼きそばの、ほぐれているはずなのに塊のように見えるそれが、脳みそに見えた。


 最初はさざ波程度の違和感だった。私の中にあるこの感情は、夢を見るごとに次第に大きくなって、最終的に私を飲み込むだろう。肉を裂き、骨を砕く。魂までも海底に押し込むように。

「……正気?」

 私の発言に返ってきたリアクションは、想像の範囲を越えなかった。いぶかし気にこちらを見上げる目は何か睨んでいるようにも見えた。

「だめかな」

 私の提案がめちゃくちゃなことはわかっている。めちゃくちゃなことを提案してしまうほど、私も何が正解で何が間違いなのかわからなくなってしまっていた。おおよそ冷静な頭では出てこない私の発言に、彼は眉根を寄せた。

「ううん、いや、まあそうか……」

 彼は夕食後、決まってダイニングテーブルで煙草を吸う。まだ赤く燃えている部分を灰皿に押し付けたことで、彼によってその一本の命が終わったのだと思った。私の思考なんて知るはずもなく、彼はしばらく唸ったあとにもう一度こちらを見上げた。いや、睨んだのかもしれない。

「そんなに言うなら別にいいけど、でも途中でやめるとかはしてやれないから」

 彼のこの目に見覚えがあった。セックスの最中に見せる目と同じだ。黙って見つめ返している時間が、一生続くかのような気がした。

 掴まれているんだ、と思った。セックスの最中はそれが心のことだと理解している。今は、“命”なのだろう。

 おもむろに立ち上がった彼は、私を背後の壁へと押しやる。これでいいんだ、と思った。これで楽になれるのであれば、それでいいのだと。

 美しい指先が首筋に触れて、そのまま力がこもっていく。両方の親指が頸動脈を圧迫する。首を絞めて、とねだったのは私のほうだ。

「よかったね」

 耳元でささやく低い声が脳内に響き渡る。神経の奥底に触れられているような気がして、快かった。

 緩やかに呼吸が制御されていく。体中をめぐっていた酸素が足りなくなっていく。

「ねえ」

 こんなに苦しいならいっそ死なせてほしい。あなたの手じゃないと嫌だから。そう思っていた私の願望が叶えられ、それは暴力的なまでに快いものだった。

「嬉しいね」

 優しすぎる声にゾッとした。快さの中に死の恐怖が混じっていく。死にたくない、まだ死にたくない。

 普段生活しているときには気にも留めないような、この「生きていたい」という気持ちが自分の中で生まれたことに、安心するのと同時にむなしくもあった。

 私の中に相反する感情が同時に存在していて、酸素の足りない頭では思考が追いつかなくなる。

「なに泣いてるの?」

 泣いている? そうなんだ、私は今泣いているんだ。怖いのか、悲しいのか、よくわからない。見慣れた照明の光が目の中で乱反射して、キラキラしていた。彼は笑っていた。きれいな顔で笑っていた。

 私の口から抵抗の声が出る。言葉にならないうめき声がしばらく続いて、気が付けば彼の両腕を引き離すように手の甲を強く掴んでいた。

 私の意識の一番最後にあったのは、彼の吐いた短い言葉だった。怒りとも悲しみともつかない声色で、静かに吐いた言葉だった。


 頭の中で金切り声のようなものを聞いた。それは徐々に大きくなり、不快感で目を開ける。彼が私の頬を軽く叩いて、起こそうとしていたらしい。まだ自分が生きていることに驚いた。

「大丈夫?」

 床の上にへたり込んでしまった私の頭を撫でる指は、先ほど私を絞め上げた指と同じだった。

「あ……、ごめん……」

「よかった?」

 いつもと変わらない表情だった。一緒に食事をとったときの、世間話をするときと同じような表情で、彼は尋ねる。

「すごく、気持ちよかった」

 激しい波が静まった。私の心の中は、一生の静寂を約束するかのごとく、冷たく凪いでいた。




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