第57話 空腹の紅白
悲鳴が聞こえたのは、森の深部からのようだった。
若い女性のものと思われる、絹を割くような叫び声。
それは明らかに、何かしらの異常を周囲に伝えるものだった。
一体何があったというのか……いやそれ以前に、何故このような森の奥深くに俺達以外の人がいるのか。
枯羽牛の討伐完了までは、森全域が立入禁止にされていたはずだが……。
疑問に思いつつも、俺は仲間達に先立ち、木立の隙間を縫い森の奥へ向かって駆ける。
声の聞こえ方からすれば、そこまで極端に離れた場所ではないはず。
傾斜と起伏の増す足元に気をつけながら、大雑把に目星を付けた方向へしばらく進んだ。
ロティの索敵に頼るほどの状況ではなさそうだ。というかロティの索敵がまずあまり頼れない。
単にこれまで散々肝心なところで肝心なものを見落としてくれたからという不信感も確かにあるにはあるが、そもそも索敵などという能力は導祇の権能に含まれていないそうなのだ。
安全圏から逆算して対象物の位置を探るんだとかなんとか、そんな事を言っていた。恐ろしく非効率的でかつ精度の低い、できなくはないという程度の索敵能力。
本人があまり話したがらなかったところを最近どうにか聞き出したのだが……まさかそんな無理をしていたとは思わなかった。それならそうと早く言ってくれればよかったのに、とも思ったが、まぁ何か譲れないものがあったんだろう。
ともかく、目測である程度森の奥地へ踏み込んだところに、今度は地面を揺るがす轟音。
何か大きなものが中空から落下したかのような低く大きな音と同時、振動が足元に伝わった。緑を湛えた枝の中に絡まっていたらしい枯葉が、周囲の木々からはらりと舞った。
一体何が起こっているのかはさっぱりわからないが、とりあえず異常の発生地点はすぐそこへ近づいているようだ。
音の鳴った方向から推察し、進路を修正する。
そして密度の増した木々の奥へ更に進んだ先。
先程俺達が料理を広げていた場所のような、少しだけ拓けた空間。
そこに、それらは居た。
地面に倒れ伏した一匹の枯羽牛。
俺達が戦った群れからははぐれていたのか、元々別行動をしていたのか。詳細は不明だが、その体に俺達と戦った痕跡は見当たらない。取り逃がしたわけでは無さそうだった。
いや――俺達と戦った痕跡というか、何かしらの戦闘行為を行った跡自体が見受けられなかった。
全身に一切の傷跡が無いまま、はぐれ枯羽牛はその巨体を地に横たわらせていた。まだ辛うじて息はあるようだが、時間の問題のように見えた。
そしてその枯羽牛の傍。
横たわる枯羽牛を見下ろすように佇む者と、その背後に座り込む者。
二人の人影があった。
「随分と大きな枯化獣だったけど、見かけ倒しで助かったわ。それでラヴァリッサ、いつまでへたり込んでいるの?」
立っている方――簡素ながら上品な、白基調に繊細な刺繍が施された衣服の少女が、後ろを振り返って言った。
真っ直ぐに流れる銀の髪と、緩やかに広がりながら足首程までをふわりと覆うスカートが、陽光に煌めいた。
「仕方ありませんでしょう、来るなりあんなのに出くわしては……! むしろフューフィル、貴女が豪胆すぎるだけですわっ……!」
立ち上がりながら、もう片方――ラヴァリッサと呼ばれた長い黒髪の少女が言い返す。
華美でありつつも同時に堅牢そうな、絢爛豪華と質実剛健を兼ね備えたような革混じりの紅い衣服。
フューフィルと呼び掛けた白い少女のものと違い、そのスカートの裾は土で少し汚れていた。
「あら心外。私だって怖くなかったと言えば嘘になるわ。現に今だってずっとお腹が音を立てて震えているもの」
「それはただの空腹でしょう。恐怖どころか余裕の表れのような……あら?」
と、フューフィルの冗談めいた言葉に反論しかけて、ラヴァリッサが不思議そうに自身の腹部をさする。
「……変ですわね。私もなんだかお腹が空いてますわ。つい先程昼食を摂ったばかりなはずですけど」
「随分な食い意地ね。あれで足りなかったの?」
「自分を棚に上げるのが早すぎませんこと? 貴女だって空腹だと今仰ったではありませんの」
「これは胃が痙攣しているだけよ。断じてお腹が空いたわ」
「……誤魔化す気ならもう少し粘りなさいな」
ふざけあっているのか何なのか。なんとも益体無いやり取りの後、二人は揃って傍らの枯羽牛を見下ろす。
「……フューフィル、貴女確か『解命法』が使えましたわよね」
「使えるけれど、使えるだけよ。死んでも肉体が消えないようにできるだけで、解体や調理ができるわけじゃないわ」
「そうですわね……。あっ……いずれにせよもう遅かったようですわ」
察するに、そこに倒れた枯羽牛を食べることを考えたのだろうが……、彼女らも自分で気付いた通り、解命法を施したとしても死骸の消失を防げるだけ。食用にするにはそれなりの工程を経る必要がある。
あるいは刃物の類か、剣祇辺りを基とする術でも使えれば強引にぶつ切りにする程度は可能かもしれないが……そういったものを持ち合わせている様子は無さそうだった。
口惜しそうに見つめる二人の目の前で、枯羽牛の体は雪が溶けるように消えてなくなった。
その生命の残滓――手の平大の滓花だけが後に残り、陽光を反射させていた。
しばしの間黙って地に転がった滓花を見ていた二人の少女だったが、そのうち力無く顔を上げると、どちらからともなく、歪な弧を描いて地面から飛び出した太い木の根に腰掛けた。
「……料理屋を探しに行きましょう」
「……こんな森の中にある筈ありませんわ」
「……料理屋を呼びましょう」
「……こんな森の中に来る訳ありませんわ。そもそもどう呼ぶつもり……いえ、そうではなくて」
ラヴァリッサがうなだれながら隣のフューフィルへ諌めるように言う。
「私達の目的、優先事項を忘れてはなりませんわよ」
「そうは言っても、これじゃもう動けないわ。……どうしてこんなに急に腹ペコになったのかしら」
「空腹だけでなくて、全身の疲労感も凄いですわ。私達両方ともとなると、転送の影響としか思えませんけれど……」
そして、揃って肩を落とし溜め息をついた。
……えっと……何アレ。
少し離れた大木の陰から様子を見ていた俺の、率直な感想はそれだった。
先程の悲鳴は、恐らくあのラヴァリッサと呼ばれていた赤い服の女性のものだったのだろう。
はぐれ枯羽牛に出くわし、どのようにしてかフューフィルという方の少女が撃破したらしい。
そして今、空腹に耐えかねたように揃って座り込んでいる。
わかることはそれだけだ。
彼女達は一体何者なのか。
何故こんな森の奥深くにいるのか。
あのような軽装で、揃って腹を空かせている理由は何なのか。
肝心なところがことごとく謎だった。
「あの……フィーノ様……?」
背後からの声に振り返ると、怪訝そうに眉をひそめたロティ、を抱いたアステルが怪訝そうに眉をひそめてこちらを見ていた。
恐らくは今目の前で繰り広げられたやり取りを途中から、あるいは一部始終を見た結果の表情なのだろう。きっと俺も同じような顔をしているに違いない。
アステルの後ろからは、今追いついたらしいミュイユの姿。その向こうにはのんびり歩いてくるゼオが小さく見えた。
「……? なに珍妙な顔で睨み合ってんのみんな」
ミュイユが俺達の顔を覗き、怪訝そうに眉をひそめた。なんだこの奇怪なにらめっこは。
「いや……何と訊かれると……」
何をどこから説明したものか。
悲鳴の主が異変に巻き込まれているようなら助けなければ、と意気込んで飛び出して来たはいいものの、どうやら枯羽牛に遭遇した件は自力でどうにかしたようだし。
何故か異様に腹を空かせているらしい事に関しては、俺が今大量に抱えている枯羽牛肉を振る舞えば解決するのかもしれないが……あの正体も詳細も不明の二人組に、これ以上踏み入るべきなのかどうか。
いや食事一つで人を助けられるのなら助けたいところではあるのだが。
逡巡しつつ再び彼女達に目を向けたところで――、
「……ねぇラヴァリッサ、あれ『聖王』じゃないかしら」
フューフィルと目が合った。




