第30話 碧を背負う路に髪を靡かせ
「フィーノ様ぁ~!! すっごい海! と潮風! ほんのり塩とお魚風味で空気が美味しいですよっ!!」
導輿の二階席ではしゃぐアステルの声が響く。
ようやく見えてきた海の景色に興奮しているようだが、相変わらず昂る方向性が食欲に偏っている気がする。というか空気の美味しさってそういうのじゃなくないか。
「この辺、生魚の切り身をどうこうした何とかが有名なんだっけ。どんなのかイマイチ想像つかないけど」
「和海柑だね。薄切りの生魚を油や果汁で和えた料理で、新鮮なものはこのセラン・ユプセン近辺でしか食べられないから希少なんだよね。まぁ僕としては魚卵の海底酒和えの方が気になってるかな」
ぼんやりとしたミュイユの言葉に、ゼオが蘊蓄ついでに好みを語る。
車内に渡された伝声管を通じ、仲間達の他愛の無い会話が絶え間なく届いていた。
導輿は今、海沿いの街道を北へ向かって走っている。
交点の宿場町サウグルスを朝方に出発し数時間、太陽が頂点を少し過ぎた頃。
開けた平野の向こう、左手側に瑞央海が見えてきたところだった。
瑞央海は、大陸南部と北部の間に跨がる巨大な内海。古来より、大陸じゅうの多くの国々、人々がその恩恵にあずかってきた。らしい。
セラン・ユプセンは、その瑞央海に大きくせり出した地形、そして水祇を祀る界恵枝の存在により、水にまつわる恩恵――水資源、海産物、塩等々――を強く受けてきた。らしい。
その圧倒的な地勢的価値から、聖王統治以前は幾度となく戦火に巻き込まれてきた、らしいが、現在は、為聖庁の庇護の元、統聖国のみならず北部全体までを対象とした大規模な水産業や観光業を手掛けている。らしい。
全てロティの受け売りである。
相変わらず騒がしいアステルにつられて海を見遣る。
なだらかな浜の向こうに広がる、ゆったりと呼吸するような青が視線の高さで空との境界を曖昧に融かしている。
かすかに揺れ動く深空色の絨毯の中に、ぽつりぽつりと混ざる緑の粒。内海に点在する島のようだ。
この向こうにリュケオンやグライネロアがあるのだろうか。もう随分前に感じる、俺の記憶の始まり。ルゼルメイ、ヴェシュさんと会った時のことを思い出す。
導輿を少し減速させ、向かいから来る廻輿とすれ違った。車体を牽く聖畜衆と、お互い軽く会釈した。
「フィーノ様ぁ潮風でお腹空きました~! ごはんまだですか~?」
「セラン・ユプセンまでもう一時間もしないから、着いてからゆっくり食べよう。観光客向けに料理屋が並ぶ区域があるし、宿に備え付けの食堂もすごく美味しいらしい。海岸通りの露店で食べ歩きもできるってさ」
アステルの声に、事前調査しておいた情報を答える。せっかくの機会だと、張り切って調べておいたのだ。やはりローナセラでも人気なのか、セラン・ユプセンの観光案内本は書店で山程見つけることができた。買っておいたその内の一冊を取り出し、返答ついでに再度目を通す。
「『地元民が愛する隠れた名店10選』っていうのも本に載ってる。こういうのはどうなんだろうな」
「隠れてるんですかそれ?」
「せっかく隠れてたのを引っ張り出して紹介するのってどうなの」
それは出版側と店に言ってくれ。
「そういうところの方が土地に根付いた文化をしっかり味わえていいとは言うねぇ。観光地には流れてこない地酒なんてのもあるらしいし」
なるほど、酒はともかくそういった方向性も有りなのかもしれない。いや酒も気になるが。
「どうせなら両方行っちゃいましょうっ! 隠れてるのも隠れてないのも!」
「いっそアタシらで潜んでるのをもっと発掘してもいいかもね。陽の下に曝して天日干しにしよう」
「干してどうするんだよ……せっかく隠れてるのに」
気分が乗っているのか疲れているのか、ミュイユの適当な発言に嘆息しつつ導輿の速度を少し早める。ゼオから吸い上げた祈力、それを動力に送る量を増やすだけなので負担はむしろゼオに掛かるのだが、ここまで来れば変にダラダラするより早く到着できる方がいいだろう。
俺が座る、吹き曝しの導輿前部座席に当たる風がわずかに強くなる。後ろで束ねた髪が潮風に暴れた。
街道の遥か前方に、空に向かって伸びる白い塔のようなものがぼんやりと見え始めた。あの麓がセラン・ユプセンだ。
「あっ、なんだかちょっと速くなりましたっ? 風の塩気が濃くなった気がしますよっ!」
それは気のせいだろう。あるいは単に海が近づいただけか。
「なんだかんだでフィーノが一番楽しみにしてそうだもんね。わざわざ案内本とか買ってるし」
悪かったな。そうだよ。確かにちょっと憧れみたいなのは抱いてたよセラン・ユプセン。しょっちゅう名前見るんだもん店で。
「フィーノ君結構そういうとこあるよねぇ。冷静なようでいて、探究心っていうのかな? 未知のモノへの興味とか執着すごいよね割と」
それはそうかもしれなかった。失くした記憶の隙間を、あるいは何か新しい物で埋めようとしているのか。しかし自分でも意識していなかった内面を見透かされたようで少し気恥ずかしい。
「……あくまで仕事のついで、依頼が優先だからな。ここへは観光に来たんじゃないってこと忘れないように」
ごまかすように言って、本をしまい込む。
敢えて口にしなければ自分でも忘れてしまいそう、という懸念もあった。
俺は先程よりわずかにくっきりと視えだした前方の白い塔を見遣る。
《ユプス大灯台。古来よりずっとこの海と街を見守ってきた、セラン・ユプセンの象徴ね》
頭の中でぽつりとロティが呟く。
ふと、本なんて買わなくてもロティなら観光案内くらいできるんじゃないか、などと思った。




