第15話 影の気配
翌朝。
まだ抜けない宴会気分に浮かれるような調子で起床した俺を待っていたのは、宴会の余波に苛まれ浮かない様子のハストさんによる凶報だった。
「旧魔領からの追手が、こちらへ紛れ込んだかもしれない」
執務室に重く響くその報せに、楽しかった気分は即座に彼方へ消し飛んだ。
代わりに胸中を埋め尽くすのは、追手に対する不安や恐怖より、単純な疑問。
「旧魔領から……? って、リュケオンからですか? あの命湍を通って?」
《有り得ないわ》
俺の問いかけにハストさんが頷くより早く、ロティが否定の声を上げた。
《言ったでしょう、あれは生体を通さない。あなたが通れたのはあたしの権能と虚躯の性質のため。あたしが操作した時の力の残滓を利用したとすれば、ちょっとした物体は送れるかもしれないけれど……仮にも人の類であるなら、命湍を通るのは絶対に不可能よ》
自信満々にそう断言するロティ。
しかし、ならば、ハストさんの報せは一体どういうことだと言うのか。
「昨日の深夜、キーティルが妙な振動を感じたそうだ。残った酒の影響ではないのかとも思ったが、念のため調べてみたところ……命湍が動作したような痕跡が発見された」
動作の、痕跡。
「けどそれだけじゃ、追手が来たと言い切るのは難しいんじゃないですか?」
「無論、根拠はそれだけではない。あの部屋の床に残った這いずったような痕跡、そこに落ちていた、ある遺留品――まぁ、一枚の硬貨だな。それらの調査・分析による結果と、深夜から今朝方にかけての不審人物の目撃証言。その辺りを踏まえ、私は北部から何者かがこのロテュメアに侵入したと考えた。この時宜に北部からの侵入者など、聖王へ差し向けられた追手と考えておおよそ間違いはあるまいよ」
なるほど……どのようにして命湍を通ったのかという疑問点にだけ目を瞑れば、何者かが俺を追走してきたと想定するのが妥当な状況だろう。
……が、それはそれとして気になる点がひとつ。
「ところで、あの……ハストさん、その調査だの何だのって、いつやったんですか……?」
そう訊くと、ハストさんは死んだような目を伏して答えた。
「…………今朝の夜明け前からつい先程までだ」
……うわぁ……。
あれだけ飲んで潰れかけた後、未明に起こされてさっきまで仕事してたってことか……。なんかごめん、俺が追われてるばっかりに。
「……僕の話は置いておこう。重要なのは、聖王様、貴方のこれからの行動だ」
ハストさんは、一枚の大きな紙を取り出し低い机に広げながら言った。
「急かして申し訳無いが……貴方には可及的速やかにロテュメアを離れ、セラン・リウーネへと発っていただきたい」
あぁ、やっぱりそういう話か。もう少しゆっくりしたかった気持ちもあるが、止むを得まい。
「いえ、大丈夫です。……これは?」
広げられたのは地図のようだった。街道や河川の情報と共に、いくつかの大都市の表示が見える。
ハストさんはその内の、地図中央右寄りにある都市を指す。
「大陸南部、この辺り一帯の地図だ。我々の今いるロテュメアはここだな。そして……」
続けて指を地図の中央下部、南の端の方へ滑らせた。他とは違う、一際派手な文字と絵柄で記された街。
「セラン・リウーネ。昨日の繰り返しになるが、ここが貴方に向かってもらう街。統聖国の中心にあたる」
そこは、東西の大河だか内海のようなものに阻まれ、南へ突き出た半島のようになっていた。
国の中心、随分端っこにあるんだな……なんて呑気なことを考えながら地図を眺めていて、ふと気付く。
「ロテュメアとセラン・リウーネの間、なんかすごく太い河みたいなので隔てられてますけど……これを渡るんですか?」
問いかけに、ハストさんは首を横に振って別の箇所を指した。
「確かにそこを突っ切ることができればセラン・リウーネは近いのだが、その流護海は渡れない。いや、不可能ではないが危険度が高い。なので、西へ迂回する」
ハストさんが示したのは、ロテュメアの北西。ローナセラと書かれた街だった。
「安全性、街道の信頼性を考慮し、まずはこのローナセラを目指す。そこから南下してセラン・リウーネへ。少し遠回りにはなるが確実だ」
なるほど。地図上ではロテュメアから南西へ直進すればすぐのように見えるが、そういうものではないのだろう。黙ってハストさんの案に従うことにする。
「既に準備には当たっている。車両に護衛、道中の食料や衣類などはこちらで用意するが、もし他に必要なものがあれば言ってくれ。買いに行かせよう」
欲しいもの……か。それだけ色々揃えてもらえるなら正直特に俺が欲しい物なんて……あ。
「本を……」
「……本?」
首を傾げるハストさん。
「いえ、あの……暇潰し用にと言いますか……何でもいいので、携帯して読めるものが欲しいです。何冊か」
荷台の上で、何をするでもなくただ時間が過ぎるのを待っていた孤独の時間を思い出す。
あの時はルゼルメイの小説らしきものに救われたが、流石にあの掌編ひとつではちょっと、限界がある。彼女には悪いけど。
次に何かに乗る時は必ず本の類を用意しようと、そういえば心に決めていたのだ。
「ふむ……何でもいいと言ったが、何か種類に指定は無いのか?」
「そうですね……小説があると嬉しいです。他には……どういうものがあるのかわからないのでお任せします」
「わかった、伝えておこう」
そう言って机の紙片に何やら書き付けると、ハストさんは小さく溜め息をついて言った。
「……すまないな、聖王様。僕としても、もう少しくらい貴方に居て欲しかったのだが……この街の人員と設備では、恐らく貴方を守りきれない」
「い、いえ、ハストさんが気にすることはないですよ。仕方無いことです」
「そうか……そう言ってもらえるならありがたいが」
沈んだ面持ちのままハストさんは椅子から立ち上がる。
「今日中には準備は整う。出発は明日の早朝になるだろう。……今夜は送別会かな」
冗談めかして言うハストさんを追うように俺も立つと、「ひとまずは朝食にしようか」とふらついた足で扉に向かう彼について執務室を出たのだった。
《いえ、でも無理だから。通れないから。本当にいるの追手?》
まだ納得いかなげにぼやいてるロティの声は聞こえないふりをしておいた。




