筋肉
汗がむなしく流れ落ちた。
それはもう、泣くことを諦めた身体から出た想いだったのか。
バキバキとした折れるような音が、全身の筋肉から捻り出されるようだ。
くそ、負けるもんか。
こんな腕の張りや、体中の痛みなんて。
あの時の吉好くんの心の中に比べたら、どうということはないはずだ。
「逸平いったいどうしたの? いきなり筋トレなんて」
そんな、母さくらの驚いた表情が印象的だった。
確かに。
今までの僕からは絶対に考えられない姿だ。
吉好くんが中学校の屋上から飛び降りてから1週間あまりが過ぎた。
僕は自分の部屋に閉じこもり、心配する両親から運ばれてくる食事だけを無心にむさぼり続けた。
後悔。
懺悔。
何もできなかった自分を呪った。
そしてもう吉好くんに会えないということを、今更ながらに実感して真綿で首が締め上げられるようだった。
自分が直接的には何も関わっていないことは事実としてあった。
更に吉好くんの御両親から、葬式の場で礼すら言われたことが、更に自分の心に大きな棘を突き刺していた。
僕は礼を言われるようなことは何もしていない。
もしかしたら……と考えてしまう自分の気持が止まらなかった。
いじめにあっている吉好くんにもっと掛ける言葉は無かったのだろうか。
もしかしたら、自分が違うように動いていたらあるいは。
全ては過ぎ去ってしまった事だ。しかし。
「おおおおおお!!」
まずはこのダルダルにたるみ切った腹の肉からだ。
毎日のカップラーメンとポテチの日々から脱出してやる。
腹筋50回。
背筋50回。
腕立て20回。
まったく鍛えていなかった腹直筋や腹斜筋、腹横筋が途端に限界の悲鳴を上げだす。
大丈夫だ、まだまだイケる。
次に広背筋や僧帽筋、脊柱起立筋が無理な圧迫に不平を漏らし始める。
これぐらいなんだ。
こんなものはまだまだ序の口だ。
胸の大胸筋と肩の三角筋。更には腕の上腕三頭筋が、うわ言のように痛みを呟いている。
その痛みすら、どこか自分に対する負い目を少しでも和らげてくれているような気がしていた。
ある意味、自傷行為と言っても過言ではなかったのかもしれない。
自宅近くのマラソンコースに飛び出す。
全国規模で有名な、印旛沼のサイクリングコースを闇雲に走り出していた。
中学校では自称自宅警備員として、家に帰ってゲームばかりしている毎日だった。
10キロなんてすぐ走れるようになるって思っていた。
それは大きな間違いだった。
「はぁ……はぁ……うっぷ、おふ……」
2キロも走らないうちから、もう足が前に進まない。
肩が大きくうねり、汗がまさに滝のように流れ出てくる。
それでも良かった。
なにかを忘れたい。
その一心で、我を忘れるように身体を動かし続けていた。
中学校の同級生の誰もが、僕の突然の変化に驚いていた。
もちろんそれは、明らかなオーバーワークではあった。
それでも、自分の中の気持ちに収まりがつかなかったんだ。
自宅警備員として、下校のチャイムが鳴ると同時に帰っていた頃はどこに行ったのやら。もうその頃の自分は以前と目的が全く違っていた。
毎日の筋肉への重度の負荷で、俺の身体はボロボロになりつつあった。
その間違った筋肉の鍛え方を正してくれたのは、親友の圭人だった。
「もう見てられない。逸平、お前の気持は分かるが、それじゃあ吉好くんだって浮かばれないだろう! やるんだったらちゃんと基礎から直さないと」
筋肉トレーニングの動画を一緒に観ながら、あれやこれやと体の動かし方を一緒に学んでくれる親友の圭人。
幼馴染の彩音が心配して、毎日スポーツドリンクを作って届けてくれた。
どうやら毎日鍛えすぎてはいけないのだと、この時初めて圭人に教えてもらった。
「逸平君頑張って。でも体を壊したら意味ないんだからね」
彼女も僕がいきなり体を鍛え始めた理由を、圭人から聞いて知っていたそうだ。
でも何も言わないで、応援だけをしてくれた。
それがとても嬉しかった。
初めて自分が自分として、認められたような気がしていた。
そんなトレーニングをやり始めて2~3週間が過ぎた。
段々と体が動かしやすくなってきている感覚がでてきた。
以前よりも力が入りやすい。同じ運動でも楽に感じるようになってくる。
そうなると段々と回数も増えてきて、徐々に走る距離も伸ばせるようになってきていた。
1ヶ月後。
筋肉の張りが違うことに気付いた。
同じトレーニングでも、筋肉への刺激というのか、より強く感じ始める。
特にびっくりしたのは筋肉痛の感じ方だ。
痛みは痛みとしてあるのだが、はっきりと心地良さを感じるようになってきた。
始めた頃よりも体温が上がってきている。
発汗が前よりも明らかにしやすくなっていた。
自分の気持の移り変わりと筋肉の増強具合が比例していた。
それは僕へのちょっとした自信と、気持ちの切り替わりを意味していた。




