吉好くん
この短編小説は、とある作家さんの『筋肉小説企画』として書いたものです。
3話で終わる短編。
のんびりとお楽しみください。
自分に筋肉をつけようと思ったきっかけ、それは自分の為ではなかった。
一人の……かつての友達。
彼の人生の最後の決断から始まった、僕の物語。
それは、結局は自分の人生を決定づける、最初の悲しい出来事であった。
✛ ✛ ✛
「圭人。待って、待ってくれ!」
「逸平! そんなこと言ってる場合じゃない……吉好くんが!!」
自分の蚤の心臓が派手な音を立てながら、まるでトランポリンでもしているからのように、何度も跳ね上がっていた。
心がガリガリと砕かれるような音が、ずっと耳元から離れない。
僕の名前は大門逸平。
『西部警察』とか、そんな昔に流行った刑事物のドラマなんて知らないぞ。
『わたし失敗しないので!』なんて、そんな大それたこと絶対に言った覚えはない。
まだ、自分のことすらよくわからない。そんな何物でもなかったころの話だ。
僕はこの『大門』って苗字が死ぬほど嫌いだった。
どうせなら母親の小川という苗字の方が良かったよ。
しかも逸平なんて……
もちろん親の想いが一斉に詰まった名前であるのはよく分かってはいるんだ。
小学5年生の事業参観。
その時のテーマは自分の名前。
親子でそれについて発表する場があった。
「逸脱することなく、平で。そういう子に育って欲しい」
うちの父親が、そう事業参観で告げた場面は今でもはっきりと覚えている。
どうやら父である彼が、中学校時代にかなり札付きの不良だった過去を顧みての、息子への名付けであったようだが。
敢えてどこにでもあるような名前。
誰が見ても読み間違えないこと。
古くからある、それでも逆に今となっては殆ど聞かない響き。
そういったことを重視したらしい。
クスクスと周囲の同級生の笑う声だけが、自分の耳にこだましてすごく恥ずかしかった。
逸脱しないようにってなんだよ。父がずっと人生外しまくっていたくせに。
平って、もっと言い方があるだろう。
夢や、理想。
ある意味、良くも悪くも親の愛情の詰まった名前をつけてもらった同級生を見るたびに、どこか羨ましかった。
自分のことはどうでもいい。
今はそれどころじゃない!
自分と、その親友である圭人は階段を駆け上がる。
間に合うのか……
はやる気持ちだけが空回りする。
階段を踏み外し転びそうになり、危なく両手で自分を支える。
圭人の手がそんな俺に伸びる。
「逸平。ほら、落ち着け。絶対間に合うって!」
いつだって圭人は眩しかった。
なんでもできて、クラスの人気者で。
どうして僕なんかとずっと友達でいてくれるのか、全く分からなかった。
(そうだよ、間に合う、いや! 間に合わせるんだ)
僕は口の中が乾ききり、血の味が少しし始めてきた口を真一文字に引き結ぶ。
ごくりと大きく唾を飲みこみ、それがまるで走る力になるかのよう。
圭人の手を必死につかみ、立ち上がる。
中学校の屋上の扉は無情に開いていた。
それはまるで……幸せが空の彼方にあるかのような錯覚を、自分たちにもたらした。
屋上に躍り出る。
いつも昼休みに教室ではなく、この明るい、中学校で一番陽の当たるこの場所で。
僕と吉好くんは、縮こまりながら弁当を食べていた。
幼馴染みの彩音からは「逸平君、暗いよー」と笑われていた。
いいんだよ。
なんか隠れ家みたいで楽しいじゃないか。
僕と吉好くんは毎日笑いあっていた。
吉好くんはちょっと、いやかなり皆の前では影が薄かった。
でも僕は知っていた。
彼が人知れずノートの端に書いていたもの。
吉好くんの夢は、ラジオパーソナリティになることだった。
ラジオが大好きだと僕に済まなそうに話してくれた彼。
「今時ラジオが好きなんて、暗いやつだと思ったでしょ」
そう言っていた。実際僕も初めはそう思った。
でも違ったんだ。
彼のちょっとした話や、視点の違い。心を掴みだされるような、言葉の引き出しの多さ。
僕はびっくりした。
あっという間に僕たちは友達になった。
なんて……なんて。
こんなに屋上は広かったっけ。
自分と圭人の前に広がった無情な光景。
太陽に明るく照らされ、誰でも受け入れてくれるかのようなその四角い空間。
僕たちの憩いの場だった。
自分のよりも遥かに高い屋上の柵の前には、空に向かってきれいに揃えられた二つの上履き。
それは泥にまみれたように色褪せて見えた。
いや、実際のそれは泥ではない、汚らしい匂いを放つ汚物のようなものに塗れていた。
もう耐えきれない。
揃えられた靴が最後の言葉を背一杯叫んでいるかのようだった。
「吉好くん!」
「やめろ。吉好!」
僕と圭人の必死の呼び掛け。
高い、天まで伸びているんじゃないかと錯覚する屋上の柵の向こう。
彼は空に向かって立ち尽くしていた。
逃げる為じゃない。
耐えられないことから、解放されるために。
「逸平君。それに立花君……」
空虚が振り返る。
僕はその場から動けない。なにかに両足を縫い付けられたかのようだ。
「逸平君。君は、何もしてくれなかったじゃないか」
彼の唇が震えながらそう動くのが見えた。
だって……だって。
怖かったんだ。
君が毎日悩んでいるのは知っていた。でも僕が側にいることで少しでもって。
そう思っていたのに。
「ううん。ごめん。いいんだよ。いつもこんな自分の話を聞いてくれて嬉しかった。逸平君がいなかったら、もっと早くこうしたかもしれないから」
誰に向かって言っているんだろう。
どうして僕の足は動かないんだろう。
「ありがとう逸平君。自分の分まで生きて欲しい」
そう言って、吉好くんは静かに笑った。
彼が上を見た。
両手を広げた。
そのまま……僕と圭人の視界から消え失せた。
「吉好くん!!」
僕はその場に崩れ落ちた。
そう、その記憶は、自分が何者かを自覚しようと藻掻くきっかけとしては充分過ぎるくらいだった。




