エピローグ 中編
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「何を馬鹿なことをこんな時に、サファイア卿、悪いが急いでいるんで失礼する」
「剣帝キーリライトニング・ウェンリーゼ、今や伝説となった先王陛下デニッシュ様と同等といわれた歴代最強の剣士にして前ウェンリーゼ当主代行を知っているわよね」
マゼンタが煙管に《発火》で火をつけて甘ったるい煙を吐く。
「……単騎で海蛇を後退させた伝説のお人だ」
幼少の頃病弱で外に出ることもままならなかったオスマンは剣術に憧れを抱いていた。物語が好きだった。特に英雄譚が好きであった。オスマンを不憫に思った母は、本をかき集め、話し手を呼び、旅の吟遊人に金貨を握らせ病弱なオスマンの心を癒した。そのなかでも、キーリライトニングと先王陛下の学生時代の〖剣の宴〗、〖迷宮踏破〗、尾ひれは鰭ついた〖海王神シーランドとの一騎打ち〗は話し手や吟遊人の間では有名な話であった。
「あのおとぎ話を全部信じるつもりはないけど、近衛騎士団長でも子ども扱いしていた先王陛下と同等のキーリライトニングが勝てなかった厄災よ。果たして、近衛騎士団二部隊を動員したところで意味があるのかしら」
「それは……」
この世界では時に単騎で国の一つも滅ぼしうる人の皮を被った化け物が存在する。先王しかり、獣王、賢者しかりである。
「それに、今の近衛騎士団は昨年の内乱の同士討ちでガタガタよ。正直言って名前だけで部隊の副隊長以下は実力にも達していない張りぼてもいいところよ。あら、ごめんなさい。若手の育成増進でしたかしら、元帥閣下さまぁん」
「……」
「部下に死んで来いというのは、お辛いでしょう」
甘く心地よい香りがまるで誘惑するようにオスマンの鼻腔をくすぐる。
「海王神シーランドあれは、そんじょそこらの大迷宮のボスと一緒にしちゃいけないわぁん。神なる獣はその名の通り厄災よ。羊は嵐が通り過ぎるのを待つしかないわ。だから、貴方と私はこうやって今、当主の椅子に座っているのよ」
「だが、これはそういう問題ではない軍部の、王国の方針だ。こういうときの軍であり、近衛騎士団だ」
正義漢の強いオスマンは甘い水を断った。
「優しいルビーちゃん、いえ、オスマン、それは本当に貴方の本心かしらん。貴方の一言で多くの若い命が救われるのよん。あと五年、三年もすれば軍の配備も安定するわ。ここで、消費したらまた立て直しに十年はかかるわよん」
マゼンタがオスマンに近づき手を重ねる。艶のある滑らかなシルクのような感触に加えて甘美な香りがオスマンの五感を刺激する。
「だが、私は軍部の元帥で……国を守る義務がある」
「果たして、ウェンリーゼは本当にグルドニア王国なのかしら」
「何が言いたい」
「あの土地はおかしいわよ。大昔の建国前は小さな国だったらしいじゃない。そのせいか独自の文化に独自の気質があるわ。まるで、自分たちはウェンリーゼ国民だとでもいっているような」
「確かに、今や自治領に近いからな」
「そこよ。五十年前の海王神祭典であの土地は豚も住めない、作物も育たない、魔獣が野放しになった土地になったわ。それがどうよ、ここ十五年で人工魔石炉は出来るわ。常に他に類を見ない最先端の魔導具ができる工業地帯よ。それに加えて、難攻不落といわれた未踏破の迷宮が次々に攻略されて人の流れが爆発的に増えた。ああんもう、怪しいお金の匂いしかしないわ。これは、他領と比較して異常よ」
「稀有な人材に恵まれたのだろう。羨ましい限りだ」
オスマンは自分にはない才能ある人材を羨むように零した。
「そこよ。あそこは、人材に恵まれすぎているわ。ルビーちゃん、ボールマン・ウェンリーゼに会ったことはあるかしら」
「いや、貴殿も知っての通り、私はこういった表立って貴族社会に出たのは最近のことだからな」
「痺れたわん」
「はっ? 」
「ボールマンったらとってもあぶない匂いがしたのよ」
「貴殿のよくいう金の匂いか」
「違うわ、そんなキラキラしたものじゃないのよ。キラキラした色をぐちゃぐちゃに混ぜたみたな。そんな匂いよ。まるで、遥か高みに昇ったデニッシュ様や、元王太子のフィナンシェ様、新王ピーナッツ様のような危ない匂いよ。あれは、ダメだわ。とても、誰かに従ってる家畜の匂いじゃないのよ。危うく漏らしちゃいそうだったわ」
「ウェンリーゼ卿が領主代行となられてから、子爵家だったのが今や侯爵家だ。果ては、王都奪還でご活躍されたアーモンド様の婚姻が決まれば新たな公爵家誕生の噂もある」
「公爵ならまだ可愛いもんよ。下手したら国ができちゃうわよ」
「なっ……なにを馬鹿なことを」
「考えたら簡単よ。魔法大国リトナーと機械帝国ジャンクランドに挟まれたウェンリーゼが何故、昨年の王国でイザコザの時に攻められなかったと思う」
「それは、条約が効いているからだろう」
「はぁ~、貴方って本当昔からお花畑ね。喧嘩とか弱いでしょう」
「なんだと! 」
マゼンタがオスマンの口を塞ぐように、煙管の煙を吹きかける。
「げほっ、ごほっ」
近くにいて置物のようになっていたラガー少尉も甘い香りにむせそうになる。
「狩人はね臆病なくらい慎重だけど、時に大胆なのよ。巨帝ボンドと賢者フォローが気を逃すような鼠に見える。あの歩く災害が、まあウェンリーゼから王宮に内緒で秘密裏に人工魔石が流れているのは間違いないけど、それにしてもよ。ボールマンを入れて三人で何かの怪しい匂いがしそうじゃない」
「何をそんな戯言……を」
オスマンは思考した。
リトナー魔法国宰相のフォローのラザア嬢に対する態度を、また獣王がアーモンドを次代の王に推挙したことを思い出す。その記憶と肺まで達した煙管の甘い煙と、マゼンタの声がオスマンの思考を怪しい方向へ加速させた。
エピローグっていったいなんだ