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帰ってこない妻  作者: 西子
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どうして、こんなことになったのだろうと、ジェームズは頭を抱えた。

ヴェロニカとの結婚生活は順風満帆だった。

ヴェロニカは子どもができないことを気にしていたが、ジェームズにはそれでも十分に幸せだったし、最悪、跡継ぎが産まれなくても構わないと思っていた。

ヴェロニカは病弱だ。

この時代、出産で命を落とすことは珍しくない。

ジェームズにとっては、子宝に恵まれないことより、ヴェロニカを喪うことの方が耐えられなかったのだ。


だから、世継ぎ問題はさておき、少なくともジェームズには幸せな日々が続いていた。

それが翳り始めたのは、元妻が戻ってきた時だった。

役者の恋人と駆け落ちして出て行った彼女が、ある日突然、戻って来たのだ。

しかも、彼女は言った。

やり直したいと。


「無理だ。君とはやり直せない」


当然、ジェームズは拒否した。

ヴェロニカと出会う前なら、きっと元妻を許し、受け入れていただろう。

だが、ジェームズにはヴェロニカがいた。

誰よりも愛する女性が、ジェームズには既にいたのだ。


「妻を、愛しているんだ。だから、君を受け入れることはできない」

「あなたの妻はわたしだわ」

「違う。わたし達の婚姻関係は無効になった。わたしは別の女性と結婚したんだ」

「何を言っているのよ。婚姻は無効じゃないわ。わたしが帰ってきたのだから」


ジェームズはたじろいだ。

ジェームズは元々、離婚そのものを認めていない宗教を信仰している。

正確には、離婚という概念も制度も存在しない宗教だ。

だから、ジェームズは元妻が出て行ってからも、ずっと結婚した状態だった。

それをヴェロニカと添い遂げる為に、ジェームズは元妻の失踪を理由に、婚姻無効の手続きを取ったのだ。

そもそも婚姻関係の契約が不当で、最初から要件を満たしていなかったという解釈だ。

おかげで、婚姻は取り消され、ヴェロニカとの結婚が認められた。

だが、元妻が戻ってきたことで、状況は複雑になった。

今や失踪状態ではなくなっているからだ。

この場合の解釈がどうなるのか、聖職者でも法律家でもないジェームズにはわからなかった。

だから、時間稼ぎの為に、元妻にはすぐに返事をしなかった。

適当に言い包め、近場の宿屋に滞在させることにした。

その間、教会の人間や法律の専門家に相談したが、明確な返答を貰えなかった。

よく調べるからと待たされる間、ジェームズには苛立ちと戸惑いがない混ぜとなって、その肩にのしかかった。

一番、辛かったのはヴェロニカに何も言えなかったことだ。

彼女は明らかにジェームズの異変に気付いていた。

だが、今のこの曖昧な状況下で、伝えられることはなかった。

せめて、何かとっかかりがあればと思いながら、日々を過ごす他ない。

当然、苛立ちが募っていった。

が、先に我慢の限界を迎えたのは、ジェームズではなく、元妻だった。

彼女は言った。

今の状況は重婚にあたり、許されない大罪であると。

敬虔な信者であれば、早く最初の婚姻状態に戻り、神の御心に従うべきであるとまで、言い募った。

それでも、ジェームズは頷かなかった。

そもそも、最初に裏切ったのは元妻の方だ。

自身の不貞を棚に上げ、なぜジェームズを責めるのかと、逆に問い詰めると、元妻は厚顔無恥にもジェームズを脅してきた。


「やり直してくれないなら、あなたを奪った女を殺して、わたしも死ぬわ。大変な醜聞でしょうね。特に、教会からは二度とその門扉は開かれないわ。それでもいいの?」


何という身勝手な女だと、ジェームズは思った。

こんな女を一度でも愛してしまった自分に、どうしようもなく腹が立った。


「馬鹿を言うな!この恥知らずめ!」


ジェームズは、元妻の腕を掴んだ。

彼女はそれを振り払おうとして、奇しくも揉み合う形となる。

ペーパーナイフが目に入ったのは、元妻の方が先だった。

手を伸ばす彼女を制し、ジェームズがペーパーナイフを掴む。

が、元妻もそれをよしとはしない。

ペーパーナイフを奪おうと暴れ、そしてーー。

それは起こってしまった。

元妻の胸にナイフが刺さったのだ。

彼女は急に大人しくなり、床に倒れ込んでしまった。

急いで呼びかけたが、もちろん応えはない。

刺しどころが悪く、元妻はほぼ即死だったのだ。

ジェームズは戦慄した。


ーー彼女を刺してしまった……。わたしが、殺してしまった……!


真っ先に頭に浮かんだのは、ヴェロニカの笑顔だった。

それが黒く塗り潰されていく。

彼女との輝かしい未来が遠のいていくのを、ひしひしと感じた。


ーー何とかしなければ……。


その時のジェームズは正常ではなかった。

正常であれば、屋敷の庭に元妻の遺体を埋めたりしなかったし、殺してしまった段階で、正直に警察に出頭していた筈だ。

でも、ジェームズはそうしなかった。

怖かった。ヴェロニカを失うことが。

この幸せな結婚生活を手放すことが。


だが、結局、この結婚は破綻してしまった。

全てジェームズの責任だった。

元妻を殺めてからというもの、ジェームズはヴェロニカを遠ざけた。

この屋敷から離し、自身からも距離を取らせた。

ヴェロニカの真っ直ぐな瞳を、どうしても見つめ返すことができなかったのだ。

傍にいれば彼女を汚してしまいそうで、彼女にジェームズの罪を知られそうで。

とにかく怖かった。


その後、ヴェロニカは病を発症し、療養の為、隣国へと渡った。

奇しくも、ジェームズ達が駆け落ちした隣国へと。

ヴェロニカの病のことは心配だったし、傍に付いていてあげたかったが、殺人者であるジェームズは、もうヴェロニカの目をまともに見ることは出来なくなっていた。

それでも心配で、使用人をつけて見守らせてはいたが、遠く離れた隣国で一人寂しく暮らすヴェロニカのことを思うと、心が引き裂かれそうだった。

そういう意味では、サイラスの存在はありがたかった。

少なくとも、ジェームズの代わりにヴェロニカの傍に居てくれる。

彼女は一人ではない。

それが唯一の救いだった。


暫くして、ヴェロニカは逝った。

すぐに、見守らせていた使用人に遺体を引き取らせ、本国まで連れ帰らせた。

ヴェロニカとの久しぶりの対面は、彼女の亡き顔と共に、こうして叶った。

数ヶ月に及ぶ搬送で、腐敗が進行しつつあったが、ヴェロニカはまるで安らかに眠っているかのようにジェームズの目には見えた。

その頬に触れ、話しかけるも、当然応えはなかった。

もう二度と、彼女の笑顔には会えないのだと痛感して、ジェームズは泣いた。

恥も外聞もなく、縋りついて泣いた。

虚しかったし、悲しかった。

ヴェロニカの後を追って死のうとさえ思った。

でも、出来なかった。

結局、命を絶ったところで、ジェームズはヴェロニカには会えない。

人を殺めた罪人であるジェームズには、天に召されたヴェロニカと会うことは許されないのだ。

その後は惰性で生きた。仕事に没頭して、虚しさを紛らわせたかった。

難病対策の法律成立に尽力したのは、きっと罪滅ぼしの気持ちからだった。

それもある程度、目処が立った矢先。

医者から余命宣告を受けた。


ーーこれは罰だ。人を殺め、隠匿し、謀ったことへの罰だ。ヴェロニカを大切にできなかったわたしへの、神からの戒めだ。


それを受け入れるのは簡単だった。

元々、死に急ぐ身。裁かれるのであれば、むしろ救いだった。

そして、ようやくジェームズは決心がついた。

ヴェロニカの遺品を整理し始めたのだ。

ずっと触れることができなかった彼女の持ち物を、一つ一つ確認していく。

ヴェロニカとの思い出が甦っては、虚しさが波のように襲ってきた。

もう二度とヴェロニカには会えないのだということを再認識するだけの、何とも無益な作業だった。

とはいえ、ヴェロニカの遺品を他人に触れさせたくなかったジェームズは、手を止めなかった。

そして……。

見つけてしまった。

後日、送られてきたヴェロニカのペンダントの中に入っているドクウツギの実を。

最初はこれが何なのかわからなかったが、調べて毒だと知った時、嫌な予感が走った。

ヴェロニカの療養先では入手できないドクウツギを、なぜ彼女が持っているのか。


ーーもしかして、自殺する為に?いや、むしろ……。


誰かがヴェロニカを自殺に見せかけて殺そうとしたのではないか。

そう考えたが、誰がやったのか、またその動機は何なのか、ジェームズには見当が付かなかった。

そんな矢先、ジェームズに接触してきた人物がいた。

サイラスの知人と名乗る金髪の青年だった。

彼は言った。ヴェロニカを殺したい程、憎んでいる人物がいると。

ジェームズの中で復讐の炎が宿った瞬間だった。

それは、執念だった。そして、ヴェロニカへの執着だった。

彼女の為にできる最後のこと。

それが復讐だと思ったのだ。


それから間もなくして、ジェームズにその時がやって来た。復讐の瞬間だ。

調べた限り、あのドクウツギを持ち込めるのは、リリーかエイミーのどちらかしかいない。

動機もある。

特に、リリーはペンダントを送りつけてきた張本人だった。

エイミーを貶める為か、あるいは別の意図があるのか定かではなかったが、ジェームズは銃を突きつけて白状させようとした。

その答えがどうあれ、殺そうと思った。

でも、結局できなかった。

銃口は逸れたのではない。逸らしたのだ。

突然、現れた犬に邪魔された形となったが、どこかで安堵する自分がいたのも確かだった。

リリーの足元に命中した銃弾は、しかし、氷にヒビを入れ、彼女は落下してしまった。

ジェームズはその場を後にした。

リリーを助けることはしなかった。

彼女を見捨てて逃げたのだ。

いつだって、ジェームズは逃げてきた。

目を逸らして生きてきた。

元妻の裏切り、そしてヴェロニカの死と向き合うことなく避け続けてきた結果がこれだ。

憎むべき相手にとどめを指すことさえできない弱さ。

ジェームズはやはり自分は情けない人間だと思った。

そんなことはないと言ってくれるヴェロニカは、もういなかった。


死のうと思った。

ヴェロニカが亡くなった時、本来ならすぐに後を追うべきだったのだ。

それを逃げて、引き伸ばしてしまった。

みっともなく生き続けてしまった。


自殺する場所は隣国と決めていた。

ヴェロニカと駆け落ち結婚した国。

そこは思い出の土地だった。


ジェームズはヴェロニカの療養先である屋敷を訪れた。

幸か不幸か、屋敷には誰もいない。

ジェームズはヴェロニカが横になっていた寝台に腰を下ろした。

そうしていると、彼女を感じることができるのではないかと思ったが、現実は残酷だ。

妻はもう帰ってこない、それをただ思い知らされただけだった。


ジェームズは銃を握り直した。

自身の口内に銃口を入れーー。




そして、静かに引き金を引いた。

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