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シドニー公爵ジェームズ・サイスニードは仏頂面のまま劇場の前に立っていた。
手には、忌々しげに劇のパンフレットを握っている。
もちろん、忌々しいのは劇やパンフレットではない。
この主演男優だ。
彼は舞台俳優らしく、大変見目麗しい、ジェームズとは対照的な美男子だった。
ーーだから、彼女は彼を選んだのだろうな。
ジェームズには妻がいた。
親が決めた婚約者だったが、ジェームズは彼女を愛していた。
対して、妻の方はジェームズを全く愛してはいなかった。
その挙句、愛人と駆け落ちしてしまったのだ。
未だに、妻が出て行った時のことばが、頭から離れない。
妻は言った。
「あなたなんて、親が勝手に決めた相手で、ちっとも好きじゃなかった」と。
ショックだった。
でも、愛していたから引き止めなかった。
そのまま、好きなように行かせた。
本当はただこれ以上、彼女に嫌われたくなかっただけだということは、胸に隠したまま。
好きな人と幸せになれるなら、その方がいい。
そう自分に言い聞かせた。
だが、人間の心は決して思い通りにはならないもので、こうして妻の駆け落ち相手が主演を務める劇を観にこようと思う程度には、ジェームズにも未練があった。
もしかしたら、彼女もここに来ているかもしれないと思ったのだ。
でも、確かめる勇気はなかった。
会いたいと思う以上に、会いたくないと思ってしまう自分がいた。
もう一度、拒否されることを恐れたのは明白だった。
ジェームズは馬車の中へと戻った。
しばらく考え、結局家に帰ることに決めたのは、それから暫く経ってからだ。
辛抱強く待ってくれた御者に帰る旨を伝える。
そして、馬車が動き始めた、丁度その時。
「危ないっ!」
馬車が急停止した。
何事かと窓から確認すると、少女が尻餅をついているではないか。
ーーなぜ、こんなところに?一人なのか?
周囲を確認するも、誰も少女に駆け寄ってこないので、付き添いはいないのだろうと察した。
ジェームズはため息をついた。
杖でコンコンと壁を叩く。
急いでやって来た御者に、家まで送る旨の打診を少女にするよう伝えた。
少女はジェームズの提案に乗ったようだった。
「お、お邪魔します」
最初こそ恐る恐るといった風の少女だったが、元々人見知りしない性格なのか、ジェームズに興味を持ったかのように矢継ぎ早に話しかけてきた。
ジェームズは当然、無視した。
面倒だったからではなく、この年頃の少女の扱い方がわからなかったのだ。
「王国の悲劇のパンフレットだわ!」
だから、少女が嬉々として言った時、ジェームズは思わず睨んでしまった。
「くだらない」と一蹴した。
今は、あの役者を称賛することばを聞きたくなかった。
だが、予想に反し、少女は大根役者だと酷評した。
それこそ、舌打ちしそうな勢いだった。
「いくら見た目が良くても、あの演技じゃ、まだ猿の方がマシなくらいだわ」
あまりにはっきり言うので、ジェームズは思わず笑ってしまった。
ジェームズ自身、同じ評価を下していたが、さすがに、ことばにはしなかった。
ジェームズが言うと、ただ妬んでいるようにしか聞こえないからだ。
だが、少女なら話は別だ。
少女には因果関係がない。これは率直な意見なのだ。
ジェームズは、何とも胸がすく思いだった。
その後、車内では、ただ少女が一方的に喋っていた。
ジェームズは相槌こそ打たなかったが、黙って話を聞いた。
何となく、少女のおしゃべりは苦にならなかったのだ。
だから、だろう。
送り届けた時、少女に名前を聞かれたジェームズは、すんなりと名乗った。
「素敵な名前!昔の王様と一緒だわ!」
返ってきたその反応に、ジェームズは微苦笑を浮かべた。
ささくれだった気持ちが、少し和らぐのを感じた。
少女の無邪気さに、心が救われた。
これがジェームズにとって、ヴェロニカとの初めての出会いだった。