秀次の謀叛
高野山で、豊臣秀次が切腹をしたのは、文禄4年の7月のことだった。これは、事実のこととされている。しかし、その経緯に至っては、ほとんど、謎とされたままである。というほかないようである。
秀次は、孫七郎という名で、秀吉の姉の子として生まれた。本来、何もなければ、尾張辺りの村で生涯を終えたであろうその子は、父親が、武士である彼の叔父の下で、働いていたという理由から、彼もまた、その叔父の下で、幼い頃から武士として、働くという運命の上に置かれたのだった。
彼の父や叔父は、生まれたときは百姓であったが、秀次は、生まれたときから、既に、武士として、生きる運命にあったと言える。だから、彼は、鍬を手にした時間よりも、槍を手にしている時間の方が、圧倒的に多かった。
「今から、おぬしは、三好と名乗れ。」
そんな秀次も、阿波の名家、三好家の名跡を継いだり、叔父の主である信長の弔い合戦に参加したりと、着実に、武士としての経歴を積んでいった。
木下家の一員として、叔父、秀吉の配下の中でも、彼の立ち位置が、固まり始めていた頃、彼は、生涯で唯一の、負け戦を経験し、命からがら逃げ帰って来たことがあった。
「よう、おぬしは、家来を死なせた上に、のこのこと、逃げ帰りおったなあ。」
小牧長久手の敗戦の原因は、秀次にあった訳ではない。どちらかといえば、彼の友軍である先輩方の作戦にあり、それを容認した秀吉にも、責任はある。それは、ただ、その作戦の立案過程を横目で見ていて、叔父の一言で総大将を任されただけである秀次には、客観的であった分、よく分かっていた。
「近頃、おぬしは、羽柴筑前の甥であることを鼻に掛けて、傲慢な振る舞いが過ぎる。」
この負け戦は、秀次に、お灸を据える、良い機会だと秀吉は、思った。
「今のまま、無分別であれば、俺はおぬしを斬ることになるぞ。」
叔父は、若い頃は、よほど苦労したらしい。そして、やっとのことで、今の地位に登り着いた。その甘い汁のご褒美に、ただで、甥に預からせてやるのは、秀吉は、少しばかり、悔しかったのだろう。戦の後、叔父は、訓戒状を書いて、秀次に渡した。
「(叔父上の言い分は、分かる。)」
武士として、然るべき態度と物言いを、最低限、身に付けろということである。訓戒の後も、秀吉は、変わらず、秀次親子を重用した。彼らは、城と土地を与えられて、そこの大名として、国を治めた。
「人々の旗頭として、立つことは、気負い過ぎるべきものでもない。」
秀次の周りには、実務や経営に長けた有能な家来衆がたくさんいた。
「彼らをよく見ることこそが、肝要である。」
秀次は老臣らから、領国経営の話をよく聞き、学んだ。領主たるべくして、文道を好み、その促進もした。彼のやり方は、前代の、地子を取り上げ、民を使役するだけのやり方に比べれば、幾分も近代的であっただろう。それは、これからの世を担う若者の未来を感じさせるものだった。
叔父は、もともと、武士としての才覚があったのだろうか。小牧長久手の負け戦をものともせず、彼は、近隣の大名を、うまくたらし込んでいた。秀次が、気付いたときには、日本中の大名たちは、皆、秀吉という男の前に、一堂にたらし込まれていた。そして、ひとつの政権が組み立てられたのだった。
その間も、秀次は、各地の戦場に働いた。彼は、元来、真面目な性格であった。羽柴一門の者として、叔父に恥ずかしくない武士であろうとした。
権謀術数が渦巻く戦国乱世にあっては、人々の拠り所とするものは、ときに、表裏比興でないことだったり、駆け引き抜きの算段だったりする。それらは、必ずしも誠実であったり、信義に厚かったりということではないが、鎌倉以来、武士の伝統としてあったのは、命を懸けるということだろう。戦場での振る舞いであっても、主君への忠義立てであっても、御家を守ることであっても、その代償として、行使者の生命が賭せられたものは、それなりに美化され、重んじられた。というのも、当時のような世情では、それらが、ある種の抑止効果を持っていたのだろう。それらとは逆に他者の生命を軽んじた裏切り行為などは、それが巷に横行している分だけ、忌避の対象であった。大道廃れて仁義あり、六親和せずして、孝慈ありだったのかもしれない。為政者である秀次も、また、そのことはよく周知していた。
さて、念願の秀吉の子、鶴松が亡くなると、秀吉も、覚悟を決めた。自分の子に、後を継がせることを諦めて、親戚の若者に後継を担わせるべく、権力の移譲を進めて行った。秀次は、叔父から関白の位を譲られて、その地位に就くことになった。このとき、彼は、既に、100万石の大大名であり、関白の地位に昇ることは、家格から言っても、何分、おかしなことでもなかった。もはや、彼は、次代を担う若き大名の一人であった。
「その方、我が下へ、参らぬか。」
若い秀次は、女人に対しても、よく食指が動く者であった。秀吉もそうではあったが、それは、彼が叔父を真似してのことなのだろうか。そもそも、彼ら、木下家は、鎌倉以来代々続く武士の家系ということはない。他の由緒ある武家と違い、一、二代遡れば、もう、彼らの家は、有象無象の一員と化して、歴史の空白に消えてしまう。それ故に、どんなに武士然としても、やはり、今、そこにあるのは、羽柴某というより、秀吉自身であり、秀次自身なのだろう。それらが、権力者という形を成していればこそ、個人的な好みの女子を際限なく、近くに置かせる事態になるのは免れなかった。
「太閤様に御子ができた。」
先年に続き、叔父に子ができたという。
「拾丸は、上様の御子ではありますまい。」
朝鮮への出兵で、世情がすさみつつあった国内では、そのような噂が広まっていた。殊に、秀吉不在の大坂では、表立って口にすることはないが、各大名の城中の奥の間では、入り浸る人々が、常にその噂を口にして、広めていた。
秀次のいる京の聚楽第にも、そのような噂をする口さがない者たちが、しばしば訪れていた。
「孫七郎は、いずれ御拾の後見となるだろうぞ。我らは一門衆も少ない故、皆が合力して盛り立てていくべきよ。」
吉野で花見をしたとき、叔父はそう言った。実際、拾は、生まれて間もないにも関わらず、将来は秀次の娘と夫婦になることが、叔父の意向で、明言されていた。
「叔父上の仰る通りにございます。」
秀次は素直であった。先年、秀吉の弟が亡くなった。遺領は、養子であった秀次の弟が継いだ。そんなこともあり、豊臣家の家族が増えたことは、秀次にとってもうれしいことである。しかし、そんな豊臣家の温和な内情に反して、世間は、彼らを邪な目で見て、邪推をすることに余念がなかった。
関白。という地位にある秀次は、格好の良い素材だったのだろう。赤子というものを差し置いて、大人たちは、何故、そのようなことをするのか分からずとも、それが、彼ら蛇蝎の習性の如く、悪く黒い噂を流布している。彼らは、また、人の面を被った鬼であったのかも知れない。
「拾丸は、太閤様の実の御子ではなかろうに、そのような胡乱な者の後見を託された関白殿下の御不満は如何ほどか知れぬ。今は、関白の世、後は、御拾の世。太閤様亡き後は、骨肉の争いの種になることだろう。」
関白秀次は、御拾が、秀吉の実子でないと思っている。そして、行末は、その御拾が世継ぎとなることに対して不満を抱いている。関白は、自分の地位が、御拾が成人するまでの仮の物でしかないことに憤っている。そして、自分ではなく、御拾に世を継がせようとしている太閤に不満を抱いている。太閤も、関白は、自分の子に世を継がせる上で、目の上のたん瘤でしかないと思っている。
それらの噂は、あるいは、豊臣家に恨みを持つ者が、意図的に流布したものだったのかもしれない。しかし、恐ろしいのは、豊臣の世に、何の遺恨もない善良な世間の民、百姓たちも、まことしやかにそのことを耳にしていたことであった。
「太閤様亡き後は、早々に、隠居し、代わりに、子息の仙千代様を関白にお据え遊ばされれば如何。」
そうすれば、世間は、秀吉の世ではなく、秀次の世であると、皆は思うだろうという。
「拾丸殿より、仙千代様に御味方なさる武家の方が多くありましょうぞ。」
そのような古の保元、平治の乱の例えを引き合いに出して、行く先々で、高説を垂れる僧侶や医者も、秀次や傍仕えの大名たちの元に出入りしていた。実際に、秀次が、そのような入れ知恵を耳に入れられることもなかったが、彼らの周囲には、それらの黒い噂が、日々、漂っていた。
「何故、そのようなことを言う。」
御拾が、秀吉の子ではないという噂が、世間で語られているということを、秀吉の御伽衆の一人が口にしたとき、朝鮮出兵も、明国との講和も不調に終わっていた秀吉は、その御伽衆を糾弾した。
「恐れながら、関白殿下のおられる聚楽第が噂の巣になっております。」
「聚楽第が噂の出所であると申すのか。」
「恐れながら。」
秀吉は、真相の究明を命じた。
「叔父上が、某を疑っておられるのか…。」
聚楽第の主である秀次も、噂の渦中にいた。先だって、秀吉の弟の遺領を継いでいた秀次の弟が病死し、代わりに、秀次の子が、大和一国の国主になることが決まっていた。糾明使である石田三成や増田長盛らは、度々、秀次の聚楽第を訪れた。殊に、三成の諮問は、苛烈だった。彼は、現場の実情よりも、理路を糺すことに重きを置いていた。
「殿下は、何故、彼らを粛清なされませず、ここまで放っておかれましたか。」
「我の一存で処することではありますまい。」
「それならば、世間は、殿下に二心ありと受け取られても、おかしくはありますまい。かような風評は、殿下自らが、御手を下されて、意見を表しませねば、太閤様の御耳に入ってからでは、遅いのでございまする。」
「しかと承知仕った。」
「それでは、間に合わないのでござる。」
三成は、親切であった。間違いは正し、非を改めようと。しかし、その正義は、秀次にとっては、重かった。三成の正義は、秀次にとっては、自らの行いが悪行であったことを確認し、自分を責めるのに都合が良かった。
「俺は、もう疲れた。」
しばらく、来客を止めていた秀次は、突然思い立ち、堰を切ったかのように、短刀で髻を切ると、一人、高野山へ向かった。
「(俺は、善人ではなかったのか…?)」
後から来た家来衆と伴に、奈良へ向かう道を馬の背に揺られながら、秀次は思った。豊臣家の中で、曲がり形にも、良き一員であろうとしてきた。それが、何故か、見知らぬ他人や世間の性ない悪評によって、家族から離れて、一人、高野山へ向かっている自分がいる。
「(武家という物はかくの如き物なのか…。)」
豊臣家一門の中では、ほとんどいなかったが、周りの武士たちは、追い詰められると、よく切腹をしていた。
「(そのような事、某にできるのだろうか…。)」
切腹の話を聞く度に、秀次は、そう思っていた。
秀次が、高野山に着いてからも、糾明使による糾弾は続いていた。秀次の出奔に、叔父も、驚いたようであったが、すぐさま遣いを遣わしてきて、甥の身の回りのことや胡乱な見舞客が来ないように決め付けて、警固の侍を置いた。
「刀、脇差の類は、持ち込まれませぬよう。」
高野山は禁足地であるが、これには、秀次が早まった真似をしないようにとの秀吉の優しさの意味合いがあったのだろうか。それとも、秀次の武力行使を恐れたのだろうか。秀吉は、秀次自身には、罪はなく、周囲の者たちが、必要以上に、甥に、政治的思惑を向けていたに過ぎないと思っていた。それ故、外界との隔絶も、これ以上、甥が、政治的策謀の餌食にならないようにとの配慮だったのかもしれなかった。しかし、それら、叔父の思惑のどれもが、あの噂たちと、同様に、善にも悪にも、正にも邪にも、捉えることができるものだった。
「(今のまま、無分別であれば、俺はおぬしを斬ることになるぞ。)」
「(叔父上の思惑はそれか…。)」
外界と隔絶された世界で、秀次は、かつて、小牧長久手の敗戦の後、叔父から受けた訓戒を思い出していた。
「(分別か…。)」
その内、身の回りの世話をしている使用人から、秀次の家老衆の熊谷や粟野と言った者たちが、秀吉から切腹を命じられたという話を聞いた。
「(分別…。武士…。切腹…。…。…。)」
文禄4年7月15日。秀吉の甥、豊臣秀次は、高野山で、隠し持っていた短刀を用いて、切腹した。
「月花を、心のままに見尽くして、何か浮世に思い残さむ。」
豊臣秀次、辞世の句のひとつである。彼は、最後まで、叔父である秀吉の意に沿おうと努力していた。それは、独善的な結果になってしまったかもしれないが、最期に、彼の分別として、切腹を選んだ。
「高野山にて、関白殿下、御切腹。」
現役の関白が切腹するという由々しき事態に驚天動地したのは、秀吉であった。叔父である彼は、秀次の心意に気付いていたのだろうか。それとも、ただの謀叛人として、認識していたのだろうか。どちらにしても、秀次が切腹した後、秀吉は、大名近臣たちに、御拾への忠誠をしたためた誓紙に血判を押させて提出させると伴に、残りの関白秀次謀叛の噂に関連した者たち数十人を処罰するに至ったのである。その中には、秀次の弟の遺領である大和一国を受け継ぐことを、秀吉から約束された秀次の子息も含まれていた。