6:皇后の思惑
「シエナ様は何をお考えなのですか」
愛人の部屋を出てすぐ、自室に戻る途中のシエナを物陰へと引き摺り込んだマーシャ・ランドルフは、彼女を壁際に追い詰めた。いわゆる壁ドンというやつである。
艶のある短い赤茶色の髪に、鋭さのある切長な目元。シエナに負けず劣らずの整った造形をした彼女に迫られれば、誰もが頬を紅潮させることだろう。さすがは麗しの女騎士だ。抱かれたい騎士ランキングがあれば殿堂入りしていることだろう。
「……私も愛人作ろうかしら」
シエナはそこらへんの男よりも男らしいマーシャの手を取り、指を絡めてにこっと笑った。
「マーシャ、私の愛人になる?」
「遠慮します!」
そういう趣味はないと、マーシャは掴まれた手を振り払った。
「シエナ様!話を逸らさないでください!」
「逸らせているつもりはないけれど?」
「逸らしているでしょうが!シエナ様はアレを良しとするのですか?」
とぼけたように首を傾げるシエナに、マーシャは小さくため息をこぼした。
マーシャの言う『アレ』とは勿論、あの愛人のことである。マーシャは愛人の存在をあっさり受け入れたシエナに怒っている……、というより、呆れているのだ。
「でもね、マーシャ。しょうがないじゃない?陛下が愛人だと言って連れてきたのなら、それはもう愛人なのだから受け入れるしかないでしょう?」
「何を捻くれたことを言ってるんですか……。流石にお怒りになるかと思っていましたのに」
そもそも、夫が愛人を連れてきても、妻にそれを受け入れてやる義理などない。
そして今回、アーノルドが連れてきたのはアレだ。普通なら怒るか、もしくは呆れてものも言えないという感じになるはず。それなのに何故シエナは万全の受け入れ態勢を整えたのか。その意図が理解できないマーシャは、ズキズキと痛む額を押さえた。
「良いのですか?このままではシエナ様は『愛人を作られた無様な女』に成り下がるのですよ?」
「心配性ね。私の積み上げてきた名声はそんなに簡単には落ちないわよ」
宮中においてはシエナの方が味方は多い。社交界での振る舞いだけ気をつけておけば、むしろ針の筵に座らされるのは彼女を裏切ったアーノルドの方だ。気にすることはないとシエナは言う。
「しかし、元老院が何を言い出すか……」
「だからこそよ。せっかく陛下が使いやすそうな駒を用意してくださったのだから、利用しない手はないわ」
「まさか、これを好機としてアレをそのまま利用するつもりなのですか?」
「ええ。化粧さえどうにかすれば、餌としてはこの上ないほどに魅力的だもの」
突然現れたなんの後ろ盾もない、皇帝の寵愛だけが頼りの平民の女。それなりに見目が良く、そして、傲慢さがなくおどおどとした弱々しい雰囲気。
「あの生粋の下僕体質も含めて、操りやすそうに見えるでしょう?まさに理想の餌だわ」
「下僕体質って……」
間違いではないが語弊がある言い方だ。そう、間違いではないが……。
「それに彼女だからこそ、安全に餌として使えるのよ?他の女性なら怖くて餌になんてできないわ」
「それはそうかもしれませんが……」
シエナは、何を言っても自分のすることに異を唱えるマーシャの頬を両手で掴むと、彼女の瞳をじっと覗き込む。そして薄く笑みを浮かべた。その妖艶な笑みは、これ以上の異議は許さないと言いたい時の笑みだ。久しぶりにこの表情を見たマーシャは思わず息を呑んだ。
「結婚して七年。私にはまだ子どもがいないわ」
「……そう、ですね」
「陛下は今、私と離縁するか、私と外見的特徴の似た愛人を持つかの選択を迫られている。そんな中、突然現れた謎の愛人。
富や権力を欲しがる者は必ずや愛人のアメリに媚びに来るわ」
どこにも属していない愛人。これから先、そんな彼女に取り入り、彼女を傀儡としたがる貴族達が現れる事だろう。また逆に、自分の娘を皇帝の愛人にと推していた貴族達にとってはアメリは邪魔者となる。そういう者たちはこぞってシエナにすり寄ってくるはずだ。
水面下で蠢いていた思惑が表面化し、政局が動く。
「色々と黒い噂のある教会の枢機卿団の一人、ジェームズ・ハワード。保守派ばかりで構成される元老院の重鎮で、我こそが皇帝に相応しいと裏で豪語しているらしい先帝の弟君、トマス・ステュアート公爵。あとは、昔から謎に陛下に敵意剥き出しの帝国軍参謀本部准将、イーサン・ベレスフォード侯爵。怪しいのはこの辺りかしら?」
軽い口調でシエナが挙げた名前は最近怪しい動きのある三名。そして不自然な資金の流れや含みのある言葉の数々を見て、特に怪しいのは初めの二人だが、まだ尻尾が掴めていない。
故に、不穏分子を早急に排除したいシエナは、この機会を逃すつもりはないらしい。
「今が動く時だわ。利用できるものは利用しないと。陛下はこういうこと苦手だし、私がやらないとね?」
「……具体的に何をなさるつもりなのですか?」
「とりあえず、陛下があの愛人を溺愛していると噂を流します。私の立場はあくまでも中立。愛人の存在を受け入れて環境を整えたが、今後は過度に干渉しないという設定でいこうかと」
「それで?」
「あとは獲物がかかるまでじっと待つ。釣りよ、釣り」
「わかりました。私の主はシエナ様です。貴方様がそうするとおっしゃるのであれば、これ以上は何も言いません」
「うむ。よろしい」
「しかし、シエナ様。最後に一つだけよろしいでしょうか?」
「何?」
「そのお考え、流石に陛下にお伝えしておくべきかと……」
「無理よ。だって、『愛人を餌として使いたい』なんて、陛下が許すはずないでしょ?」
「いやぁ、普通に許すと思いますけど」
何故ならアレはただの下僕体質な副官だから。
シエナだってそのことに気づいているはずなのに、らしくない。頑なにわからないふりをするのは、アーノルドの下手な策が気に触ったからだろうか。
マーシャは自分の頬に触れているシエナの手を握ると、彼女の目を覗き込み、その手をぎゅっと握った。
「シエナ様?」
「……だって、先に馬鹿な事をしてきたのはあちらの方なのだから、ちょっとくらい痛い目を見てもいいじゃない。せいぜいヤキモキしているといいわ」
「そちらが本音ですか。でもせめて副官殿には話しておいた方が……」
「そっちは貴女から伝えておいて。私はこの馬鹿な企みを止められなかったあいつにも怒っているのだから」
実は何だかんだで夫の行動に怒っていたシエナは視線を足元に落とし、口を尖らせた。普段凛としている彼女にしては少々子どもっぽい表情だ。珍しい。
(……陛下は今頃、どうしたものかと頭を抱えているんだろうな)
先ほどのあの部屋で素直に白状していたら、良かったものを。本当に馬鹿な男たちだ。そんなことを思いながら、仕方がないとマーシャは肩をすくめた。
「わかりました。副官殿には私から話しておきます。しかし、愛人の護衛と侍女はどうするのですか?付けないわけにはいかないでしょう?」
宮殿で生活するとなると、護衛も侍女も必要だ。だが、城勤めの女性は皇后シエナを尊敬している。誰も平民の愛人のそばに仕えたいなどとは思わない。事情を説明すれば別だろうが、この話はそう簡単に話せる内容でもない。
すると、シエナは顎に人差し指をあて、じーっと強請るような視線をマーシャに送った。マーシャは絆されてなるものかと、素早く彼女から目を逸らせたが、依然として熱い眼差しがチクチクと突き刺さる。
「どこかに私の思惑も把握した上で引き受けてくれそうな人、いないかしら?」
「探したらそこらへんに沢山いると思いますよ?」
「そうかしら。私には一人しか思い当たらないわ」
「……」
「……ねえ、マーシャ」
「……」
「私は皆まで言わなければいけないかしら?」
「……言わなくても、大丈夫です。承知しました」
シエナから発せられる圧に根負けしたマーシャは、めんどくさそうに両手を上げて降参のポーズを取った。
「ありがとう、マーシャ。大好きよ」
シエナはマーシャに抱きつくと、上目遣いでウィンクをする。その仕草が可愛らしいことこの上なく、マーシャは気がつくと抱きしめ返していた。
(シエナ様はどこまで知っているのか。ああ、恐ろしい)
最近、皇帝の副官とさりげなく距離を置いていたことに気付いているが故の采配だとするならば、本当に侮れない。
その後、マーシャはシエナを部屋まで送り届けると別の近衛騎士に護衛を引き継ぎ、アメリという名のロイの元へと向かった。