16:夫婦円満の秘訣
一瞬呆けていたアーノルドだったが、彼はすぐにシエナを追いかけた。
今ここでちゃんと話ができなければ多分、このまま関係性の修復が不可能になるような、そんな気がしたのだ。彼女をあそこまで追い込んでしまったのは自分だという自覚がようやく芽生えたのかも知れない。
光刺す暖かな陽気に包まれた廊下を追いかけっこする皇后と皇帝。こうしていると昔、廊下を走るなと堅物の侍女長に怒られたことを思い出す。
しかし、幼い頃から男の幼馴染二人について行けていたシエナの足は、アーノルドの予想を遥かに超えて速かった。長らく走ることなどなかったはずなのに、彼女の俊足は衰えていない。
「お、思ってたより俊足……」
息を切らせたアーノルドは、あっという間にシエナを見失った。
彼女を見失った残念なアーノルドは、仕方なく執務室へと戻った。またしても『愛人は嘘だから!』と告白するタイミングを逃した彼は、もうどうすれば良いのかわからない。アーノルドは落ちる太陽を眺めながら、大きなため息をこぼした。
そんな彼をそばで見ていたロイの代わりの臨時補佐官は、ただただ困惑するしかなかった。
視察から帰ってすぐに愛しの皇后の元へ行ったのに、何故か息を切らせ、顔面蒼白の状態で帰ってきたアーノルドに対しどう対応すべきかわからないのだ。
あの優秀な副官ロイ・フェローズなら、この状態の彼に何と声をかけたのだろう。休養するならせめて、皇帝の取扱説明書を書いておいて欲しかった。
「君は確か結婚していたね?」
「は、はい!」
突然話を振られた臨時補佐官は思わず声が裏返る。
「何年だ?」
「何年?」
「結婚して、何年だ?」
「ちょうど八年目ですね」
「そうか」
「はい」
「……」
「……あの、それが何か?」
「……君のところは夫婦円満かい?」
窓辺で遠い目をして佇むアーノルドは、憂いを帯びた表情を浮かべながら彼に尋ねた。臨時補佐官の彼は戸惑いながらも『人並みには』と応える。
するとアーノルドは、フッと自嘲じみた笑みを浮かべた。
「そうか。それは良いことだ」
「はぁ……。ありがとうございます?」
「よければ夫婦円満の秘訣を教えてくれないか?」
「へ?秘訣、ですか?」
「ああ」
「そうですね。お互いに隠し事はしないことでしょうか?思っていることは互いに伝え合うように心がけています」
「ぐっ!」
臨時補佐官の彼が言う夫婦円満の秘訣は、嘘をついているアーノルドにはかなり痛いものだったらしい。
心が痛んだアーノルドは自分の胸を押さえた。
「あの、私は何か変なことでも口走りましたか?」
「いや、正論だ。君は正しい。ありがとう参考になったよ」
「そうですか。あ、でも私の妻は強がりなので、思っていることを全部は言ってくれなくて、だから妻のことをよく観察して彼女の悩みに気づけるようにしています」
「うぐっ!」
まるでそうする事が当然であるかのように言う臨時補佐官。またしても痛い言葉がヒットしたアーノルドはその場に蹲った。耳が痛い。
「そうか、教えてくれてありがとう。もう上がっても良いぞ」
これ以上ダメージを受けたくないアーノルドは彼を追い出すように退室させた。
(……やっぱり謝ろう。そうしよう)
もう謝るしかない。怒鳴られようと、無視されようと、身ぐるみを剥がされ、庭園の木に括り付けられようと、誠心誠意謝罪するほかに道はない。腹を括ったアーノルドは、残りの仕事をささっと片付けて、太陽が姿を隠し始める頃に執務室を出た。
「お届け物です、陛下」
執務室を出てすぐのアーノルドは後ろから声をかけられた。若干の怒気を含む声に怯みそうになりつつも、彼はゆっくりと振り向く。
薄暗い回廊。ひんやりとしたそよ風が肌を刺す。
そこに立っていたのは冷めた目をしたマーシャだった。マーシャは何も言わずに一通の封筒を差し出すと、アーノルドに背を向けてそそくさとその場を後にする。
「え、何?これ……」
「……」
「おーい。無視かよ。」
「……」
マーシャのコツコツというブーツの足音が、人気のない回廊に響いた。
結局、それが何であるかも告げずにただ手紙だけを渡して彼女は去っていってしまった。
「なんだよ、これ」
ラブレター、というのは、ありえない。
報告書、のような雰囲気もない。
とりあえず、この手紙に剃刀の刃とか入っていたら怖いので、アーノルドは封筒を回廊に灯されたあかりに透かしてみたが、どうやら大丈夫そうだ。
「開けるか……」
危険性のないことに安堵した彼は、謎に託された封を切った。
封筒に入っていたのは可愛らしい一枚の便箋。その内容は『シエナ様の扱い方』という物だった。
シエナの好きな物、シエナがご機嫌になる事、シエナの好きな時間や季節、気候などが記されたその手紙を隅から隅まで読むアーノルド。長い付き合いだが、思っていたよりも『自分は彼女のことを知らないのだ』ということがわかった彼は、真剣にその手紙を最後まで読んだ。
「これではマーシャの方がシエナのことをよく知っている……」
ずっと、おそらく初めて会った時からずっと、シエナに恋をしていた。けれど時がたつにつれて相手に対する興味を失っていたのは、アーノルドもまた、同じなのかもしれない。
文の最後には、先ほどまでの筆跡とは違う、達筆で可愛げのない字で一言、こう記されていた。
『謝罪あるのみ。罰は甘んじて受けよう。生きて帰ってくることを祈っている。 ロイ』
「怖っ……」
シエナへの謝罪が死を意味するかのような文言に、アーノルドは過去を思い出して肩を震わせた。しかし、これ以上逃げるわけにもいかない。彼はグッと顎を上げて寝室へと向かった。